株式会社やる気 代表取締役 大島聖貴氏 | |
生年月日 | 1959年2月5日 |
プロフィール | 京都市生まれ。高校、大学時代はラグビー選手として活躍。1987年に京都にて小さな焼肉店を創業。以来、京都府内で焼肉店を中心に店舗展開を行う。2010年9月に自社としては初めてのファストフード業態開発となる「韓丼」をオープン。直営店での店舗展開を進める中で、ライセンス制度を構築し、現在全国に70店舗展開。コロナ禍で外食業界が苦戦を強いられる中、1号店は過去最高年商1.7億円を達成。今までにないファストフードビジネスとして業界紙にも多数取り上げられるなど注目されている。 |
主な業態 | 「やる気」「韓丼」「鳥正」「銀次郎」「牛牛-GYUGYU-」 |
企業HP | https://www.yaruki.co.jp/ |
小学生の朝は早い。正しく言えば、大島少年の朝は早い。
「そうですね。牛乳や新聞配達していましたからね。牛乳店では、牛乳とパンをいただけたんで、それが嬉しかったですね。配達が終わったら駆け足で登校です/笑」。
特段、貧しかったわけではない。むしろ、経済的にはめぐまれている。
「ふつうの男の子やったと思うんですけど。なんでやろね。仕事は苦になれへんかったし。結局中学までで50万円近く貯金していたんです」。
ふつうの男の子と、本人はいうが、話を聞いていると同意するのが難しい。
小学1年生でラグビーがしたい!と想い、牛乳配達に、新聞配達。1月1日からうちをとびだし、外を駆ける。伏見から自転車で京都駅まで行った時には、驚きの経験もされたそうだ。
「びっくりしましたね。私服の女刑事さんと、男性の刑事さんです。ま、事情っていうか、ふつうにサイクリングのつもりでしたから、そう言ったら、『じゃぁ、きいつけてな』って解放してくれはったんですけどね」。
5年生にあがる時には、担任と教頭がうちにやってきた。
「あの頃は、授業を聞いているだけでしたけど、まぁ、いい点数も取っていたんでしょうね。担任と教頭がうちにきてね。この子は将来何かやってくれる、そんな予感がするから、塾に行かせてもらえへんですかっていうわけですよ。えらい迷惑ですわ」。
迷惑?
「そりゃそうです。私は、とにかく友達と遊ぶのが好き。でも、親にしてみたら、担任と教頭が突然うちまで来て、そう言わはったら、そらぁ、スイッチが入りますよね。すぐに塾通いが決定です/笑」。
そりゃ、たしかにたいへんだ。
「でもね。じつは。塾へ行くっていってうちをでて、友達と遊ぶ。それが、スタンダードコースでした。ただ、ある日、ドロドロなって帰って、アウト 笑」。
背中まできれいにするのを思いつかなかったそう。「でね、きつく怒られました/笑。怒られて落ち込んでいる私におばあちゃんが、こっそり水とおにぎりを持ってきてくれてね、今でも良く覚えています」。
当時大島少年の子供部屋は、「社長室」と名付けたらしい。
「手づくりで社長室って書いてぶら下げていました。じつはその頃から目標があって、先生らは別の仕事を言ってはったわけですけど、私は、飲食店の経営者になろうと思っていたんです」。
なんでも、父や母に連れて行ってもらった洋食レストランが、かっこよかったかららしい。コック帽ではなく、経営にまで行きつくとは、さすが先生たちが見込む少年である。
この少年が、ふつうの男の子だったら、たいへんだ。
ただ、5年生から柔道をはじめている。こちらは、割と普通の選択。
「ほんまはね。ラグビーがよかったんです」。
ラグビー?
「そうラグビーです。小学1年生の時に、青春ドラマを観て、これや!と」。
在籍していた高校は、後にラグビーの名門校になるがそれはまた別の話。
とにかく、小学1年生の思いを実現している。
「大学は京都産業大学に進み、もちろんラグビーをつづけます。オフには、バイトもしていました」。どのバイトでも評価は頗る高かった。
「日本一の植木職人にしたる」と、目をかがやかせて、口説かれこともあるそうだ。「とにかく、はたらくことが好きですからね。バイトやからって手を抜かない。卒業したらうちに来いって、たいてい言うて貰えました」。
正直者だからではないかと思う。表裏がない。思考がまっすぐで、建設的。接していたら、そりゃ、採用したくなるに違いない。
むろん、当時の本業は、ラグビー。
「ラグビー。ラグビーは私にとっては特別なスポーツです。試合開始のホイッスルが今まさに鳴るというあの瞬間ね」。
たたかいがはじまる瞬間の緊張感と、恐怖が襲ってくるそうだ。それが、たまらないという。
大島氏はけしって巨躯ではない。ラグビー選手のなかでは小柄になるのではないか。「170センチですからね。そんな私が180センチ、125キロの選手にむかっていくのです。そりゃ、怖い。でも、ホイッスルが鳴ったたら、もう無です。ボールを追いかけ、ひたすらね」。
人生もラグビーといっしょで、たたかいだという。
「人間ってそうでしょ。人生はいつだって拳骨なしのたたかいですよ。とくに、自分とのね。ラグビーは、くじけそうになった時、落ち込んだ時に、もう一回、立ち上がり、たたかうことを私に教えてくれました」。むろん、One for all, All for oneの精神も。
「大学を卒業した私は、独立をめざして修業を開始します」。当時は、まだ飲食が水商売とも揶揄されていた時代でもある。大学を卒業し、飲食に進む人はそう多くなかったはず。むろん、2代目、3代目になれば別だが。
「子どもの頃、社長室をつくったように、経営者になりたかったからね」。
それも、かっこいい洋食レストランの、ですよね?
