がんこフードサービス株式会社 代表取締役 小嶋達典氏 | |
生年月日 | 1968年12月11日 |
プロフィール | 大学卒業後、老舗料亭で料理の修業を開始する、いったん大手電機メーカーでサラリーマンを経験したのち、父親が経営するがんこフードサービス株式会社に入社。関連会社の株式会社リトル沖縄オーバーシーズの社長、がんこの営業本部長を経て、50歳の時に現職に就任。 |
主な業態 | 「寿司・和食がんこ」「とんかつがんこ」「回転寿司がんこ」「こがんこ」「がんこ豆富」他 |
企業HP | https://www.gankofood.co.jp/ |
「小学校の時は、東大行って、寿司屋になると話していたらしい」という。
現、がんこフードサービス株式会社の社長、小嶋氏の話である。「幼少の頃より、十三で暮らしていました」。
<十三といえば、がんこ寿司の創業の地ですね?>
「そうです。がんこ寿司 は1963年、十三で4坪半の小さな店からスタートします。私の父の小嶋淳司が創業者です。姉はいますが、私が長男ですから、父はともかく、私はいずれ寿司屋になると思っていました」。
<だから、東大に行って、寿司屋になる?>
「ええ、東大っていうのが無茶無茶ですが。たぶん、大学いうたら、それしか知らんかったんでしょうね/笑」。
スポーツの話もうかがった。
「小・中は剣道です。剣道は小1から習いました。父とですか? そうですね。キャッチボールくらいはしてもらったと思いますが」。
<高校では、ラグビーだそうですね>
「それまで剣道一本です。高校生にもなったから、ちがうスポーツもいいだろうと、ラグビーをはじめます。最初は、アメリカフットボールと迷ったんですが、あっちは丸刈りだったもんですから/笑」。
丸刈りではなかったが、練習はハンパなかった。36人が入部して、1年後、残ったのはたった7人。小嶋氏もなんとかくらいついた。
「大学は、京都佛教大学に進みます」。もちろん、大学でもラグビー。ポジションはウイング。
「高校時代は、練習漬けでしたが、大学では自由な時間もそれなりにあって、バイトも経験しました」。
大学を卒業すれば「食」の道に進む。小嶋氏は、抵抗なく、その道を受け入れていたようだ。大学4年生の頃には、父の淳司氏を「社長と観るようになっていた」とも明かす。
むろん、父、淳司氏は、小嶋氏にとって飲食の大先輩でもある。
「大学卒業後、板前になりたかった私は、京都の老舗料亭に就職します」。就職より、ただしくは丁稚奉公。1年目の給料が6万円。2年目になって8万円。
高校時代の部活より、ある意味、きびしい。
「2DKに6人くらいで暮らしていました。仕事では18時間立ちっぱなしです」。
以前、父親の淳司氏を取材させていただいた時、たしか、つぎように語っておられた。「寿司職人になるには5年はかかると言われました。ですが1年でやると決めたんです」。修行先に選んだのは、黒門市場にある寿司の名店。淳司氏27歳の時の話。ずいぶん、おそい修業開始である。「新聞を海苔の大きさに切って、残ったごはんとこんにゃくとで巻き寿司をつくるんです」。
親子は、ある意味、おなじ道を進む。
「ただ、私は、2年間、お世話になったあと、じつはある大手電機メーカーさんに就職します。うちの主要なお客さんである、『サラリーマン』の世界を経験しておいたほうがいいかなと思って」。
<組織の運営なども、勉強できたのではないですか?>
「いやぁ、スケールがでかすぎて。ただ、はじめて有給っていう制度を知ったのはよかったですね/笑」。
がんこフードサービスに転職し、最初に配属されたのは「高瀬川二条苑」。下足番からのスタートだったそう。
「二条苑」は、梅の花、鴨川の水音、紅葉など、京都の四季折々が楽しめる、がんこフードサービスの代表的な店舗でもある。
「二条苑では2年ですね。スタッフと親しくなって、京都の寮にも泊まらせてもらいました。そのあと、三条店に行き、六地蔵でオープンから店長として仕事をさせてもらいます。しかし、オープンは初めてで、不安だらけでした」。
初のオープン店長。業績は、どうだったんだろう?
