株式会社サンパーク 代表取締役 髙木 健氏 | |
生年月日 | 1959年5月3日 |
プロフィール | 慶應義塾大学卒。丸井やホテルなどで勤務し、30歳で結婚。31歳の時に、奥様の父親が経営するサンパークに次期社長として入社。改革をつづけ、赤字だった会社を立て直し、世界的な企業に育てる。 |
主な業態 | 「感激たぬき」「豚骨火山らーめん」他 |
企業HP | http://www.sunpark.ne.jp/ |
父親は代々京都に伝わる名家の出身。母方の祖父は、繊維事業で得た資金で全国に土地を買い、多彩な事業を始めた、政治家も一目置くような立身出世の人物だったそう。
そんな家系のDNAを受け継いだからだろう。「小さな頃からビジネスに興味があった」と今回、ご登場いただいた髙木氏は語る。
「そうですね。いつかはオレもって思っていました。小学生の頃は勉強もでき、灘中をめざし勉強に明け暮れていました。でも、失敗。それで、中学は公立に進むのですが、もう受験勉強はイヤだって/笑」。
灘中の試験といえば、大学生でも解けない難問ばかりだ。相当、勉強されたに違いない。その反動ももちろん理解できる。
中学の時は陸上部。スポーツに打ち込む一方で、3年には、「もうイヤだ」と思っていた勉強を開始する。
「とにかく大学受験をしたくなかったから、一貫校に進みたかった。その一心で、もう1回、猛烈に勉強します。おかげで慶應の付属に進むことができました。そして、勉強は終了です」。
高校では、器械体操部に所属する一方で、空手道場にも通ったそう。校舎は埼玉にあったから、当然、寮生活。
「入学早々、先輩らに『行くぞ』って言われて、連れていかれたのが新宿のディスコです。カクテル光線を受けてね。いがぐり頭の坊主が踊るわけです。そりゃもう、はたからみたらヘンですが、本人は、もう最高って/笑」。
ぜんぜん勉強しなかったというものの、無事、法学部にストレートで進んでいる。当時は、外交官になりたかったそうだ。もちろん、うんざりするくらい勉強しなければならないことを知り、断念している。
「大学時代は目黒に住んでいて、バイトして30万円の中古車も購入しました。大学には4年と2ヵ月、通ったんです」。ひとつ単位を取り忘れていて。
大学には、何年通っても悪くなかっただろう。
「当時は、慶應っていうだけでモテましたしね」。そう言って、髙木氏はニンマリと笑う。
正式に大学を卒業した髙木氏は、「丸井」に就職している。
「丸井だったのは、先輩がいたからなのですが、サービス業も案外、性に合っていたんでしょうね。1万人の社員の中で、毎週ベスト5に入る売り上げを達成していました。このあともホテルに転職し、ホテルマンを務めます」。ホテルマン時代には、スタッフエクスチェンジという制度を使って、半年間、オーストラリアでも働いていたそう。
むろん、ホテルマンで終わる人でもない。
「30歳で結婚するんですが、その時には知人と起業する計画も進んでいたんです。ただ、うちの創業者から『会社を売却する予定だが、キミがやってみないか』と」。事業継承の話が回ってきた。
悩んだ末、髙木氏は了解する。
「私を思ってのお話だったのですが、それでも、けっこうな決断でした。当時、年商3億円。社員10数名。ガソリンスタンド1つと、レストランが2つ。じつは赤字で倒産寸前でした。」。
それがサンパーク?
