株式会社浪漫家グループ 代表取締役 福井将一氏 | |
生年月日 | 1963年9月14日 |
プロフィール | 高校卒業後、様々な職業につき、夢の啓示に従って、飲食事業を開始。フランチャイズからスタートし、9年目に自社ブランドをリリース。京都、今池で、記録的な売上を記録する。 |
主な業態 | 「炭焼 浪漫家」「炭焼 ろまん家」「とり匠 ふく井」他 |
企業HP | http://www.romanya.jp/ |
「ハッピー・バースデイ・トゥー・ユー♪」「ハッピー・バースデイ・トゥー・ユー♪」
福井氏の歌がこだまする。テーブルには、福井氏の渾身のスイーツ。「最初はうちのアルバイトもモジモジやっとったんやけど、だんだんみんな調子でてきて」。小さな店がバースデイソングに包まれる。「本人らは、ボロボロやったんちゃうやろか」。
30年以上も前の、小さなお店での話。
「24歳の時に『低資金でも開業できる』が謳い文句の、あるフランチャイズに加盟して、京都伏見にある赤字店をひきつぎます。そりゃ、赤字ですからね/笑」。
最初から、全力。
「ハッピー・バースデイ・トゥー・ユー♪は、『今日、彼女のバースデイやから、なんかしたってな』っていう一言のリクエストからはじまります。まだ、お客さんもついてない頃やったからね。そりゃ、心込めますわ」。
いまもそうだが、なんでも、全力。
「口コミで、『おもろい店長がおる』って広がったんかな。県をまたいでぎょうさんお客さんがきてくりゃはるようになって。ありがたいことに、赤字はどこへやらですわ」。
「飲食は儲かる」。これが、最初の体験。
フランチャイズの研修店にもなって、本部のスタッフになり30店舗だったFCを126店舗まで広げたそう。「うちの店は遠隔操作でカバーしながら、私自身は今日は名古屋、明日は金沢みたいな、もう寝る間もない。睡眠いうたらサービスエリアでウトウトするくらい。で、さっきいうたみたいに、『2年で126店舗まで広げる』わけです。その126店目が、じつは、うちの京都、赤池のお店なんですけどね」。
「独立から2年で5店舗まで拡大しました」と、福井氏は笑う。「採算はぜんぜんあいませんが、『オレは、できる』という自信が確信にかわったのは、この時ですね/笑」。
福井氏が生まれたのは、1963年。京都市中京区。
「親父はもともとサラリーマンだったんですが、独立して染工場をはじめます。親父の、社員にやる気を与えている姿がめっちゃ格好よかった。こうやって仕事するんやぞ。そんな姿を見て『オレも社長になろ』と思っていました」。
そんな父親からは、小さい時から「やるなら、現金商売」と言われていたそう。「昔は、おとなしい子やったんです。でも、中学で陸上やるようになって性格がかわって。高校は、ラグビー、工業高校です」。
ハナから、大学進学は頭にない。「ただ、これをやるというのもなかった。最初に就職した会社は1年半しかつづけへんかった。あとは、フリーター。あの頃は、転職のオニでしたね、まさに」。
自身でみつけた、最初の未来は、「フルーツ・パーラー」。「19歳の時ですね。とつぜん、フルーツ・パーラーをやっている夢をみるんです」。
思い立ったら、行動は早い。
「すぐ、中央市場の仲卸の果物店で社員として働かせてもらいます。そりゃ、フルーツを極めなあかんから。ただ、これもまた、あほみたいに頑張りましてね。19歳で市場の世界に入って、20歳の時にはもうセリに立っていました。たぶん、最年少記録です/笑」。
21歳になると、軽トラックにフルーツを積んでビジネスを開始。「定期便みたいになって、飲食店からも注文をいただきます。もちろん、フルーツ・パーラーをするための軍資金獲得が目的ですかね。でもある時、ふと、コーヒー飲んだり、パフェ食べたりしてもろうて、いったいいくら儲かるんやろって」。
計算機をたたいた。「でね。結論は、利益がない!みたいな/笑」。
つまり、起業のきっかけはフルーツ・パーラー。だけど、やったのはフルーツ・パーラーじゃやないってことですね?
