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第768回 株式会社ヴィガー 代表取締役 手嶋雅彦氏
update 20/02/10
株式会社ヴィガー
手嶋雅彦氏
株式会社ヴィガー 代表取締役 手嶋雅彦氏
生年月日 1958年12月3日
プロフィール 大学を2年で中退し、役者の道へ。劇団青年座を皮切りに、いくつかの芸能事務所に所属し、役者の道を模索するものの、なかなか結果がでず、35歳の時、その道を断念。両親が経営する「五馬路」にもどり、新たに飲食の道をスタートする。店名はその時「五馬路」から、現在の「うま馬」に。現在、国内3店舗、海外6店舗(FC店)展開中。
主な業態 「博多うま馬」
企業HP http://www.hakataumauma.com/

博多ラーメンと、手嶋少年。

博多ラーメンの発祥には諸説あるそうだ。なかでも、有力なのが1941年創業の「三馬路(さんまろ)」。
今回、ご登場いただいた株式会社ヴィガーの代表取締役、手嶋雅彦氏にとっては、ある意味、家のルーツの一つとなっている。
「上海帰りの森堅太郎氏が、三馬路の創業者です。『三馬路』っていうのは、向こうでいう通りの名だそうです。この『三馬路』にうちの父と、父の義兄が弟子入りします。だからいうならば、『三馬路』が、うちの源流なんですね」。
のちに父と義兄は独立し、「五馬路」を開業する。それからしばらくして、父は義兄から「五馬路」を譲りうけることになった。
「小さな頃は、絶対、飲食なんかしないと思っていました。丸まった父の背中も、母の背中もみていましたからね」。
五馬路(屋台)は、福岡の祇園にあった。
「食卓に夕食が1人分置いてあるんですね。まだ、子どもだった頃はさみしてくってね。つい、屋台まで行ってしまうんです。それで、親父に怒られたりするんですけどね/笑」。
店を構えるようになっても、さみしさはかわらない。
「1階が店で、2階が住居です。よくあるやつですね。そうなっても、やっぱり飲食はイヤだった。トイレは店だし、ね。母親もあいかわらず仕事をしていましたし…」。
ちなみに、手嶋氏は1958年生まれ。昭和のど真ん中で生まれ、育っている。
「当時、私が暮らしていた祇園は、商売をしている家の子ばかりでした。サラリーマンの子なんて、いなかったんじゃないかなぁ。ま、祇園が飲食街っていうこともあったんだと思いますが」。
手嶋氏は、大学2年までこの祇園で暮らしている。
祇園や福岡という街を通して、高度経済成長期をみた1人にちがいない。

台風一過。

「もともとは落語家になりたかった」と手嶋氏はいう。
「ただ、ある時、紅テントの公演があって、友人と観に行くんですね。今もなんで行ったのか、ハッキリしないんですが」。
とにかく、すごい熱気だったそうだ。
これが、手嶋氏の人生の方向を決める。
座長はご存知、唐十郎氏。脇を固めるのは、根津甚八氏、小林薫氏など、今でも語り継がれる錚々たる面々だ。
「舞台も、凄かったんですけどね」と手嶋氏は、目を細める。
その日の福岡は、台風の影響で空が荒れていたそう。
「だから、テントの外で濡れながら待っていたんです。ようやくテントに入っても、なかなか舞台が始まらない。台風で準備が整っていなかったんでしょうね」。
観客は200人ほど。
「そのうち、しびれを切らした観客が『はやくしろよ』って怒鳴るんです。そうしたら、ドーランを顔半分だけ塗った唐十郎さんが、舞台に駆け上がってきて、『いま、いったのはどこのどいつだ』なんて。ええ、もう、喧嘩ごしです」
客も黙っていなかったらしい。
『おれだ。文句あんのか。さっさとやれ』
『なんだと、てめぇ』
「そうしたら、今度は、根津甚八さんとか、小林薫さんとかも次々でてくるんですね」。
舞台が終わった時には、深夜の12時を回っていたそうだ。終電を逃した人もいたようだ。ただ、手嶋氏は、終電などを気にすることもできなかった。あまりの衝撃だったからだ。
「あの、数時間で私の人生は決まったというか。そういう意味では、私の心のなかでの台風一過ですね。ものすごい嵐だった。おかげで、大学も2年で辞め、上京することになります。ええ、役者になるための、長い旅のはじまりです」。

