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第824回 有限会社レストランバンク 代表取締役 林 秀光氏
update 20/02/16
有限会社レストランバンク
林 秀光氏
有限会社レストランバンク 代表取締役 林 秀光氏
生年月日 1975年11月7日
プロフィール 高校卒業後、守口プリンスホテルに就職し、パティシエの道を進むものの、スノーボードに熱中し、退職。雪山を求め、アメリカにも遠征。いったん面白いと思ったことには、とことんのめり込む。仕事でも、その性格は現れ、飲食の世界にハマると、その道、一直線。ピッツァ職人として、世界で6位にもなっている。
主な業態 「アレグロ」「アレグロペッシェ」「立ち飲みじんべえ」「葡萄酒屋 by Allegro」他
企業HP https://restaurant-bank.jp/

スノボにハマり、プリンスホテル退職。

「大学も、専門学校も頭になかった」と高校時代を語ってくれたのは、有限会社レストランバンクの代表、林 秀光氏。1975年生まれの44歳(2020年のインタビュー時)。
「早く自立したかったですね。なりたかったのは、パティシエか、庭師か、料理人か。けっきょく、『守口プリンスホテル』に就職します。周りは、大卒ばかりでびっくり」。1人暮らし、開始。「守口プリンスホテル」の、正確には製菓部に就職したそうだ。
これで、大好きな「苺のショートケーキ」が、好きなだけ食べられるが、志望動機。製菓部といっても、料理人。ホテルといっても、きびしさはハンパないはず。うまく、スタートできたんだろうか?
「めっちゃめちゃ面白かったです。その頃の私は、料理も、菓子づくりも無縁な、どこにでもいる高校3年生といっしょ。びっくりしますが、『ボール』がわからなかった」。
ボールって、あのボール?
「そうです。『ボールを取ってくれ』と言われて、『?』です/笑。さすがに怒られましたね。とにかく、そんな風に、マイナスのマイナスからのスタートだから、逆に面白かったんだと思います。フランス語もそう。なにもかも新しい」。
林氏は、こちらで、3年半修業する。ちなみに、「守口プリンスホテル」は松下電器が経営元だったそう。つまり、林氏も、松下の社員。松下幸之助氏の著書も読んでいる。
ところで、めちゃ面白かったのに、どうして辞めたんですか?
「じつは、スノーボードにハマって。21歳の時ですね。山ごもりしたくなって辞表をだしました/笑。で、長野の山にこもって2日目に鎖骨骨折です。アホでしょ/笑」。
鎖骨骨折で、1シーズン棒にふることになる。だけど、のめり込んだら止まらないのが、林氏の性格。「日本じゃ無理だから、アメリカに行って、雪山へGOです。雪山を追いかけ、行ったり、来たりの、スノボ人生。悪くなかったですね」。

彼女の一言。

「当時、仕事をしていたのは、堀江の服屋さんの奥にあった小さなバーです。シーズンオフの間、店長をさせてもらっていました」。
仕事は面白かったですか?
「バーの仕事も、めちゃ面白かったですね。『お酒って、面白いやん』って。ケーキの時も、スノボの時もそうですが、一度、ハマると止まらない。勉強もしました」。
「妻と知り合ったのは、25歳の頃。北堀江のカフェで出会います。24時間営業のカフェで、私は19時〜翌朝7時までの、夜の店長でした。店長といっても特別、経験を積んだわけじゃなく、ただ、マジメにはたらいていただけです。でも、マジメな人がぜんぜんいてなかったから、それだけで評価されました/笑」
「独立を決意したのは、27歳。決意できたのは、妻の強烈なプッシュがあったおかげです」。
どんなプッシュ?
「彼女は、起業家の娘なんですね。だからかもしれませんが、『私と結婚するんやったら、店もってこい』みたいな/笑」。そりゃたしかに強烈。しかし、そのおかげでいまがある。数多くのスタッフとの出会いも、この一言がはじまり。
「27歳で決意し、独立したのは28歳の時です。芦屋で『焼炉端ばたばた』をオープンしました」。なんでも、ケーキやシュークリームで、と思っていたらしいが、製菓は難しいとなって、炉端になったらしい。
その落差が、林氏らしくもある。

