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第783回 株式会社クーニーズ・アソシエ 代表取締役社長 青島邦彰氏
update 20/04/14
株式会社クーニーズ・アソシエ
青島邦彰氏
株式会社クーニーズ・アソシエ 代表取締役社長 青島邦彰氏
生年月日 1970年4月25日
プロフィール 神奈川県川崎市出身。中学を卒業し、とび職に。のちにバーテンダーとのダブルワークを開始。1990年、株式会社フェイバリットに就職。料理人の道をスタート。プランドゥーシー「代官山プレイス」のオープンに出向シェフとして参加。1997年、トータルプロデューサーとして「newsDELI表参道店」を大ヒットさせる。2003年9月2日、株式会社クーニーズ・アソシエ設立。
主な業態 「和 BISTRO gg」
企業HP http://cooneeds.com/

とび職とバーテンダーのWワーク。

トムクルーズ主演の映画「カクテル」に魅了された。今回、ご登場いただく、クーニーズ・アソシエの代表、青島邦彰氏のことである。小学生の時には、野球少年。小学5年の時はピッチャーとキャプテン。昔からリーダー的な存在だったらしい。審判にも反抗するような少年だったそう。
中学時代は、ヤンチャなタイプ。「スクールウォーズやビーバップハイスクールの時代でしたからね。TVにも影響されていたんでしょうね」。
もちろん、イジメなどとは無縁。
「高校には進学しませんでした。仕事を始めたのは、夏過ぎから。建築関係の仕事に就きました」。
日給8000円で多い時期には月収40万円あったそうだ。「ただ、車を買ったりして、貯金もぜんぜんなかった」と笑う。
ところで「カクテル」を観たのはいつ頃なんだろう?
「中学の時です。ええ、格好いいな、と」。
それが下地になって、バーテンダー?
「そうですね。建築関係の仕事といいましたが、私が始めたのはとび職です。朝7時からスタートしますが、ちゃんと残業なく終われますから、今でいうダブルワークですね。とび職が終わってから、バーテンダーです。寝る時間はなかったですが、それまでも朝まで飲んで、それから仕事をしていましたからね。まぁ、同じことか、と思って/笑」。
これが、18〜19歳の時の話。

20キロの鉄板が、この葉のように揺れる。

「中学を卒業し、高校にも進学せず、仕事は、ちゃんとしていましたが、夜な、夜なあそびまわる、そういう生活を送っていました。ただ、あるバーで師匠に出会い、一変します」。
その師匠との出合いのおかげで、今がある?
「間違いないですね。タイミングもあったと思います。長いことつづけてきたとび職ですが、こちらもちょっとな、と思うようになっていた時ですから」。
あるサッカー競技場の照明の足場を組んでいた時のことらしい。強風だったが、工期が遅れている。
「あの時はね。強風であおられ、20キロある鉄板がこの葉のよう舞っていたんです。それをみて、このままつづけていたら、さすがにヤバイと思って。それで、バーテンダー1本に絞ることにしたんです。だいたい、つるんであそぶのにも飽きてきた頃でしたし」。
人生の分岐点?
「そうですね。師匠の下で仕事をさせてもらうようになって。世界がガラリとかわります」。
とにかく、とび職、卒業。
いよいよ飲食の時代がスタートする。

14歳年上の師匠は、天才だった。

師匠は14歳上。話を聞くと、相当な人のようだ。「きびしかったと言えば、きびしかったですね。でも、辞めようとは思わなかったです」。
「バーテンダーで入社するんですが、調理補助みたいなもんです。私が、就職したのはバーなんですが、バーのほかにも、芸能人も御用達のディスコや、皇室も利用されるようなケータリング事業もされていて、そちらの仕事にも駆り出されます」。
朝から晩まで?
「そうですね。それまでのWワークの時とそうかわんなかったです。休みも月数回はあったか、どうか。それでいて給料は19万円。1/2以下です/笑」。
「怒られる一方で、盛り付けや手際がいいと褒めてもらいました。そうこうしているうちに、当然ですが、師匠との距離もだんだん縮まります。私が24歳の時ですね。バルブも崩壊して、何をしようかっていう話になって、その時、師匠と始めたのが、いまでいう『シェフの派遣』です」。
当時はまだシェフの派遣というのはなかったんですか?
「ええ、なかったですね。師匠は、料理の腕前はもちろんですが、アイデアも豊かな人で、いうなら天才ですね。1990年の初めのほうですから、まだ当時は、結婚式っていえば、式場やホテルだったんですね。それが、のちに、レストランウェディングやハウスウェディングって言葉が生まれ、事業にする会社がいくつも登場するわけですが、そのきっかけをつくったのも、じつは師匠なんです。最初にハウスウェディングを仕掛けた人ですからね」。
むろん、片腕となりつつあった青島氏も、ひと役買っている。

