株式会社でですけ 代表取締役 十河弘幸氏 | |
生年月日 | 1955年10月17日 |
プロフィール | 香川県高松市生まれ。法政大学、中退。1980年、青山にダイニング・バーをオープン。「でですけ」のオープンは1997年。2005年には、株式会社でですけを設立する。2019年現在、国内で8店舗の飲食店を経営する一方で、ベトナムではプロデュースにも注力している。 |
主な業態 | 「でですけ」「鳥ばか一代」「イクスヴァン」他 |
企業HP | http://www.dedesuke.com/ |
父親は大工の棟梁だった。四国、高松。「四人、家族です。姉が1人。じつは『株式会社でですけ』は、この姉といっしょに興すんです」。
十河氏が生まれたのは1955年。十河という苗字は高松に多いらしく、学校にも「十河くん」「十河さん」が何人かいたそうだ。
「私がこどもの頃は、親父の仕事もうまくいっていて、習い事もいろいろさせてもらいました」。
中学ではバレー部、キャプテン。
「私がキャプテンの時に、大会でボコボコにされちゃうんです。キャプテンなのに何もできなくて…。私は姉と2つ違いなんですが、姉は学校でも人気者で優等生、賢くて、スポーツも万能。そりゃ、比較されちゃいますよね。キャプテンになってばんかいしようと思っていたのに、何にもできなかった/笑」。
「それ以来、コンプレックスを抱え、だらだらと、それをひきずった」と十河氏。キャプテンの溜息の理由は、深いところにあったようだ。
進学したのは、高松商業。
玉石混交の高校だったそうだ。
「優秀な生徒はそれこそ東大とかね。でも、ビリになると、もう行く大学もないような。成績でクラスが分かれて、私は、いちばんアホなクラスです。いや冗談じゃなくて。運動ばっかりしている奴がいて、『そんなじゃ、どうしようもなくなるぞ』って、そう奴に言っていたんですが、いつの間にか、私のほうが下に/笑」。
ヤンチャだったらしいですね?
「あの頃は、そういう時代だったんですね。私もまぁ、ヤンチャだったんですが、身の危険はなかった。なぜかっていうと、いちばん悪くてヤバいのといっしょにいましたから/笑」。
「そういう意味では、社交性があったんだろう」と十河氏は、当時のヤンチャぶりを笑い飛ばす。
「だいたい悪ガキっていうより、ませガギですね。高松の田舎にも、当時からビリヤードやディスコがあって、入りびたりです」。
神戸にも何度も遊びに行った。昼より夜が、楽しみなる。
「両親は、理解がありましたね。私が不良でも、愛情を注いでくれました。ただ、2年の時かな。母と姉がみかねて、母から『一度、東京行ってこい』って送りだされるんです。いくらませていても高松の田舎もんでしょ。東京なんて、未知の世界。当時、姉が代々木上原に住んでいましたので、それだけが救いです。冬休みに、東京へ向かいました」。
どうでしたか?初めての大都会は。
「いやそれが…」と十河氏。
十河氏を案内してくれたのは、姉の友人の華やかな女子大生たち。。彼女たちは、友人のかわいい弟を、六本木や青山へと連れまわす。
「いやもう、ドキドキですよね。東京だけじゃなく、女子大生にも。あの人たちのおかげで『東京に行こう。しかも、学生じゃないと意味がない』と東京の大学に進学することを決心します。私の最初のターニングポイントですね。いうならば/笑」。
むろん、決心したところで、成績が浮上するわけじゃない。
「ラジオ講座聞きなよ」って、弟の決意を知った姉は、そう助言する。
「私にとっては、偉大な姉の一言ですからね。ええ、素直にラジオ講座を始めます。講座が開校する時に、早稲田大学の西尾先生っていう先生がいらして、こういうんですね。『君たち青年には、無限の可能性がある』って。もう、この一言ですね。そうだよな。オレには無限の可能性があるんだよなって」。
世界がかわったようだった。
「初めて猛勉強です。それまでは、勉強しても姉にはかなわない、なんてどこかで思っていたんでしょうね。でも、もう、私にも無限の可能性があるわけです。ラジオ講座ですか? 英語の講座もあったし、社会も、ぜんぶありましたよ」。
その成果はどうだったんだろう?
「私の定位置は350人の生徒のなかで2位だったんです。ビリからね。でも、ラジオ講座を始めて6ヵ月くらい経った7月の模試で、学年7位になるんです。今度は、頭からです。人生初の、ぶっちぎりです」。
すごいですね?