「そうです。サンパークは、1966年に大阪市北区に、サン石油を設立したのがはじまりです。1967年に吹田市に移転し、ガソリンスタンドとレストランの複合店舗を開業しました。これが飲食事業のはじまりです」。
ホームページによれば、そのあとも大阪府の北摂エリアを中心にレストランを出店されていたようだ。
「売上の大部分が、ガソリンスタンドです。だから、利益は薄い。レストランも赤字で、いうなら真っ赤かです/笑」。
「勝算なんてまったくなかったですが、ただ一つ、当時は職人の世界だったんですね。料理人が、トップに君臨しているようなね/笑。レストランには店長もいるのですが、みんなうつむいて仕事をしています。料理長のいる厨房とホールの間のコミュニケーションもまったくとれていないことに気づき、これだ、と思ったのです」。
入社早々、白い目で観られた。最初の肩書きは企画室室長。
「当時は10人です。でも、みんな私より年上。最初にあいさつにいった時に、部長がバンとぶつかってきて、『邪魔だ』って。これが、最初の洗礼です。子どもじゃないんですからね。笑っちゃいますよね。でも、その時は笑うこともできなかったですね」。
自分を奮い立たせるために「20XX年に、売り上げ100億、経常利益10億、関連会社10社」と目標を掲げ、壁に飾って毎日見ていました。2019年、売り上げは100億に到達。やはり願えば叶うものだ。
ともかく、古い体質だった。のちに社長になった髙木氏は、これを徹底的に改善していく。
「最初にやったのは、職人がいなくてもできる業態への転換です。まずは赤字経営のお店をフランチャイズ加盟店に変えるところから始めました」。
髙木氏が、1号店というのは1992年4月、千里中央セルシーにオープンした「洋麺屋ピエトロ」千里中央店のこと。なんでも様々な店を食べ歩き、「これだ」と思ったのが、福岡で出会った「洋麺屋ピエトロ」と愛知で出会った「びっくりドンキー」だったそう。まるで神が降りてくるような感覚すらあったそうだ。
首を横にふる「ピエトロ」の首脳陣を口説き、自身も福岡でオペレーションを学び、そして、既存の店舗をリニューアルし、オープンする。これが、大爆発。
「それまで、年間1000万円の赤字だった店が、1年後には6000万円の黒字です」。
改革の狼煙が、高々と舞い上がる。
「そして、今度はびっくりドンキーです。150坪の店を全面改装して、同じ年の11月にオープンします。こちらもおかげさまで大ヒットします」。
「日本でも、海外でも、うちは、自社ブランドとフランチャイズの店を同時に展開しています。これってめずらしいでしょ。海外は、色々難しかったですが、おかげさまで、40店舗以上を出店しています。今後も、注力していきたいですね」。
髙木氏が社長に就任して、27年が経つ。2つのフランチャイズからはじまった逆転劇は、いまや海外にまで舞台を広げている。2005年4月には、オリジナルの<お好み焼き・焼きそば「感激たぬき」>を開業し、自社ブランドもスタート。いまや、一段と高くなった、頂より髙木氏は未来を望んでいる。
その先に広がるのは、海外だ。
「日本より海外のほうが、人数が多いでしょ。日本人1億2000万人より、70億人を相手にしたほうが、そりゃいい。そのためには、考えないといけないこともいっぱいあるわけですけどね。それが、また愉しいじゃないですか」。
「私は『できる、できないか』ではなく、『やるか、やらないか』が重要だと思っています。まずは行動する。」
ホームページをみると、見慣れた名のFCもあるが、「これは?」と思うブランドもある。その一つが「豚骨火山らーめん」。髙木氏がアイデアをだして、開発した自社ブランドだ。
髙木氏、いわく、エンターテインメントらーめん店。ビデオをみせてもらったがたしかにエンターテインメントだ。「まず、高温にした石鍋に、麺と具を入れ、そのうえから熱々のスープを注ぎます。ここに、蓋をかぶせると、てっぺんから蒸気がもくもく立ち昇るんです」
「まるで火山噴火でしょ」と髙木氏。たしかに、面白い。
「もちろん、素材すべてにこだわり、味も一級品です」。どこで食べられるのか、とさがしたが、このらーめん、じつは日本ではまだ食せないそうだ。
1号店はシンガポールにある。「この店舗の開発・運営のリーダーを任せたのも、入社4年目、海外旅行経験すらない社員でした。英語もまったくしゃべれませんでしたが、物件探しも自分で行い、行列になる店舗を作っています。私たちは、社員に成長して欲しいという思いから、積極的にポジションを与えています」。
シンガポールから世界へ。この発想のスケールがいい。日本を軸に、海外へというのもいいが、海外から海外というのも、悪くない。髙木氏の目に映るのは、もうそんな時代だ。
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