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第805回 東京食彩株式会社 代表取締役 山寺昭彦氏
update 20/09/15
東京食彩株式会社
山寺昭彦氏
東京食彩株式会社 代表取締役 山寺昭彦氏
生年月日 1982年9月26日
プロフィール 父親の「料理人になれ」という一言を守り、高校卒業後、調理専門学校に進む。1年間、基礎を学んだのち、当時、日本を代表するトップレベルのイタリアレストランで修業を開始。起業は、27歳の時。現在、16店舗を展開するとともに、デリバリーやテイクアウト、物販にも注力する。
主な業態 「トラットリア クアルト」「コロッセオ中目黒」「アズーリ神楽坂」「ロマーノ五反田」他
企業HP https://tokyo-shokusai.co.jp/

高校までの話。

いろどり。
ホームページの料理をみて、社名の意味を理解できた気がした。赤と緑と青。光の三原色が重なって、社名の通り、食を彩っている。
今回は、この社名のような料理を生みだしてきた東京食彩株式会社の代表取締役、山寺昭彦氏にご登場いただいた。
山寺氏は1982年生まれ。父親は大手メーカーで勤務する、いわゆる転勤族。「小学校で3回転校している」と山寺氏は笑う。
「自分がリニューアルされるようで、案外楽しみだったし、元々ひょうきん者で、ものおじしない性格だったので、どこにいってもすぐに友達ができた」と言っている。
「兄がいるんですが、兄に影響されて、私も中学からバスケットボールをはじめます」。そのバスケットボールはもちろん、スポーツ全般、できは悪くなかったが、勉強は今一つ。
「勉強が嫌いだったので成績はクラスでビリでした。でも、高校受験前の3ヵ月間は猛勉強しました」。なんでも、好きだった女の子と同じ高校に進むためだったそう。大人になれば、微笑ましい話と笑って言えるが、当時は、そりゃ、真剣。
「彼女が行くと言っていた高校が県内の進学校で偏差値が高かったので、試験までの3ヵ月は本気モードです。生れてはじめてまじめに勉強というものをやりましたね。ただ、私は合格したんですが、彼女が落ちてしまいました。人生、うまくいかないことも勉強できた受験でした/笑」。

料理の道へ。

「うちの父は大手の製薬会社に勤務するサラリーマンでした」。話をうかがうと、かなりやり手。「ただ、突拍子もなく『蕎麦屋をオープンしたい』と言ったりしていました。成績が優秀なサラリーマンであったため、頑張るなら自身に全て責任がありリターンも大きい独立開業のみちを考えていたのだと思います。
じつは山寺氏は中学生の頃から、その父親に『料理人になれ』と言われて育ったそう。「だから、大学に行くつもりなんて全然ありませんでした」とのこと。せっかく進学校に進んだのにもったいない話だ。
「大学に行かないと決めていましたから、高校時代は好きなことをしていたかった。だから、勉強も部活もせず、アルバイト三昧の日々です」。
むろん、バイト先は飲食。フランス料理店でアルバイトをしていました。
料理人になれと育てられたわけですが、抵抗はなかったですか?
「全くありませんでした。元々素直な性格で先ず飲み込んでしまうので。笑。高校を卒業する時には、いよいよだと。ついに、その道がはじまる的な」。
「それで、進んだ学校が『辻調理師専門学校』です。卒業後は当時日本一と言われたイタリア料理店で修業を5年間しました。特段料理が好きで始めたわけではなかったけど、それが逆に良かったのかもしれない。好きで始めると期待値が高いから嫌な事があるとすぐに逃げ出したくなっちゃったり、現実とのギャップに悩んだりしちゃうのかもしれないけど、全然期待してなかったから途中からめちゃめちゃ楽しくなっちゃった。どんなに大好きだっていたって毎日やってみてくださいよ。ましてや修行となるとつらいことの方が多いでしょ?(笑)今から色々な業界に入っていく若い夢のある方たちに伝えたいんです。何でもいいからはまってやり抜く事が大事だと思うんですよね。プロになるまではどんなお仕事も大変ですけどプロになっちゃえば突然世界が開けて周りからも承認されて楽しいライフワークになりうると思うんです。それにしても業界自体ですが修業時代はコンプラのかけらもない本当にありえない恥ずかしい業界だったので、この業界も成熟してきて本当に良かったと心から思います/笑」。
単身、イタリアへ。
その後当時の修業時代の同期の仲間数人と独立。
特別、興味がなかったという「料理の世界」にすっかり魅了された証かもしれない。だから、料理の世界は奥が深い。