「ただ、現役の時はアウトで、2年目に法政大学に進みます。浪人して予備校に行くんですが、東京の予備校に行っちゃうんですね。もう、ご想像通りです。けっきょく私はラジオ講座1本で、大学に進学したようなもんですね/笑」。
法政大学進学。
予備校時代を想像するだけで、だいたい進学したあとの話もイメージできる。
十河氏、20歳。西暦でいえば1975年である。
ディスコが流行り、ハンバーガーが日常食になり、サーフィンもブームになる。砕けた世代でもある。「学生運動がにぎやかな時代ですね。私は、大学に、じつは6年行っています。法政大学って中核派の巣って言われていて、当時は講義どころじゃなかったもんですから、だれでも進級できるような時代だったんです。それでも私は6年。じつは、卒業もしていないんですけど/笑」。
アルバイトとディスコとサーフィン。サーフィンはのちに、週に3回、繰り出すほどになる。アルバイトはもちろん飲食。
「そうですね。最初から決めていたんです。『アルバイトは、青山で』って」。
アルバイトの求人雑誌をみて応募したのが、「ガスコン」。当時の表現を借りれば、もっともトレンディなレストランだったそう。
「有名なアーティストや、女優さんもいらして。店長が、また面白い人で、あだ名が『なまず』。スキンヘッドで、お客さんに『なまずさん』『なまずさん』て。でも、面白いだけじゃなくって、『飲食でいちばん大事なのは、お客様とのミュニケーションのちかさなんだ』って、いいことをいうんですね」。
入店当日の話だそう。
「それで、店のなかをみわたして、『だから、ぜんぶのお客様にあいさつしてこい』って」。
なかには、TVで観た人もいる。
「トーク力もないでしょ。だから、『大学1年生です。アルバイトも、学業もがんばります』っていいながら、テーブルを回るんです。すると、ある人がニックネームは? っていうから、アウトロー時代を思い出して『ヒロです』っていうんですね。すると、みんなが『ヒロくん』って言ってくださるようになり、しばらくすると定着しちゃうんですね」。
なまずさんとヒロ君。
ところで、どんな人が「ヒロ君」って言っていたのかと聞くと、錚々たる名が挙がった。一流アーティストしかり、有名な女優さんしかり。
「なんにしても、あの店長の一言は金言ですね。いまでも、いちばん大事なところにしまっています」。アルバイトを開始し、店長にも、飲食にも、すっかり魅了された。
もっとも飲食の本質を知るのは、このあとの話かもしれない。
十河氏がもうひとつの原点に挙げるのが、軽井沢にオープンしたレストランの話だ。夏の1シーズンだけの限定レストラン。店のお客さんだった広告代理店の人から、相談され、引き受けたそうだ。
「これも、20歳の時です。興味があったもんですから『ガスコン』を辞めさせてもらって。ハイ、ぜんぶイチからです。ショップのデザインから、人の採用、メニューもそうですし、レコードの選定もすべてやりました。広告代理店の人がオーナーって言えば、オーナーなんですが、口出しもなかったですし、代わりにアドバイスも一切なかったですね/笑」。
その店が繁盛する?
「そうですね。観光客もたくさんいらして。オーナーもびっくりしていましたが、ちゃんと利益もでました」。
十河氏は、「ちっちゃな成功体験」と笑う。しかし、十河氏にとって痛快なことでもあっただろう。中学時代からひきずったコンプレックスも吹っ飛ばせたにちがいない。
そのあとも、アルバイトに、ディスコに、サーフィンの、そんな日々がつづくが、やがて、転機が訪れる。母親が亡くなり、田舎にもどっていた姉が結婚してふたたび上京する。25歳になった頃には、十河氏にも結婚話が持ち上がり、それをきっかけにアルバイト生活を卒業する。
「結婚するのにアルバイトはまずいでしょ。だから、ちゃんとはたらかないといけないと思って、独立を決意するんです」。
かなり、ぶっ飛んだ発想だ。
「今思えば、そうですね。まだ、学生でしたしね」とさらりと言い放つ。
1980年、十河氏は青山にダイニング・バー「JAILHOUSE」をオープンする。14坪。開業資金は父親に保証人になってもらって借り入れた1500万円。
「そうですね。とんでもないチャレンジですよね。有名店出身のシェフも採用させてもらって、意気揚々、開業するんですが…」。
うまくいかなかったんですか?
