有限会社STPDファーストゲート 代表取締役 金井秀樹氏 | |
生年月日 | 1967年10月21日 |
プロフィール | 日本大学中退。日本料理店で2年間修業したのち、開業資金を貯めるためアルバイトに専念。25歳の時、母親の店だったお好み焼き店を買い取り、事業をスタートする。その店を義兄に譲ったあと、神楽坂に「はじめの一っぽ」をオープンし、創業オーナーとして実質的なスタートを切る。 |
主な業態 | 「はじめの一っぽ」「will」他 |
企業HP | http://www.hajimenoippo.co.jp/ |
金井氏は1967年、亀戸に生まれる。
「祖父は、和菓子店を経営していました。親父は自衛隊に入隊し、除隊したあと、アパート経営をやり、個人タクシーの運転手もしていました。父はとても厳しく、おかげで反骨精神が育ちます/笑」。
母親もクリーニング店やお好み焼き店を経営されていたそうだから、経営者一家でもある。ちなみに、金井氏には姉が1人いるのだが、その姉は今、占い師をされているそう。本を出すなど、著名な人らしい。
父と母、そして、姉と金井氏の4人家族。住まいは都内だが、都内といっても当時はまだ街が復興・再生する時代。いうなら昭和のど真ん中である。
「私は亀戸で生まれ、江戸川区で育つんですが、今とは全然違いますね」と金井氏。お父様の話も出たので、「どんな父親でしたか?」とたずねると、「怖い父だった」と一言。
「今じゃ、ちゃっと、ヤバイくらい」と笑う。
「ただ、当時はタクシーの運転手でしたから、私たちとタイムスケジュールが違うんです。だから、一緒に過ごすことは少なかった。ただ、休みの時などは、外食が好きな人だったんで、みんなでよく出かけましたね」。
ただ、外食に出かけたとしても、マナーが悪いといって怒られていたのかもしれない。
ところで、金井氏が高校生になると、母が店をだす。
「『ローンがあったから』と母は言います。ただ、もともとクリーニング店をやっていましたし、ある意味、商売が好きだったんでしょうね」。
金井氏も、勉強、部活の合間に仕事に駆りだされたそうだ。住宅街の、12坪の小さな店。はたして、売上はどうだったんだろうか?
それはともかく話を戻す。
金井氏、中・高の話。青春時代だ。「私は、中学から私立に進みます。進んだのは日大付属。ええ、中・高とも男子校です。どちらかといえば、勧めてくれたのは母ですね。父親は、学歴なんか、『くそくらえ』って人でしたから」。
どんな学生だったんですか?
「もう、卓球ばかり。私は、中・高の6年間を卓球に捧げています/笑」。
「野球で言えば、PL学園」と金井氏は表現する。高校時代の、卓球部の話。
何でも、中学時代は一番巧かったそう。だから、「高校でも」と何も考えず入部したそうである。しかし、それが苦難の始まり。トレーニングは朝7時から始まる。勉強をはさみ、昼の3時から練習は再開され、夜の9時、10時までつづく。盆も正月も、むろんない。最初25人いた仲間は1年で4人になったそう。
「相当、きつかったですね。でも、私も東京都の代表にもなりましたし、この6年は、大きな財産ですね。ただ、卓球ばっかりだったでしょ。引退すると、急に、何をしていいのやらわからなくなって/笑」。
大学からは推薦の話もきたが、続けるつもりはなかったそうだ。ともかく進学したのは、日大の法学部。しかし、すぐに退学している。
どうしてだろう?
「受験シーズンの時に、ですね。じつは親父と大喧嘩してしまったんです。親父にしたら、私が高校生になってもバイトもしないでしょ。勉強はしていますが、だらだらしているように映ったんでしょうね」。
「なんだ」「なんだよ」
売り言葉に、買い言葉。だんだん喧嘩は、エスカレートする。結局、金井氏は、この騒動で家を出ることになる。
「27歳までに父さんを超えてやる」と泣きながら、啖呵を切って。
「だから、大学に進学したものの、授業料は自腹です。これが、大学を中退する引き金となりました」。むろん、ゆっくりしている時間がないというのが、最大の理由。勝負は、27歳まで。のんびりしてられない。
「今では親父とも和解しているんですが、当時は私も若かったですからね」と金井氏は笑う。
「和解」とは、よかった。しかし、相当な時間がかかったのも事実だろう。ともあれ、「父を超える」決意が、今につながっているのは、間違いのないこと。そういう意味では、仲良く青あざをつくった、あの大喧嘩も無駄ではなかったことになる。それが、親子というもんだろうか。
大学を退学した金井氏は、日本料理店に就職する。多少なりとも、母親の影響があるのかもしれない。「就職したのは、秋葉原にあった、ある割烹です。こちらで2年、勤めました。ただ、2年やっても、もちろんお金は貯まりません。それで焦るんですね。父を超えるには、とにかく店をださないといけない。店をだすには、とにかく資金がいると/笑」。
何でもするつもりだったそう。
「とにかく資金を貯めないと何も始まらない。それで朝は弁当屋、夕方から居酒屋、夜はBARと、アルバイトを3つ同時に始めます。弁当屋では、アルバイトなのに営業に回されて、営業成績は言ってはなんですが社員を入れてもトップクラスでした」。