「そうそう。いろいろ準備を進めているうちに、フルーツ・パーラーは儲からへんという事実に思い至ったわけです」。
タイミングもあった。ある喫茶店のオーナーが「いまどき、喫茶店は儲からへん」と、串かつ店をオープンする。
「オープン前から話を聞いていたもんですから、もう興味津々なわけです。ええ、毎晩、出勤です/笑。だいたい観てたらわかるんです。サラリーマンばかりやったんですが、食べて、飲んで、『ごちそうさん』いうて、帰らはる。だいたい1人3500円。フルーツ・パーラーの3.5倍の客単価です。こりゃ、儲かるやん!って/笑」。
「この時、はじめて、本を読んだ」と笑う。ワタミフードサービスの渡邉美樹さんの自叙伝「青年社長」だ。「最初は、パーラーやったんが、これで完全に方向転換です。でも、ぜんぜんお金がない/笑」。
でも、もうとまらない?
「そうですね。とまらへん。そんな性格ですから/笑」。
そんな時に、知人から「大吉」の独立システムの話を聞く。「ええやん、これやと思うんですが、京都でやりたかったから、私は大吉さんとは異なる会社と契約します。あとは、さきほどお話した通りです。けっきょく、私の店は研修店になって、私自身は本部スタッフともなって、126店舗まで店を広げます」。
父親は「現金商売をしろ」といった。じつは、福井氏だけではなく、弟も、おなじやきとりで独立し、現金商売をしている。京都駅にある「きんぎょ」という店舗らしい。
「焼き鳥の本部スタッフとして出店を伸ばし11年で退職、1998年10月に有限会社 浪漫家グループを創業しました。これが、ドル箱。13坪、40席で、月商500万円。スタッフは4人に。月商の1/2が残ります。ええ、毎月です」。
けっきょく、創業から2年で5店舗まで拡大。
「経営の神かもしれへん」。
自信は、やはり確信にかわる。しかし…。
「当時、道路交通法がかわって。あれが最初のピンチです。郊外は、うちだけやなくて、たいへんやったと思います。翌年、今度は鳥インフルエンザです。お客さんが、さーとおらへんなった/笑」。
「にげてた」と福井氏は表現する。
毎月400万円の赤字。「じつはね。みんな、にげだしよったんです。それは、私から。『こうしたい』『ああしたい』と思ったら、すぐやるタイプでしょ。みんなついてこられへんかったんですわ」。
会社の首脳陣が一斉に退職する。
「悪いのは、私」と、福井氏はいうが、当時は、どういう思いだったろう。
「彼らがみんなおらへんなって、そのあとです。道路交通法の改正でしょ。で、鳥インフルエンザです。そりゃ、頭もおかしくなります。心も折れました」。
躁うつ病だったらしい。いつもハイテンションの福井氏の向こう側には、いつも繊細な表情の福井氏がいたのかもしれない。
「どうしようもできないでしょ。風評被害って奴ですからね。助けてくれたんは、嫁さんです」と、奥さんのほうをチラリとみる。
それから何年も経った。いくつもの問題も乗り越え今がある。ただ、いまもまた、たいへんだ。
「そやね。でも、私からしたら、いまは恵まれている。多少でも、セーフティネットがはたらいているからね。だからええってわけやないけど、それが、商売。ええ時もあれば、あかん時もある。うちの首脳陣が一斉に辞めたのは、そりゃ私が悪かったわけやけど、風評被害はどうしようもない。今回もいうたら、それやん。だれも、悪ない。ちからがなかったわけやない。そう思ったら、心が楽になるんちゃうか」。
むろん、手をこまねいているわけにはいかない。福井氏は、手羽先をキラーコンテンツにした新スタイルのブランドをつくり、攻撃に転じようとしている。
コンセプトは、毎日の食卓。
「単価2000円くらいにして、毎日、来られる、そんなブランドです。客単価2000円。30年前に考案した黄金の手羽先。これがキラーコンテンツですわ」。
たれにつけ焼いた、手羽先。たしかに旨そうだ。「いまの店はね。もう、刺身もあるし、いろいろだしすぎて、ボケてしまっているんです。だから、もう一度、一つに絞ってね。これを食べにくるみたいな。それでいて、単価2000円やから毎日でも通いたくなる」。
もう、頭のなかには絵ができあがっているんだろう。
「じつはね、スーパーに営業かけて、いま総菜を卸させてもらっているんです。これだけでも、ずいぶん助かっています」。
新たな浪漫の始まりは、案外、ピンチのあとにやってくるのかもしれない。
「時代は、どんどんかわる。まぁ、コロナでゼロリセットされたわけやから、飲食もかわらなあかんでしょ。気合、はいってまっせ」。
もうすぐキッチン・カーもはじめるそうだ。「来年には2台にする予定です」。福井氏は、そういってニコリとわらった。
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