株式会社nadeshico 代表取締役 細川雄也氏 | |
生年月日 | 1978年12月1日 |
プロフィール | 滋賀県生まれ。大学卒業後、生まれ故郷の滋賀にもどりJA(農業協同組合)に就職。6年間、勤めたのち退職し、飲食経験「0」で、1号店を開業する。現在は飲食事業以外にもプロデュース事業、ローカルブランディング、デザイン事業を多彩な事業を手がけている。 |
主な業態 | 「THE THREE」「近江バルnadeshico」「魚丸」「TABLE O TROIS」他 |
企業HP | http://nadeshico1000.jp/ |
おとなしい少年だった。太っていたし、コンプレックスもあった。
「だいたい活発なタイプじゃなかったし、スポーツも勉強もぜんぜんパッとしない/笑。勉強でも、スポーツでも勝たらへんから、いつか社長になっていちばんになると思っていた」と細川氏。
小学校でもいろいろ習い事をしたが、卒業と同時にやめた。代わりに中学から始めたソフトテニスは、大学まで10年間つづけている。「補欠だったが、楽しかった」と笑う。特に、試合が好きだったそう。
「高校になって、初めてなりたい職業ができます。建築士です。これは、いまでも好きなんですが、神社、ビル、個人宅…といった建造物がとにかく好き。だから、大学も建築系に進もうと思っていました」。
ただ進んだのは山口県にある「東亜大学」の、建築ではなく、コンピューター学科。
「4年間通いましたがプログラミングはイマイチ」と笑う。
「とにかく、初めての一人暮らしです。それに、地方からいろんな奴が進学してくるでしょ。私は、滋賀のいなか育ち。出会う奴はみんなインパクトがあったし、そんな出会いも含めて、楽しくてしかたなかった4年間でした」。
なかでも、いつも一緒だった5名のメンバーとは大の仲良し。サーフィンも、多少の悪さも、いつも一緒にした。卒業前には、「大物になって再会しよう」という誓いまで立てている。
「大阪のほうで就職が決まっていたんです。でも、親父が『どうしても滋賀で』というもんですから、けっきょく滋賀県のJAに就職しました」。
JAの仕事は楽しかったですか?
「常々、辞めたいとは思っていました/笑。でもね、ちゃんと仕事はしていたし、楽しんでもいましたよ。ただ、30歳までには独立すると決めていましたから、仕事だけではなく、何をどうすればいいかアンテナはつねに立てていました。けっきょく、28歳で独立するんですが」。
「社長になる」「大物になって再会する」。
二つの誓いを果たすには、独立は、たしかに効率的な手段。しかし、経験のない飲食での独立には、リスクもなくはない。
けっきょくのところ、なにがきっかけで、「飲食で」となり、なにが細川氏の背中を押したのだろう。
「JAには6年間いたんですが、やりたいことがみつからなかったから離れなかったというのが正解です」。
つまり、やりたいことがみつかったわけですね?
「そうです。それが飲食。きっかけは和民の渡邉美樹さんをTVで観たこと。渡邉さんの話に感動して、渡邊さんの本を読んで。渡邉さんは水商売を産業にした人でしょ。スケールがでかい。尊敬もしましたし、オレも、そんなかいことをやりたいと思ってしまったんです」。
とはいっても、農業しか知らない?
「そうなんです。だから、本屋に行って片っ端から独立関連の本を読み漁ります。だいたい書いてあるのはおなじなんですね。だから、そっちはいいというか、わかったんですが、料理ができない。飲食なのに、致命的でしょ。それで、最初の失敗です/笑」。
「学生時代のバイトもガソリンスタンド。飲食はもちろんですが、料理に至ってはやったことがない。だから、じつは料理のコンサルタントと契約したんです」。手付金200万円。けっして小さな額ではない。「2006年の年末に辞表をだし、翌年の3月に退職します。コンサルタントとは、2006年に契約。年が明け、3月に退職できそうだったんで、正月にコンサルタントに連絡を入れたんですが」
つながらない?。
「そうなんですよね。最初は、お正月だからかな、と思っていたんですが」
虎の子でもある200万円はむろん、返済されず。「ともだちに観に行ってもらったんですが、倒産したあとでした」。ある意味、致命的な失敗。
しかし、これであきらめないのが、細川氏の真骨頂。
「別のコンサルタントにお願いしました。だって、ここであきらめては何も始まらないですから。今度は、無事、サポートしていただいて、2007年の10月に1号店をオープンします。メンバーは大学のともだちとサーフィン仲間の2人です」。
スタートダッシュは、どうでしたか?
「これが、すごい。ロケットダッシュです。爆発的だったといってもオーバーじゃないくらい。2号店、3号店とパンパンと出店します。ただ、しばらくして、リーマン・ショックと道路交通法が改正され、Wパンチです。1号店が郊外だったものですから、道路交通法の改正は、直撃です」。
おまけに育成が追い付かず、2号店、3号店もうまくいかない。細川氏が現場を離れると、顕著に業績が悪化した。「かべにぶつかった」と細川氏は表現している。「飲食のある、あるですね」。今なら笑えるが、当時は表情もひきつったはずだ。
どうなっていくんだろうか?
「かべは3店舗くらいの時ですね。やっぱり、あの頃は儲けようと、『数字』ばかりみていたように思います。あの時、たまたま渡邊さんの講演があるのを知って出かけていったのが、転機になりました。その講演を主催していたのが、あの『居酒屋甲子園』。ハイ、そうです。それから『居酒屋甲子園』にのめり込みます」。
「居酒屋甲子園」については、みなさんもご存じだろう。外食産業ではたらく者たちの、まさに「甲子園」。感動の接客がカギだ。
「目標ができたというか。数字じゃない、飲食人にとって何より大事な指標をみつけたという思いでした。だから『甲子園にでるぞ』と、スタッフたちもハッパをかけ、とにかくCSに注力します。あれで、潮目がかわった。つくづく経営者次第ですね。スタッフの育成にもちからを注ぎ、いまでは『なでしこ大学』も開催(月2回)しています」。
関心事が「数字」から「人」にかわる。もう、勝ったようなもんだ。
「おかげさまで、事業は順調に拡大し、現在(2020年)は、レストラン、カフェ、居酒屋など6業態で、合計11店舗を出店しています」。
いずれの店も、センスがいい。そう思って観ていたら、建造物が大好だったという細川氏の話を思い出した。
「7年で、28億円というビジョンをかかげていますが、今回の新型コロナウイルスで修正はしないといけないですね」。そうはいうが、下はけっして向いてはいない。
「出店はやはり滋賀がいいですね。あと20店くらいは」。
じつは、「株式会社なでしこ」はフード以外にも、プロデュース事業、ローカルブランディング、デザイン事業と、多彩な事業を行っている。滋賀に注力するのは、ドミナント戦略はもちろん、滋賀のまちづくりを意識しているからだ。
「『滋賀になでしこあり』って言われるようになればいいですよね」。このまままっすぐに進めば、ちかい日に、そう言われているのではないか。
滋賀という、ローカルと都会が混在した「街」もいい。いい具合に、花が咲きそうだ。いずれ「なでしこ」は、この街に咲き誇る。
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