「そう、軽井沢での、ちっちゃい成功体験なんかすぐに吹っ飛びます。バラ色だと思っていたものが、ぜんぶ、コテンパンにやられました」。
とはいえ、やられっぱなしというわけにはいかない。何しろ、背中に1500万円がのっている。
1年経った頃には、さらに銀行から借り入れ700万円かけ、改装もしている。
「シェフを解雇し、素人の専門料理で勝負しようと思ったんです。言ったら、開き直りですね。だって、もう人件費もないんです。だから、私ともう1人のバイトだけ。カクテルもつくるし、料理もするし、レコードもかけるし、洗い物もぜんぶ、やります。平日はランチからスタートです。それで、毎日、深夜まで、休みはもちろんなしです」。
やるしか、なかった。しかし、保証はない。
「そうですね。相当時間がかかりました。なんとか、長いトンネルを抜け出せたのは2年経った頃ですね。月商は当初の倍以上の500万円までになっていました」。
それからも業績は、悪くない。ただ、外因もあった。
「バブルになるんですね。日本中で宴がはじまります」。
このあとの1986年、十河氏はチャイニーズレストラン「HARDEN TIGHTEN」を青山にオープンする。この店には、超大物アーティストも、しばしば顔をだしたそうだ。
「こちらも最初の半月くらいは閑古鳥が鳴いていたんですが、『アンアン』が表紙に取り上げてくれ、4Pの特集まで掲載してくれたんです」。
いろんな縁が結ばれる。「当時の『アンアン』編集長と仲良が良くって、周富徳さんとも仲良くさせてもらって。じつは周さんには顧問もしてもらっていたんです」。
3号店もチャイニーズレストラン。「西麻布にオープンしたCT・ダイアモンドです。さきほどのアーティストさんは、こちらにもよくいらしてくださいました」。
芸能人も訪れる。それだけで、価値は上がる。
業績は順調にアップする。
「そりゃぁ、飲食店ですから、そんなに手放しでは喜べないわけですが、この時は、最高潮ですよね。もっとも、そういうのは、うちだけじゃなかったんですが」。
たしかに、当時は、毎夜、毎夜、宴だった。だが、バブルが弾けると、状況はいっぺんする。十河氏も旗色が悪くなった。それだけではない。タイミングが悪く、相続した土地の相続税が高く、10億円の借金が残った。天文学的な数字である。
バブルが破裂することで、日本の状況はいっぺんする。その余波は、小さなレストランにも押し寄せた。起死回生の一手として、1997年にオープンしたのが、「うどんでですけ」。
十河氏、41歳の時だ。
「でですけ」。
かわった名ですね?というと「今までとはちがうイメージで行きたかったんです。格好いいんじゃなくて、そう、愚直な響きがあるでしょ」と命名の理由を挙げる。
「最初に出店したのは神田です。有名な蕎麦屋さんもある街に『うどんと炙りもの』で打ってでるんです。うどんは、出身が香川だからですね。でも、それだけじゃ若い人は動かないと思って。そうだ、オレがいつも食べている炙りものだってひらめいて」。
どうでしたか?
「言葉は悪いですが、入れ食いですね。このあと、恵比寿に『でですけ』の2号店をオープンするんですが、こちらも大ヒットです。120坪あったので、団体客を取り組むことができたのも大きな勝因です」。
そして、2005年には、株式会社でですけを設立する。じつは「でですけ」、最初の社長は姉の千葉君代氏だ。
「姉に、社長をやってもらいました。それまでも、それからも姉は、ずっと経理担当です。私のわがままをいちばん、受け入れてくれた人です」。
なんでも、再婚した奥様とも姉妹のように仲が良かったそうだ。。だが、残念なことに、姉の君代氏は、このインタビューを行った4年前に他界されている。
現在、「でですけ」は、8店舗ある。食のサイトで調べてみるといずれも高い評価がついている。ホームページのメニューも観たが、旨そうで、すぐにでもたずねてみたくなった。
以下は沿革を抜粋。
1997年「うどんでですけ」開店(※)、1999年「恵比寿でですけ」開店、2000年「DDSK」開店、2001年「炭の屋でですけ」開店、2007年「鮨でですけ」開店、2008年「〇宿でですけ」開店(※)、2009年「ホルモンでですけ」開店、2011年「鳥ばか一代」開店、2012年「ビストロポチ」開店、2013年「XVIN」開店、2017年「でですけサイゴンキッチン」開店(※は閉店及び他社に移譲)。
ちなみに、8年前からベトナムでビジネスやっているそう。プロデュースや運営コンサルなどが主事業とのこと。4社にかかわり、3店舗は繁盛し、残り1店舗がとんとんらしい。3勝1分、悪い結果ではない。
「べトナムに行って思い知ったのは、日本のちからですね。たしかに経済的にも精彩をかいている日本ですが、ソフトのパワーは健在です。とくに飲食ですね。きめ細やかさで、右にでる国はないんじゃないでしょうか」。
話を聞いていると、なんだかもう一度、楽しみをみつけたと聞こえなくもない。高松から初めて上京した少年の、時と同じような。
それはともかく、高松出身のおませな少年が、いま東京で日本を代表するような食の世界をつくっている。それは紛れもない事実。書かなかったが、苦労もされている。ただ、けっして逃げなかったし、ごまかさなかった。「から、今がある」十河氏は言う。
もう一度いうと「でですけ」は愚直をイメージしている。つまり、愚直な人。今の十河氏を象徴しているような言葉でもある。
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