「newsDELI表参道店」のプロデュースで、青島邦彰の名は、メディアにも登場する。

「いつまでも師匠といっしょに、という思いもあったわけですが、私自身は料理人じゃなく、バーテンダーを志し、この世界に入ったわけで。どこかで、あれ、違うかな?と思っていたんです。ハウスウェディングなどへの、ケータリング事業も順調に育ち、私がいなくても大丈夫になっていたことと、私自身、プロデュースに興味が移っていたこともあって辞めさせていただきます」。
日本だけじゃなく、中国からの依頼で、上海にオープンするショップのプロデュースもしていたそうだ。そして、独立し、初めての仕事が、あの「newsDELI表参道店」のプロデュース。
「『デリカテッセン』って言葉もまだポピュラーじゃない時です。言ってみれば、私らが最初じゃないでしょうか。あのショップでは、レストランなら1500円はするイタリアン、フレンチ、スペインの料理を180円でだしたんです」。
料理人、青島氏だからできる発想ですね?
「そうですね。『newsDELI』はFCを含め、28店舗くらいまで出店します。その後、そこを離れて31歳の時に、会社を創業します。それが『クーニーズ・アソシエ』です」。

「料理ありき」の店づくり。

学歴が語るものは、たかが知れている。言い方をかえれば学歴など、そう意味がない。
「料理人の世界では特にそうですね。中学を卒業して、修業に入る、というケースもありますからね。私は、今もフレンチやイタリアン、和食と、様々な料理人に接しています。むろん、採用もしてきました。採用のプロセスで、学歴を基準にしたことはないですね。これからはオープンキッチンだと思って、創業当時から、うちは実践が教育です。その一方で『newsDELI』の時もそうですが、PLなどの数字もぜんぶ叩き込んでいます。歩留まりも、ぜんぶ把握しておかないと、怒ります」。
つまり、料理人もそういう時代なんだということですか?
「そういうことです。いままでのショップは、80%以上がデザイナーの手によるものです。あとは、大手の会社が、自社で開発しています。こちらはマネージャーが主導するショップづくりです。クーニーズ・アソシエは違います。デザイナーも、マネージャーもいません。料理人がショップをプロデュースします」。
「メニューから入る店舗プロデュース」と青島氏はいう。
たしかに、デザイン先行でも、マネジメント先行でもない。まず「料理」ありき。その発想がいい。
ただ、そのためには料理人も、料理以外を勉強しなければいけなくなる。
その点はどうなんだろう? 
「私自身がいい例だと思うんです。師匠の下で、料理もたしかに勉強しましたが、師匠はそれだけでは許してくれなかった/笑。さきほどいったPLやFLはもちろん、歩留まりも含め、ぜんぶ叩き込んでいないと、怒られます。ただ、そのおかげで、今があるのはたしかです。料理だけの、料理人だったら、どうなっていたでしょう? 『これほど仕事にのめり込めていたかな』とは思いますね」。
2020年、青島氏は50歳になる。独立して、19年。実績をみせていただいたが、「あれも、これも、知っている!」と膝を叩きたくなるショップがならぶ。
料理づくりは、ショップづくりから始まっている。照明、テーブル、イス、音楽、インテリア、スタッフの動線、それもじつは料理の一つかもしれない。
いずれにしても、一つの料理を最高に仕上げるショップづくりは、やはり、料理人の仕事なのだろう。青島氏の実績を改めて、観ていると、料理人が店舗をプロデュースする。これが、スタンダードになる日は、案外ちかいのかもしれないと思った。

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