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第81回 株式会社せたが屋 代表取締役 前島司氏
update 09/11/24
株式会社サンクスプラス
桝本幸典氏
株式会社せたが屋 代表取締役 前島司氏
生年月日 1962年11月28日生まれ
プロフィール 東京都豊島区生まれ。割烹料理店の職人の父を持つ。少年時代は、一言で言えば「やんちゃ」。授業はサボるが部活は真面目に頑張っていた。
様々な仕事を転々とした末、37歳の頃、激戦区環七にラーメン店を出店。
お客がついてこず、一度店を閉めるという経験も味わうが、「夢を諦めまい」と奮起し現在は国内だけでなく、ニューヨークも含めた11店舗のラーメン店を経営。
主な業態 「せたが屋」
企業HP http://www.setaga-ya.com/

料理人、前島が生まれたキッカケは「カギっ子」

物心ついたときから、父親は料理人。母親も父の割烹料理屋を手伝っていた。そのせいもあって「将来、自分は料理人になるんだろうなぁ」と漠然と思っていたという前島。両親は2人とも帰宅するのが遅かった。いわゆる「カギっ子」である。学校から帰ってくると、食卓の上には作りおきのカレーか、それがない日は棚に積み上げられたインスタントラーメン。本当は、家族みんなであたたかい食事をしたかったに違いない。しかしこれが、意外にも「料理人、前島」の基礎を形づくることになる。毎日同じインスタントラーメンではさすがに飽きてしまう。そこで前島は、野菜を切っていれてみたり、麺を牛乳でゆでてみたりするなど、自ら味を変える工夫をした。料理に対する興味、味付けの楽しさを独学で覚えたのである。この「独学」こそが、後の前島を形作る上で需要なキーワードとなる。

プロゴルファーを目指して。

小学生の頃に両親が離婚。住み慣れた池袋から母親の実家のある高知に移り住むことになった。慣れない土地、慣れない言葉。東京から来たというだけで、いじめられたこともある。しかしそこは、持ち前の明るさと人なつっこさで解消。逆に多くの友達ができた。勉強よりも、遊んだり、野球やサッカーをやったりすることのほうが好きだった。高校1年の頃バイクに夢中になる。そのおかげで、高校を1年で中退。友人の紹介で洋食レストランに就職する。「コック長が知り合いだったこともあり、毎日楽しかったですね」と前島。楽しかったのは、料理のせいだけではないだろう。この頃、レストランの社長の娘さんと付き合い始めたからである。
その彼女が、東京の大学へ進学することになる。前島も追いかけて半年遅れで東京へ。しかし、仕事に就いては辞め、就いては辞めの繰り返し。「このままでは彼女に食べさせてやることができない」と、一念発起し、栃木のゴルフスクールに入校。前島はゴルフには自信があった。経験はほぼなかったが、たまたま回ったラウンドで驚異的なスコアをたたき出してから「自分はゴルフに向いているんじゃないか」と考えたのである。キャディとして仕事をする傍ら、ゴルフの勉強を始める。しかし、これが裏目に出た。今さらプロを目指し始めた前島に、彼女が不安を抱いたのである。東京―栃木という遠距離になったのも原因のひとつで、結局彼女とは別れてしまうことになる。

ラーメンに目覚める。そして、37歳で店を構える。

失意の中でゴルファーの道も諦め、父親の経営する割烹料理屋を手伝おうと池袋へ戻った。しかし、再婚した義理の母親とウマが合わず、黙って店を飛び出してしまった。その後有名プロゴルファーが作った会社で、ゴルフ会員権の営業をしたり、電話営業の会社でひたすら電話をしたりするのだが、どれも1年と続かなかった。唯一長く続いた仕事は「ペンキ屋」。自分の都合で仕事の段取りを組み立てられ、給料もよかったからだ。3年勤めて、その後、独立。多くのお客さんが自分についてきてくれたおかげで、仕事は順調だった。
この頃、前島は、すでに「ラーメン屋をやろう」と心に決めていた。仕事が終わった後に同僚と飲みに行ったり、食事に行く機会が増えた。〆はラーメン。「衝撃を受けました。ラーメンって中華料理店のメニューのひとつにすぎないと思っていたんです。ところが、ラーメンしか出さない店に行列ができているじゃないですか。これは将来イケる、って思ったんです」。
ペンキ屋に身を投じたのは、ラーメン店を出すための独立資金を稼ぐだめであった。そのために10年頑張り、結果800万円ほどの貯金に成功。店舗は、得意先が「環七に焼き鳥店を出店する友人に貸す」と言っていた物件を頼み込んで貸してもらう。こうして2000年6月、ラーメン激戦区の環七で、ラーメン店「よさこい」は満を持してオープンした。

挫折、そして再起。

ところがこの「よさこい」、世間からの評判は良くなかった。来店する客が、1日に10人を切ることもあった。「ハッキリ言って、マズかったんです(笑)」。自宅で研究していた頃は、ピンポイントで納得のいく味は出せる。しかし、いざ営業となると、常に同じ味を生み出さないといけない。その知識が前島にはなかったのだ。「味がブレるんですね。毎回味が変わる上に、スープも炊き続ければいいってもんじゃない。友人にも『こんなマズイなら二度と来ない』と言われたことがあります」。友人に辛らつな意見をもらったその日に、一旦店を閉めた。オープンからたった3ヶ月。激戦区の環七で、挫折を味わった。
ペンキ屋に戻ろうかとも考えたことがある。しかし、夢をこのまま諦めたくない。前島は、店を借りっぱなしにしてさらに研究を重ねた。ここでも、誰かに作り方を聞いたわけではない。本を読み漁り、他店へ食べに行った。貯金が底をついたので、ペンキ屋の仕事を続けながらだった。4ヶ月後、ついに完璧なラーメンが出来上がった。今度は味もブレない。具材、スープ、内装全てを一新した。店名も世田谷区にあったので「せたが屋」に変えた。自らビラを配り、営業活動にも力を入れた。おかげでオープン当初の集客は上々。その後も口コミでお客さんが増え、1日に安定して100杯は出るようになった。そしてついにはマスコミの取材も入るようになった。
成功の秘訣を、前島は振り返る。「独学をしたことで、随分回り道をしたように思います。1年でわかることを、10年かかって理解したというかんじです。でも、だからこそ自分の引き出しが増えたし、粘り強さや勉強することの大切さも身についた。どこかの有名店で修行したほうが早く独立できたかもしれないけど、僕はこれでよかったと思っています」。今後、さらにいろんなジャンルのラーメン店を生み出したいと語る前島。彼のあくなき挑戦は、まだまだ続く。

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