イタリア。

「最初は、向こうで修業するつもりだったんです」。
最初は?
「そうです。最初は、わくわくしていたんです。ローマの空港に着いた時には、『これがローマの空気か』って/笑。もちろん、いさんで料理店に行くわけですが、『あれ?』って」。
なにかがちがう?
「北から南まで旅をつづけながら、いろんな店に行くんですが、結局わかったのは『そうでもないな』ということでした。修行先だった先輩たちが長い年月をかけてものすごい前情報で僕の期待値をあげすぎちゃっていたんですね(笑)。一番おいしいと思ったのが、知り合いの店で僕らの為に出してくれた山奥の小さなレストランで食べた子羊なんですが、それは生後間もない小さな小さな子羊で、、日本だと生産の規格に、流通に無いものだったんですね。今日はお前らが来るから、まだ早いけど羊締めちゃったんだって。その気持ちがうれしくって。それを食べたときに、あれ?これ日本でも出来るし結局料理って食材とか人に対する気持ちなんじゃないかなって。基本的なイタリア料理は勿論、最先端のものまで既にすべてとっくに日本に入ってきてましたね/笑」。(
それで帰国するんですか?
「そうです。日本のイタリア料理は、既に成熟しており、かつ独自の進化すら遂げていたんですね。まぁ、それに気づけただけでも収穫でした」。
これが、山寺氏、25歳の時の話。
「帰国してからは、『一緒にやろう』と言ってくださった方がいらして、あるレストラン・バーの立ち上げを経験します。独立するにしても、立ち上げの経験がなかったもんですから、いい勉強をさせていただきました」。
むろん、独立は既定路線。
「起業したのは、27歳の時です。父に資本をだしてもらって、兄と、レストラン時代の同僚といっしょに中目黒に『コロッセオ中目黒』をオープンします」。
雑居ビルの2Fだったんですよね?
「固定費を下げるには、路面店ではなく2階がいいだろうと。 兄は、もともと星付きのフランス料理店で働いていました。兄以外の創業メンバーは、僕の修業時代の同僚で、計7名でのスタートでしたが、現在もそのうちの5名は在籍しています」。
休みなく働いた。修行時代から同僚とはもはや運命共同体だ。1年後、山寺氏たちは、神楽坂に新たな店をオープンしている。