「そう。それで京都の、個人経営の洋食レストランに就職させてもらいます。給料ですか。高くはなかったですね。額面で9万円くらい。手取りでいうたら7万円あったやろか。それでも、勉強させてもらっているわけですから、文句は言えへんでしょ」。
当時の大卒の初任給は平均で14〜15万円といったところか。「このレストランで6年ちかく修業して、もう1軒で、レパートリーを広げるつもりで修業します」。
そして、34歳、祇園で華々しくデビューですよね?
そういうと、「じつはね」といって、言葉を重ねる。
「28歳で結婚して、子どもが生まれて。そうなると2軒目の給料じゃやっていけへんかったんです。それで、30歳の時に、はじめて店をオープンします。伏見につくった焼肉店です。焼肉やったら1人でできますから。これが、けっこう流行りまして。それで34歳までつづけリピーターもたくさんいましたが、けっきょく、身内にお店ごとプレゼントしました。
いくら、ご身内にといっても、ためらいはなかったんだろうか?
「どうでしょう。ただ、私も京都でたたかうんやったら『祇園で』と思っていましたから、親孝行もできて、ちょうどよかったんちゃうかな」。
いうなら、幻の1号店。しかし、幻といっても、意味がある。「自信」の二文字を生んだからだ。
「伏見の店なしで、祇園が1号店やったら、たしかに、どうなってたんやろ」。当時、祇園には焼肉店が7〜8軒あったそうだ。
「そのなかでいちばんの新参者です」。坪数、12坪。黒毛和牛のみの、高級店。値段は、時価。「京都の祇園でしょ。そら、ええ肉ですわ。特上カルビとか、いわゆる特選の、肉です。時価ですが、そうですね、いちばん安くて2200円みたいな」。
外からわかりにくい、半地下ということもあったんだろう。「オープンしたものの、ぜんぜんお客さんがいらっしゃらないんです/笑」。
営業は17時から翌4時迄。昼から仕入れ、仕込みをすると、寝る時間もない。しかし、いくら準備をしても、無駄になる。
「伏見の店をやってなかったら、くじけていたかもしれませんね。とにかく、じぶんを信じて、走るしかありません」。
結果、7ヵ月目頃からだんだんと、客がつく。「そりゃ、うれしいです。ちょっとずつ来てくれはったお客様がリピーターになってくれて」。
当時は、口コミのみ。
「ありがたい話ですね。止まらんと、走りつづけてよかったです」。いわば、これが「やる気」の始まり。快進撃の幕が上がる。
「2号店というか、つぎの店は、寿司屋です。寿司って、当時はまだ時価が一般的で、そやね、回転すしもでてきたくらいの時とちゃうやろか。なにしろ祇園の店をだした時、6ヵ月、暇やったでしょ。その時に、構想してたんが、たこ80円、えび80円っていう、時価じゃなく価格がちゃんとあって、安心して食べられる寿司屋だったんです。私自身、寿司が好物やったんですが、時価やったら尻込みしますもんね」。
その店は手ごたえがあった?
「そうなんです。こっちは、最初からもうお客さんでいつも一杯。台風の時でも、傘飛ばされそうになっても並んでくれたはりました。京都のなかだけですけど、坪売上げがいちばんでした」。
価格破壊というより、柔軟な発想で、セオリーをひょいと超えていく。それが、大島氏の真骨頂。「焼肉もそうですね。いまでこそ安い店もありますが、当時はあんまりなかった。これも、構想の一つで。つぎに出店したのが、客単価3000円程度のリーズナブルな焼肉店です」。
最初の店が苦戦したことがかなり掻き立てたのか、大島氏の先読み戦略が次々、あたる。
ところで、大島氏はどこでその経営センスをやしなったのだろう?
「10代の頃は、ラグビーでしょ。昔は、いい成績を取ったことがありますが、そこからは勉強をぜんぜんせぇへんなって。でもね、20代になってからは、そのぶん、本も読みまくります」。
尊敬するのは、ズバリ、松下幸之助。
「やっぱり、幸之助さんが、いちばんでしょ」。たくさんの経営者を知っているからいちばんと言える。「スポーツだけやなくて、勉強もやっていたらな、と今になって思いますね。ただ、生きることって、ぜんぶ勉強でしょ。難しいことやなくて、ただしく生活する。そういう人が人間的にも尊敬されるんやと思って、そこをめざしています」。
大島氏と話していると、ちょっとしたギャップをかんじる。柔道とラグビーの経験者、しかも、社名の「やる気」からして、もっと熱血漢かと思っていた。しかし、話し方はおだやか。いばらない。ラグビーがいいという時も、どのスポーツもいい、という言葉が前につく。
おだやかで、ひかえめ。
ただし、構想はでかい。
「年内に28店出店します。毎年10店舗以上出店して、2年後には100店舗、2030年には1000店舗を達成したいですね」。
コロナが落ち着けば、海外にもと、海外進出の構想もぶち上げる。むろん、成功するかどうかは、社員の育成にもかかっているだろう。しかし、なぜか、この人ならと思ってしまう。
落ち込んだ時に、立ち上がる勇気を知っているからだろうか。人を惹きつけるちからをもっているからだろうか。いや、そうじゃなく、ただしく、まっすぐに生きることを知っているからだ。
大島氏のやる気に、うそはない。
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