しかし、くすぶりはつづく。

「焼炉端ばたばた」は、どうだったんだろう?
「それが、まったくで/笑。2000万円かけたんですが、日商ゼロの日もふつうにあったくらい」。「あの時は、どうしようもなかった」と林氏。借金があったから、前に進んでいただけ。
「ただ、最低限の売り上げはありましたから、大きな赤字にはならなかった。だから、ぎゃくにやめられなかった」。少額といっても、毎月、赤字が累積する。「希望もなにもなかった。あったのは、絶望感だけです」。
相当、きびかったんですね?
「炉端は、初めてでしょ。最初から、無謀だったんです。知識も、経験もなにもないから、何もできない」。できることと言えば。
「お顔とお名前は、必死で覚えました。注文されたお料理も含めて。名刺をいただいたら、下の名前までインプットです」。それでも、簡単に売り上げアップとはいかない。ただし、あの時の模索は、貴重な財産になっている。
「そう思わないと、やっていられませんよね/笑」。
少なかったが、お客様のなかには、富裕層も、有名人もいた。何しろ、芦屋である。そのなかに、いまも「恩師」と慕う人もいた。
「『お前は目がいいからいける』と言いつづけてくれた人です。偶然なんですが、私が昔から憧れていたケーキショップのオーナーでした」。「すごく紳士だし、人柄がいい」と、べたぼれの様子。
「ショップも、いいんですね。ペンキのカラーもいい。そうそう、それで聞いたんです。『このペンキはどうしたんですか?』って。そうしたらね。『日本になかったから、フランスまで行って買ってきた』って。すごいでしょ」。
読書家で、あそびも格好いい人。こんな人になれたら、いい。人生の目標もできたにちがいない。しかし、くすぶりはつづく。

世界6位で、世界がかわる。

少し上向きになったのは、塚口にオープンした2店舗目の「アレグロ」をオープンしてから。林氏、初挑戦のイタリア料理である。「当時、イタリアンが流行っていたんですね。もちろん、シェフを採用する余裕はない。だから、料理担当は私です。もちろん、イタリア料理なんてしたことがない。でも、これがけっこううまくいって」。
ランチがいい。ただ、ディナーはイマイチ。
「パスタくらいしかちゃんとできなかったですからね。ディナーの料理は…、どうだったんでしょうね/笑」。
上向きはしたが、起爆剤とはいかなかった。3店目は、アレグロの前にだした「じんべえ」。
「じつをいうと、3店とも似たり寄ったりでパッとしなかった。閉店まではいかないけど、大儲けともいかない。でも、あれを境に一転します」。
あれって何ですか?
「天満に、4店舗目を出店します。ピッツァを窯で焼くことができる店を手に入れたんです」。
ピッツァ?
「ナポリのピッツァをやりたくてね。で、それも勉強して、じつは、私、世界6位なんです」。世界的なコンクールで、世界6位になったそう。
「あれは、33歳の時です。それまでギリギリだった数字が、翌日から2割アップ。しかも、全店です。ピッツァとまったく関係ない『じんべえ』まで/笑」。

〇〇食堂の味。

ホームページによれば、2019年4月現在で、イタリアン9店、居酒屋5店、アメリカ2店、ドルチェ専門店1店となっている。アメリカにも進出しているからすごい。
信頼できる部下もできた。マネージャー6名。
「来週、明石にマネージャーの1人が社長になって餃子屋をオープンするんです」とうれしそうにいう。これが、林氏の構想の一つ。目標は?というと「中長期で、2023年に30億円」という返答。
あと3年後だが、まだまだ先は長い。しかし、案外、簡単にゴールするかもしれない。
今回は、1人じゃない。みんなで。
ちなみに、さきほどの餃子屋に加え、10月には北堀江焙煎コーヒーの店をオープンし、物販にも力を入れる。アフタコロナを見据えた戦略だろうか。
いずれにしても、もう一つ、話しておきたいことがある。
中学3年で、じつは、ご両親が離婚されている。父親といっしょに暮らすことになった林氏は、ご飯を一人で食べていた。「○○食堂みたいなね」と笑う。
1人で、食堂に入り、食べたご飯はどんな味がしたんだろう。
ひょっとしたら、世界6位の、また、飲食の戦士の原点はここにあるのかもしれない。

思い出のアルバム
 
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