逆に生まれた副産物。

現在、東京食彩は16店舗を出店している。いずれの店も評価が高く好調だ。とりわけ感心するのは、これだけ出店を重ねても無借金経営ということ。
しかも、つぎの戦略ももうスタートしている。
転機というのはありましたか? という質問に山寺氏はつぎのように回答する。
「もともと、うちのレストランは想定単価が高かったんです。単価8000円〜9000円くらい。ある時、元同僚の結婚したての、お子さんが出来たばかりの知り合いが来てくれたんですが、メニューを見てオーダーを躊躇しているんですね」。
たしかに、気軽なレストランとは言いにくい価格。
「転機といえば、その時です。『え、』って思うわけです。だれにでもおいしく食べてもらいたいという想いで働いていました。それが料理人です。なのに…」。
「これでは、だめだ」と言葉がでる。
「翌日から、今まで最低価格がアラカルトで1500円だったのですが全てを500円にしました/笑」。
お客さんの反応はいかがでしたか?
「ありがたいことに、それまで以上にご好評をいただきました。経営的にもプラス効果です。ただ、一つ問題があったのも事実です。さすがに1500円の時と、500円の時におなじ食材というのは、無理な話です/笑」。
とはいえ、それでは料理のレベルが下がる。通常なら、価格を上げるか、食材のレベルを下げるかだが、山寺氏はもう一つの道を選択する。
「私たちは修業時代、いい食材を贅沢に使用させてもらってきました。だから、食材のレベルは下げたくない。これで、いったん行き詰まるんですが、逆に副産物が生まれました」。
どういうことだろう?
「独自の仕入れルートを作ることができたんです。たしかに、料理人は料理が仕事ですが、じつは、それだけじゃない」。
いい食材をどう仕入れるか。 たしかに、これもまた料理人のスキルなのだろう。ただし、それに気づく人、気づかない人がいるのも事実。むろん、気づいたとしても、実行する人はそう多くない気がする。
僕らは今までキッチンで包丁しか握ったことが無いのに乗ったことのない大型なトラックの免許をとって運転して船から魚を買い付けしたり、船の免許をとって夜通し釣りをしたり、またある日は海女さんと潜ったり、これらはほんとに極僅かな一例ですがいろんなダイレクトチャレンジとトライ&エラーを繰り返しお客様に良い食材をリーズナブルにお求め頂くすべを学習しました。
僕はそれも「料理」だと思っています。現場に出れなくなっていく日が当然に増えていきますが、食材の交渉や開拓、発見などでも沢山のお客様に毎日お料理を作っている感覚でいることはとても大事にしている心構えの一つです。

料理人の矜持。

現在、東京食彩株式会社には正社員だけで90名が在籍している。正社員比率はほかの飲食企業に比べると高い。料理人は、6〜7割といったところ。グランドメニューはほとんどなく、当日納品された生鮮品で各セクションの若いシェフ達が腕をふるう。曰く、これが一番独立してからの「対応力」を生み世の中で生きていく力を養えるそうだ。
当然、コロナ禍のいま経営は厳しいはずだ。ところが、口をついてでてきたのは、「小さな会社にとっては、今は唯一大きな会社と同一条件で事業が出来る時期です。皆、等しく苦しい。であれば機転を利かせば必ずシェアが取れる。」という言葉だった。実際、「攻める」という。
「平時なら、小さい会社は大変です。いい物件は、みんな大資本に持っていかれてしまう。でも、今は違います」。はじめて借り入れも行い、資金も確保したそう。
「いままで無借金経営を続けてきたことで、銀行さんからも高く評価していただけました。さすがに一時は採算ベースを割っていましたが、今は回復しています。お弁当も1店舗当たり1日150食はでています。数年前から、勤務時間を減らすため、料理人でなくてもできる、簡単な下処理のみを行うセントラルキッチンをつくったんですが、そちらをもう少し活用すれば、2000食くらいはいけるんじゃないかと思っています」。
極め付きは「物販」だった。「メルカティーノ」という看板で店舗数を増やしている。
改めてホームページをみると、テイクアウトメニューの充実がうかがえた。ただ、それだけではなく、野菜や果物が市場のようにならんでいる写真があった。
仕入れルートを活用した生鮮三品の販売。ふつうの市場に並ぶものと比較しても鮮度の違いは明らか。何より、料理人がチョイスし、食材に関する説明や調理方法を聞いたうえで購入できるのだから、味は保証付き。つい手に取ってしまうのではないか。
これもまた、飲食の新たな道かもしれない。
「ウイズコロナとか、アフターコロナとかが、現在のキーワードですよね。たしかに、生活様式も行動様式も変わります。だから、当然飲食も変わっていかないといけない。ビルドもスクラップも大胆にしていかないといけないでしょうね。でも、根本は変わらないと私は思います。つまり、おいしいものを、だれにでもおいしく食べてもらいたい、この気持ちを大事にし、お客様にとって何が便利で楽しめて生活を豊かにするか。答えは必ずお客様が握っていらっしゃいますから、思いやりのある、優しい企業がリードしますよね。それを考えてビルドを加速させます」。
たしかに、そうだ。
料理人の矜持は、もう、厨房のなかだけで語られる時代ではないのかもしれない。ちなみに、スタッフの書いているホームページにあるブログも面白い。一度、観られることをお勧めする。

思い出のアルバム
 
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