とにかく、働いた。
アルバイト開始から2年くらい経った頃だろうか。すでに通帳には、500万円がたまっていた。「遊びの誘惑にも負けなかった」と金井氏。とにかく、目標は「父、超え」。
「いつのまにか、自分との約束になっていたんです」。だから、目もくれず走りつづけた。ただ、最初に辿り着いたのは、12坪の、母の店だった。
「私が25歳の時です。母が体調を崩して、店を他の人にお願いしていたんですが、この店を、私がやることになるんですね」。
駅から離れた住宅街の、小さな12坪の店。
「普通だったら、やっていないと思います。でも、母がやっていた店でしょ。愛着もある。もちろん、親子といっても、取られるものは、きっちり取られます/笑」。
けっきょく、大事な軍資金の500万円が消える。
「全盛期には月商300万円になった時もあったと聞いていますが、私が引き継いだ頃は120万円で、精一杯。だいたい息子がやるっていっても、だれも知らない。母の時のお客さんは、みんなもう離れていましたからね」。
「だから、なんでもやった」と金井氏はいう。
「スーパーマーケットを回って、ビラを撒くのは当然で。そうそう、発泡スチロールにお好み焼きをいれて、工場に持って行ったこともありました。『これ、食べてください』って。ヘンな目でみられましたよ、最初はね。メニューも、見直します。そういうことを2年やって、月商は400万円になります。大変でしたが、いい意味で、これも財産になりましたね。やれば、できるというのも含めて」。
当時の年収は、1000万円を超えていたそうである。もちろん、「父、超え」達成だ。とはいえ、この店は結局、義理の兄に譲ることになる。
「いろんなことが重なり、またゼロからです。神楽坂にも店を出していたんですが、こちらも、全然だめで。どうしようか、と」。
父を超えることはできたが、その向こうには、それ以上に高いカベが用意されていた。
「いろいろやりましたね」と金井氏。
たしかに、ワインBAR、イタリアン、和食、ハンバーグ、お弁当、カフェと、いろんなジャンルを手がけておられる。思いつくものは、ぜんぶやるタイプだという。「思いついたら、やる。無謀ですが、そんな無謀なことをやったおかげで今があると思うと、そう無駄じゃなかったのは、事実ですね/笑」。
勝つ一方で、負けることもあったに違いない。ひょっとすれば、勝つことより負けることが大事な何かを教えてくれたのかもしれない。
「私は日本料理の道に進みましたが、2年で辞めているから、料理ができない。しかも、潤沢な資金もない。だから、店を出すにしても、うら通り」。
「私にあったのは、感性と知恵だけ」と金井氏。
この2つだけで勝負する。
それが、金井氏の真骨頂。
「大手チェーンなどの大資本は、商業施設に出店できますよね。でも、個人じゃ、到底、無理。だから、路地裏になる。でもね。こういうところからスタートした人は強いんですよ」。
「うちにも、独立したいと大手出身の人が来るんですが、言ってはなんですが、店長やっていたといっても全然なんですね。だって、大手チェーン店は、資本もある、立地もいい、ネームバリューだってあるわけです。管理はうまいけど、工夫がない。もったいないと思いますね。いい人材ばかりなのに」。
ところで、金井氏いわく、社名に副題があるという。
「路地裏小さな飲食店研究所」がそれ。
「一念発起して、独立しようとするでしょ。むろん、資金ゼロじゃできない。当然、リスクもある。実際、私もいろんな人をみてきたし、私も身をもって学んできた。そういう経験を、若い人たちのために活かしたいなと今、思っています」。
つまり、成功のサポートですね?
「そうです。うちの会社は小さいけど、中野と錦糸町の2つの店で、店主が生まれました。ええ、社内での独立組です」。
独立後も、年に数回は金井氏が店を訪問してアドバイスするそうだ。ロイヤリティはなく、多少ののれん代だけだから、なんともうらやましい話である。
「会社としては、そう大きくしていくつもりはないんです。専務も、そうSVだって、いならい。代わりに、独立して、成功する人をつくっていきたい。これが、今の私の仕事です」。
「その一方で、飲食店と土地の相性を追求していきたいと思っています」。
相性?
「そうです。この相性を大事にして、『街』に『店』を合わす。やりたいのは、そこです」。
「技術に溺れると、知恵が出ない」と金井氏は言った。
たしかに、そうなんだろう。お金に頼るだけでも、知恵は出ない。結局、飲食においても、成功するためには「知恵」の二文字がなくてはならないのだろう。少なくとも金井氏は、そう言っている。
敢えて、もう一つ付け加えるなら、熱い思いがあれば更にいい。金井氏の「父、超え」のような。そう、一番大事なものは、やはり、それだと思うからだ。今回、金井氏に教えてもらったことでもある。
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