ラーメンの匂いが立ち上がる。

「役者」という位置づけは、難しいと思う。はっきりとした線引きがないからだ。手嶋氏はどんな役者人生を歩むんだろうか?
ともかく、20歳で上京した手嶋氏は、無事、「劇団青年座」の研修生に合格する。
「青年座っていうのは、西田敏行さんがいらした劇団です。こちらの研修生としてスタートするんですが、正式な団員には採用されませんでした。それから、いろんな芸能事務所を転々として。TVのレポーターとか、ドラマのちょい役とか、そうですね、役者だけじゃ食べていけないから、結婚式の司会とか、飲食店の仕事もしました。なかなか役者で独り立ちはできなかったわけです」。
しかし、役者であったのも事実だ。辞めなければ、役者だといいつづけることもできる。
「奥さんも、元々タレントだったんです。私よりは、仕事があって、それで、5年くらいかな、彼女の世話になっていました/笑」。
何でも、最後の事務所は、有名なスポーツ選手が立ち上げた事務所だったらしい。
「35歳になった時ですね。当時、お世話になっていた事務所も自然消滅したりと、いろんなことがあって。もう、役者らしいことはしていなかったのに、『役者は辞めよう』って決意するんです」。
20歳から15年追いかけてきた役者という背中を、もう追いかけないことにした。気力も、気概もなくなっていた、という。
「でも、そうすると、何もないんですね。追いかけるものが…。どうしようか? もう、奥さんと結婚もしていましたし。そんな時、ふと、うちの店が、頭のなかに登場するんですね。なんなんでしょうね、アレって/笑」。
ラーメンの匂い、焼鳥の匂いまで、立ち上がる。目線は小さな頃だから、まだ低い。見上げると、酒の匂いをプンプンさせた大人たちが屈託なく笑っている。父親もまた、笑っている。
「飲食をやろう、と思ったのは、その時です。父も私が店を継ぐなんて思っていなかったから、そろそろ廃業しようと思っていたそうなんです。だから、タイミングも良かったっていえるかもしれませんね」。

ラーメン店、店主は、ソムリエ。

35歳になった時、手嶋氏は、福岡の祇園にあるラーメン店をつぐ。
「世の中のことをぜんぜん知らない。これが、仕事をはじめて最初に気づいたことです。役者の頃は、そういうことを勉強するもんじゃないと思っていましたからね。だから、お客様と話すのが新鮮で、接客がたのしくてしかたなかったですね。でも、最初は戸惑いました。嫁もいっしょに連れて帰ったわけですよ。でも、店の売上は、父と母が食べていくだけで精一杯。社員も、1人いましたしね」。
連日、満席とは言わないが、繁盛していたはずだ。いや、そういう記憶だっただけかもしれない。
「父親とは5年、いっしょにやるんですが、喧嘩ばかりでしたね。私は『ビジュアルだ』、というし、父は『味だ』と譲らない/笑」。
ただ、もめていても、客が来るわけがない。どうなっただろうか?
「話題になったのは、ワインのおかげ」と手嶋氏はいう。ワインのおかげ?ともう一度、質問すると役者時代の話になった。
「じつは、役者の頃、食べられないんで、ホテルで司会とかの仕事をしていたって言ったでしょ。その時、親しくなったホテルの人から『ソムリエ』って資格があるのを聞いていました。そこで福岡に戻ってラーメン屋をやりながら。独学で勉強しソムリエの資格を取ったんです。お金はなかったんですが、ワインには割と詳しくなっていきました。それで、当時の祇園にはまだないような、ヴィンテージ物のワインなんかをお出ししたんです。そうです。これが、バカ当たりするんです」。
父の店は10坪とけっして大きくなかった。しかし、それまでは空席が目立っていた。だか、ワインをだすようになってからは、逆に席がなくなった。外に列ができたのも、この頃。
手嶋氏が、商売人として、独り立ちした時と言えるだろう。

博多祇園、老舗のラーメン店、ふたたび。

当時の売上を聞いて驚いた。
「だいたい月商で900万円くらいは行きましたね。それで、反対していた父親からも了解を得て、2号店を出店します。こちらは700万円を売り上げます」。
なんでも2号店は入口以外、ガラス張り。ワインセラーを配置し、ヴィンテージ物を含む約200種類ちかいワインを収めていたそうだ。
その後もいろんなことがあった。
「3店舗目は、なかなかうまくいかなかった」と笑うが、じつは、フランチャイズで海外進出も果たしている。日本はもちろんだが、海外もまた、「ずっと好調だ」という。
今後、やりたいことは?と伺うと、「『三馬路』の復活」だという。「ラーメンブランドの原点で勝負したい」という思いとともに、博多の食文化を発信し、後世に残したいという熱い思いがそこにある。
「じつは、青年座の座長をはじめ、30人くらいだったかな。同期の人間が私のことを知っていたんで、公演があった時、店に来てくれたんですね。座長にあいさつに行ったら、座長が『これで、よかった』って言ってくださったんです。なんだか、すーっとね、役者を辞めてからも未練っていうか、どっかにあったんでしょうね。ほんとうに、あの一言で、すべてがすーっと消えてなくなったんです」。
現在、手嶋氏の店には、そうとは言っていないのに役者のタマゴたちがバイトに来るらしい。
「舞台は、ここにもある」。
彼、彼女らを応援しながらも、手嶋氏は、ひょっとしたら、そんなことも教えているかもしれない。
ちなみに、現在はクローズしているが、3店舗目となる「うま馬 大名店」では、映画「ロッカーズ」(陣内孝則監督)の撮影が行われた。その時、手嶋氏もちょい役で出演しているそうだ。

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