株式会社Sunrise 代表 菊池厚志氏 | |
生年月日 | 1990年3月21日 |
プロフィール | 18歳からアルバイトを転々とし、様々な「職」を経験。20歳の時に飲食に絞り、独立を志す。24歳。川崎に1号店を出店。おなじコンセプトの店はつくらず、各店が共存するような店舗構成をめざし、2020年1月現在4ブランド、4店舗。川崎の町全体を横丁にする、という目標を掲げる。 |
主な業態 | 「HANABI」「シハチ鮮魚店」「魚炉魚炉」「華金」 |
企業HP | https://sunrise-kawasaki.com/ |
「いまも、むかしもそうですが、『だれかといっしょに』『みんなといっしょに』が好きなんです。だから、いま、この仕事をしているんでしょうね」。
今回、ご登場いただいた株式会社Sunriseの代表、菊池氏はそう言って笑う。「愛らぶ川崎」というコンセプトにも、その思いが表れているのかもしれない。
「川崎のみんなといっしょに」。
菊池氏が生まれたのは、1990年。きょうだいは3人で、菊池氏がいちばん下。父親は、菊池氏が生まれた年に「蕎麦屋」を開業している。
「小学校から高校まで、ずっと川崎です。ただ、高校は退学して、あとで通信の高校に進みます。スポーツは、小学校では剣道と水泳、中学ではバスケットボールです。このバスケのときに、みんなでやることの楽しさを知った気がします」。
勝つことより、楽しい?
「そうです。楽しい。いまもじつはそうなんです。もちろん、仕事ですから、勝つこともまた大事なんですけどね/笑」。むろん、そうだろう。とはいえ、「仲間といっしょにいること、それが目標でもかまわない」。菊池氏は、そういうことを思わせてくれる人だ。
「一つの転機はやっぱり高校を辞めたことですね。バイトしたり、あそんだり。バイトでいえば、とび職に、ペンキ屋、飲食店…、そうですね。20歳になるまで無数に経験しています」。
「そういう意味では、18からの2年間ですね。私が18歳の時に、2つ下の後輩が事故死するんです。昨日までいっしょにあそんでいたのに。人の死を経験したのははじめてでしたし、急に人がいなくなるなんてね。その時から人生観もかわりました」。
「フリーターを卒業したのは、20歳の時です。周りの人間が就職するんで、それにも多少は影響されたんだと思います」。
その時、選択したのが飲食店だった。
「バイトでいちばん楽しかったからです。私に合っているんでしょうね。親父も、そうだし、じつは祖父も飲食店を経営していたそうですから」。
なるほど、祖父も、父も、飲食の戦士。飲食の世界で菊池氏は、ある意味、サラブレッドだ。菊池という名馬は、どんな道を進んでいくのだろう?
当時、つまり、飲食で行くと決めた、その時から「独立をめざしていた」と菊池氏はいう。だから、狙いを定めて「串亭 リアルテイスト」で仕事をはじめたそうだ。
「一度、大阪の新世界に行ったことがあるんです。その時、あの独特の世界観に圧倒されたんです」。
新世界といえば、串かつが有名だ。
「そう、その串かつにも、その調理法にも驚いたんです。野菜、肉、魚…、食材は、なんでもありでしょ。揚げるだけなら、オレでもできる。その時のことを思い出して、やるなら、『串かつだ』と、『串かつ』にロックオンです/笑」。
それで、串亭?
「そうです。『串亭』は、新世界のように『こてこて』じゃない。おしゃれで、恰好いいんです/笑」。
「店長は50代の女性です。かわいがってくださいましたし、キッチンには口出ししないようにされていたので、私も自由にさせていただきました。私は、キッチンで『揚げ』を担当し、勉強するのが狙いだったんですが、キッチンの先輩もいい人で、素人の私に『あれをやってみろ。これやってみろ』と勉強させてくれました。おかげで、1年半で自信がつき、その店で知り合った先輩の1人といっしょに独立します」。
じつはいったん2人で独立したが、売上が思ったようには上がらず、連日、朝11時から深夜3時までつづく仕事で心労も重なり、けっきょく言い出しっぺの菊池氏が、店を離れることになる。
「『串揚げ花火』って、いう店名です。私は、1年でこの店を離れます。無駄骨だったといえば、そう映るかもしれませんが、じつは、この店をやったおかげで、今があるんです」。
どういうことだろう?
「『花火』をオープンしたのは、学芸大学だったんです。その店に、川崎から、ともだちがたくさん来てくれたんですね。すると、ほかのお客さんからも『川崎って、面白いよな』みたいなね。そういう話がでるんです。川崎を離れて、改めて『川崎って、いいよな』って気づいたわけです。それだけでも『花火』をオープンした意味があったと思っています」。
「川崎のポテンシャル」と菊池氏は表現する。
「これが、23歳の時です。川崎にもどって。今度は1人で起業をめざします」。
といっても、資金もなかったのでは?
「そうなんです。だから、最初に向かったのは、川崎の信用金庫です/笑」。
「うすっぺら」だったという事業計画書をもち、銀行の行き、頭を下げること、50回。出直すたびに、計画書はあつくなっていく。ついには信用金庫の担当者が折れたらしい。
「融資が下りたのは800万円。それを資金に、8坪17席でスタート。メインは、もちろん『串かつ』です」。
この時、24歳。
じつは、オープンしたとたん連日、盛況。菊池氏のともだちもせっせと顔をだしてくれたおかげで、通帳にはみたことがない数字が印字される。
一方、最初は1人でやるつもりでいたが、菊池氏を慕い、就職を希望する新人を受け入れ、8坪の店は、すぐに4人の社員でいっぱいになった。
「学芸大学の時の失敗がありますからね。最初は慎重だったんですが、だんだん『飲食ってこんなに簡単だったんだ』って。人間って、そうなっちゃいますよね。いまのナンバー2も、この時の社員なんです。よし、あいつのためにも、もう1店舗だそうって」。
それでつくったのが、川崎の超隠れ家である「華金」。知らなければ、絶対、たどりつくことができないそう。あまりに隠れ家すぎて、なかなか客が来なかったが、現在では、悪くても楽々、損益分岐点を超え、いい時には、2倍にもなるそうだ。
もっとも、いい時もあれば、悪い時もある。
「もう、6年(2020年現在)になるわけですが、『やっぱり、飲食は難しい』と改めて思い知らされたこともありますし、いま『居酒屋甲子園』で理事をしているんですが、すごい経営者がたくさんいらっしゃることも知りましたし、そうですね、『川崎』ともう一つ、『世界』って、キーワードもできました。海外で出店する店はもう決めているんです。『そうま』っていう蕎麦屋です。祖父の店、父の店とおなじ店名です/笑」。
もっとも海外に進む前に川崎でやりたいことがある。
「川崎って町全体を『食』の横丁にしたいんです」。
それが、育ててくれた恩返しだという。「食」で川崎を元気にする。それが狙い。
「川崎って、歓楽街だし、工業の町だし、雑多といえば雑多で、たしかに今もにぎやかな町なんですが、まだ、眠っているエネルギーがあると思うんです。『食』を通して、このエネルギーをひきだす、それが我々のミッションかな、と」。
なるほど、町の真ん中に「食」がある。面白い「町」になりそうだ。
菊池氏の構想は、日本各地の「食」をあつめた横丁をつくること。たしかに、日本各地の食文化が、「川崎」という横丁にならぶというのは、なんともスケールが大きく、なんとも愉快な試みだ。その時を期待しよう。
ターニングポイントの20歳の頃 | 型無修業時代 | 独立時代 |
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