有限会社倶楽部二十九 代表取締役 酒井 敏氏 | |
生年月日 | 1958年1月23日 |
プロフィール | 大学卒。大手スーパーに7年勤め、ハンバーガーショップのフランチャイズオーナーとして独立。悪戦苦闘の10年を経て、40歳の時、牛角のフランチャイズ1号店のオーナーとして再出発。月商1800万円を達成するなど、牛角の快進撃のベースをつくる。自社ブランドに舵を切ったのは50歳の時。稀代のレストランプロデューサー中村悌二氏と出会い、「大金星」をリリースする。 |
主な業態 | 「大金星」「サカイのデリカ」 |
企業HP | https://daikinboshi.net/ |
「よしかわく〜ん」は、昭和の時代に流行った青春ドラマに登場する名セリフ。主演は千葉県のもと知事、森田健作氏。「中学の頃、森田健作さんに影響されて、剣道をはじめます。そう、その『よしかわく〜ん』です」。今回ご登場いただいた有限会社倶楽部二十九代表取締役、酒井 敏氏がそう言って笑う。 酒井氏が生まれたのは1958年。父親も、兄も銀行員というお堅い家系。「わたしは次男だからでしょうね。自由奔放というか、大学を卒業し、スーパーに就職するんですが、社会人のスタート地点からして、父や兄とは畑違いです」。 自由闊達。中学から始めた剣道も、高校では柔道に。高校3年の時にマージャンにハマり、一浪もしている。「マージャンはけっこうつよい。でも、大学は一回落ちて、一浪して獨協大学に進みます。こちらでも柔道部に入るんですが、ヘルニアになり退部。あとはバイト三昧。そうそう、20歳の時に、ある飲食の社長さんと知り合うんです。いま思うと、それが私のターニングポイントですね」。 駆け引き、心理戦のマージャンに長けた酒井氏ではあるが、純粋な青年でもあったのだろう。社長の真剣な生き様に、まっすぐに惹かれる。「独立をハッキリと意識したのは、あの時」とも言っている。
就職したスーパーは上場もしていたから、お堅い父親もいちおうOKだったのだろう。「父親は銀行を勧めてくるんですが、頭よりからだをつかう仕事のほうが向いていると思って、スーパーに就職するんですが、からだはともかく、だれも頭をつかわない/笑」。
就職していきなり浮いてしまったそうだ。
「最初はね、将来、社長になってやるくらいに思っていましたから勉強もしたし、休日には市場調査にも精をだしました。ほかにそんな奴だれもいない。やろうぜ、といってもだれもついてきません」。
あげく上司から、「やる気をだすな、頑張るなら、ほかでやれ、独立しろ」と言われたという。いきなりの洗礼である。「23歳の頃だから、1年目。スタートダッシュで躓いた格好ですね/笑」。
エンジン全開がいけなかった?
「そうですね。けっきょく7年、勤務するんですが、あの一言で、独立を行動に移すことになるんですから、エンジン全開だったことに間違いはなかったんじゃないでしょうか」。
「飲食は潰れない。だって、食べるものには困らないから/笑」。行動に移すといった、酒井氏は、飲食をターゲットにマーケティングを重ねる。「東京中の飲食店を食べ歩きました。仕事帰りはもちろんですが、休日も歩き回ります」。
答えはあったんだろうか?
「神田にいい店があったんです。最初は、いいな、やりたいなと思っていたんですが、そのちかくに大手の珈琲チェーンがオープンするとすぐに潰れてしまったんです。答えではないですが、その時に、フランチャイズの力を知ることになるんです」。
それがFCオーナーになるきっかけ?