「1日1000人のお客様が、2〜3ヵ月つづきました。オープンするとたちまち200席が満席です。業績は悪くなかったけど、ぜんぜんあかんかったですね。料理も、ドリンクもぜんぜんでぇへん。段取りが悪かったんです。今なら、そう思えるんですが、波のようにいらっしゃるお客様をみたら、なにもでけへんかったというのが、正直なところとちゃいますかね」。
ただ、ひたすら動く。がむしゃらに。むろん、いい経験になった。自信にもなった。その後、小嶋氏は、現場から少しずつ離れることになる。
「営業企画や、メニュー開発といった仕事から、業態の開発までを経験します。コリアン料理とカフェが融合したショップなども開発しますが、なかなか思うようにはいきません」。
その時、小嶋氏は、ほかの飲食をひんぱんに訪れることになる。
「オペレーションファクトリーさんって会社があって、よく行きました。格好いいなぁ、と参考にもさせてもらっています」。
この素直さも、小嶋氏は真骨頂。「バカ正直」、これも、父、淳司氏ゆずりだ。
<新業態は、どうなるんでしょう?>
「『がんこ』以外の業態つくっていかないといけない時代です。お客様の層も広げていかないとと思っています。そのために、外部のコンサルタントに入っていただくのも一つの手かなと」。
じつは、小嶋氏のインタビューは、これが2回目。1度目はもう9年くらい前になる。その時は、株式会社リトル沖縄オーバーシーズ、代表取締役社長だった。
「ほかにだれもやる人がいなくて/笑。ただ、結果的にはトラブルもなく、うまくいったと思います」。
「料理に関しては、ほとんどなにも言っていない」と小嶋氏は笑う。3年間、東京に住み、そののち、大阪にもどり、リトル沖縄オーバーシーズをみながら、もう一方で、がんこの営業本部もみることになる。
「45歳くらいの時ですね。この時はまだ、社長の話はぜんぜんなかったですね」。
父、淳司氏は、どんなプランを想定されていたのだろう?
「社長になったのは、じつは2018年です。50歳というのもあったんじゃないでしょうか」。
ひと区切り、ということか。
しかし、飲食はタイミングもむずかしい。いろんな外部要因にも左右されるからだ。
父、淳司氏にうかがった話では、海苔が品薄になり、高騰した時の話が印象的だった。なんでも通常の数倍の価格で「海苔をゆずってくれないか」と、がんこにまで話がきたそうだ。
政府が魚を食べてはいけないという、寿司屋にとって致命的な発表を行ったという話もうかがった。
BSE問題も、鳥インフルエンザも、ある意味、おなじ。今回の、コロナウイルスの問題も、いえば、同類。しかし、なかなか、こいつは、しつこい。
「まずは、生き残ること。そこに重点をおきつつ、つぎのステップの準備もしておくというスタンスです。経営のスリム化ももちろんだし…、とにかく、1年は辛抱と思っています」。
たしかに「辛抱」という言葉が、これほど日本人の共通言語になった時代もないだろう。
「自粛」からスタートし、いま(2020.7.23)は解禁はされたものの、「密」はいまだ避けなければならない。この「辛抱」はいつまでか、という指針もまだない。だから、よけいつらい。
「でも、ある意味、新たな『がんこ』をつくる、チャレンジが今から始まると思ってもいいわけです。父が、いろいろな問題を乗り越えてきたように、私も、絶対、乗り切ってみせます」。
方法はいろいろあるが、やはり、そこは、バカ正直に。それが、「がんこ」という大組織を動かす、カギとなるだろう。いや、ただしくいえば、時代を動かすキーになるかはずだ。
2代目の、バカ正直。
さて、つぎにお会いする時はどんな話が聞けるだろう?
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