「25歳です。独立しろと言われてから、貯めたお金が250万円。でも、有名なFCに加盟するには、一桁以上たりません。愕然としました。オレはなにをやってきたんだ、と思って」。
お金がないことより、プランの甘さに泣いた。初めての挫折だった、と酒井氏。「あの時ね、稲盛さんの『だめだと思った時が、スタートなんだ』が頭に浮かぶんです。どこかで読んでいたんでしょうね」。
酒井氏は、頭を打ったことで、逆にギアチェンジし、独立に向け、加速することになる。
珈琲チェーンも、ドーナツチェーンも開業資金が高い。ただ、あるハンバーガーショップは、なんとかなる額だった。「むろん、銀行に行くんですが、融資はつぎつぎ断られます」。 7つの銀行に断られ、8つ目の銀行がはじめて耳を傾けてくれたそう。父親を1年かかりで説得し、保証人になってもらって、5000万円を借り入れることができた。 ただし、酒井氏いわく、それが地獄のはじまりだった。「父親から休みなく働けと言われていました。私ももちろん、そのつもりです」。 独立したのは、30歳。体力も、気力も充実している。「銀行への返済が毎月50万円です。ほかの経費をひくと、私の給料は15万円。これが、独立したあとの初任給です。休みは年2〜3日、あるかないか。1日15〜16時間、働き詰め。それでも、給料は15万円のママでした」。 借金がなければ、とっとと逃げ出していたかもしれない。 「40歳で、借金は返済できましたが、ちょうどバブルが終わります。その時、私の年収はオーナーなのに、180万円です。風邪をひいても休めず、からだも、精神的にもボロボロになって、両親からも辞めたほうがいい、と」。 「人生のどん底。地獄と絶望の10年だった」と酒井氏。地獄だとしても、希望があればいい。しかし、「絶望」の二文字はそれもなかったことを物語っている。
じつは、ここからの話は、ホームページでくわしく語られている(「大金星誕生物語」)。そのなかでも、語られているが、牛角の創業者、西山氏との出会いが新たなターニングポイントになる。
「たまたまご縁があり、『いっしょに牛角を育てていきませんか?』と声をかけてくださったんです。牛角といっても、まだ認知度がない。何しろ、私がオープンした牛角浦安店が、初のFC、そう、1号店です」。
牛角の記念すべきFC1号店。「最初は半信半疑です。ほかにモデルはないんですから。でも、すぐに『?』は『!』にかわります。月商1800万円。これはマックスの数字ですが、びっくりするしかないですよね。しかも、17〜24時ですから」。
むろん、「牛角」のビジネスモデルが、驚く月商を産んだのは間違いない。ただ、いかに優れたモデルであっても、経営するのは、やはり人だ。酒井氏の10年間の悪戦苦闘が花開いたと言えなくもない。
「いっしょに育てよう」という西山氏の言葉は、本部の経営者とFC店のオーナーというちがいはあっても、文字通りの意味となった気がする。
「けっきょく牛角は、10年。50歳の時に、今度は自社ブランドにチャレンジします」。じつは49歳の時にも、自社ブランドを立ち上げている。
「ライスバーガーとホットドッグをメインにしたファーストフード『ホットオニーズカフェ』です。2年間の研究開発の末、世に送り出した自信作だったんですが、なんと毎月100万円の赤字です。1000万円の累積赤字となるまで、あっという間でした/笑」。
しかし、めげない。これも、10年間の地獄を経験しているからだろう。自信が不安に、希望が絶望にかわっても、あきらめない。
「大怪我をしたものの、今度は、新鮮な豚肉をメインとした、『もつ焼どんたく』をオープンさせます。でもね、こっちもどんなにブラッシュアップしても月商200万円。くすぶりつづけます」。
そんななか、稀代のレストランプロデューサー、中村悌二氏と、縁があり、中村氏のプロデュースのもと『大金星』が誕生する。
いまも中村氏とはパートナーという関係らしい。新たにリリースするUber Eatsを利用するユニークなブランド「デリカ サカイ」も、中村氏との、いわば共同開発。
こちらでも、新たな「大金星」を狙っている。
将来的には株式の上場も視野に入れているし、異なった方法も模索している。どれが正解かはわからない。コロナ禍のなか未来が混沌としているからだ。それでも期待せずにはおられない。酒井氏が新たにあげる大金星を。それがコロナ禍であえぐ飲食の新たな答えになるかもしれないからだ。
この企業にご興味のある方、コンタクトを取りたい方、また代表にメッセージを送りたいといった方は、下記フォームよりご登録下さい。当社が連絡を取り、返信させていただきます。
例)テレビ番組用に取材したい、自社の商品をPRしたい、この企業で働いてみたい、中学時代の同級生だった など