株式会社ZOO 代表 小泉智博氏 | |
生年月日 | 1972年12月22日 |
プロフィール | 神奈川相模原出身。東海大学卒。学生時代からバンド活動を続け、CDデビューも果たすが、32歳で音楽から卒業。30歳の時、アメリカで出会ったエレファント・イヤーに魅了され、音楽活動を辞めると同時に、起業に向け走りだす。 |
主な業態 | 「あげ焼きパン 象の耳」 |
企業HP | https://zou-33.com/ |
商品名が、そのままキャッチフレーズにもなる。「象の耳」。16年でおよそ1354回の改良を重ねた新食感の揚げ焼きパンだ。揚げているのに、カロリーは低い。トッピングで色んな味が楽しめる。何よりネーミングが可愛い。
アメリカに行った時に知った「エレファント・イヤー」がモデル。今回はこの「象の耳」の生みの親、株式会社ZOOの小泉智博氏に話を伺った。
「私は1972年生まれ、神奈川県の相模原出身です。父親は建築関係の仕事をしていました。1人っ子です。小学校では野球をやっていましたが、中学では部活をせず、もっぱらマージャンばっかりしていました/笑」。
「当時、うちの学校は部活が盛んで、部活をやっている奴が偉いみたいなヒエラルキーがあったから、部活をしない私たちは最下層です。ただ、中学3年の時、ヒエラルキーの逆転が起こるんです」。
どういうことだろう?
「文化祭の時に、担任の先生に指名されクラスのリーダーになって『人形劇』をやったんですね。そうしたら」。
盛り上がった?
「そうなんです。開校以来の最大の客入りだったそうで。リーダーの私は俄然、注目されるようになります。これが、私の一つの転機ですね」。
やればできる。自信がつく。「じつは、高校になって空手を始めるのですが、この時があったから始められたのかもしれません」。
「空手を始めた理由は格闘技が好きだったから。ジャッキーチェンも好きだったし/笑。それに、中学に無い部活ならば高校入学時でもハンデなく始められると思って。ただ、入部したのが県でも強豪の空手道部だったもんですから、聞いてはいたんですが練習は相当きつかったですね」。
組手が得意だったと小泉氏。
高校から始めたにも関わらず関東大会に出場、2年時から主将も務めている。「顧問の先生と出会えたのが私にとっては2度目の転機です。厳しい先生でしたが尊敬できる先生でした」。
いい指導者に出会うことで、人生は変わる。
「大学からも推薦をいただきました。でも、ちょうどその頃、怪我が重なって。一度は辞めようと思ったほどなんです」。
でも、辞めなかった?
「大学は早稲田と決めていたのですが、2浪の末、結局滑り止めの東海大学に進みます。空手は辞めて音楽サークルに入ろうと思っていたんです」。
でも、やっぱり空手が好きだった?
「そうなんです。空手道部の演武をみて、またやる気になっちゃいました/笑」。
その後は流派の大会で全国ベスト8にもなったとの事。
「将来を考えた時に当時、K-1もまだ無く格闘技にはプロの世界もなかったので大学3年の時に、今度はホントに部活は辞めました」。
辞めたといっても、高校時代の恩師とのつながりで母校の空手道部の監督に就任。
「空手道部を辞めた時に、ほかの大学の音楽サークルに入って、今度はマイクをにぎってボーカルをはじめます。親からは『卒業したらサラリーマンになれ』って言われていたわけですが、音楽にハマってしまって。ええ、就職活動もしないまま音楽の道へ」。
こちらはプロがある。ただし、その確率は低い。
「25歳の時は、渋谷のレストラン&バーで働いていました。むろん、アルバイトです。音楽サークルの先輩がペンションをやっていて、そちらでアルバイトをした縁で、渋谷の店で働かせてもらうようになりました」。
有名なミュージシャンたちが常連のお店だったそうだ。
「いつのまにか親しくなり、酒を飲み語るようにもなります。いつか同列になって、この人たちと旨い酒を」と思ったそうだ。
「1年くらいそちらで仕事をしたのですが、朝10時から翌朝5時すぎまで働いて月2の休日で給料も月15万円くらいだったかな。料理の勉強もできたし、感謝はしているのですが、さすがに」。
そのお店を辞め、ボイストレーニングのため専門の学校にも通いだした。昼は発声練習の為に車の運転の仕事を、夜はカラオケのあるお店で働き、音楽にすべての時間を捧げる生活を送る。
「親からは勘当されて、うちをでました。定職もないわけですから、大変でしたが音楽の関係者とも知り合うことができたりして楽しかったですね」。
ただ、いつまでもとはいかない?
「そうですね。CDも出しましたが、バイトなしでは生活できない。ただ、憧れていたアーティストとおなじステージに立てたのは、うれしかった。私の財産ですね」。
音楽を卒業したのは年齢のせいではなく、耳を壊したからだそう。「音程が取れなくなってしまった」といっている。
これが、32歳の時の話。
「音楽にケジメをつけ卒業できたのは、起業を視野に入れていたからかもしれません」。
それがZOOの始まりですか?
「じつは、30歳の時にバイト先が同時に2つ無くなり無職になったので、バンドを休んでアメリカへ旅に出ました。その時、友達のいたオレゴン州にも行くんですが、友達がオレゴンには何もないからといって、ふつうのお祭りに連れていってくれたんです」。
もしかして、そこで「エレファント・イヤー」に出会ったとか?
「そうなんです。日本でいえば屋台ですね。この時食べた揚げパンが忘れられなくて」。
日本に帰ってからも食べたくてしようがなかったそう。でも、どこにもない。「検索してもないんですね。それなら自分が始めれば日本初になれるぞ!と」。
つまり、自分が食べたかった?
「そうですね。出発点はそこです/笑」。
ちなみに、「エレファント・イヤー」でいま検索すると、いくつか、オレゴン州で出会ったような記事がでてきた。
パンづくりはどこで勉強されたんですか?
「独学です。もう一度、エレファント・イヤーがあったオレゴン州にも行って給料いらないから修行させてくれと頼んだのですが。ただ、オーナーじゃないから、製法はみんな知らなかったんです。だから、」。
当時は、パンの勉強と、音楽を平行してやっていたそう。
パンと音楽と。
「さっき、耳が、という話をしましたね。当時、起業をサポートしてくれる人が現れたこともあって、無職のまま、パンづくりに専念していたんです。生活はキャッシングでしのいでいました。贅沢はぜんぜんできません。なんとか象の耳を完成させなきゃいけない事情もあって、朝・昼・晩、食事は象の耳の失敗作のみでした/笑」
パンばかりだとさすがに、きつい。
「ある日、朝起きたら布団も持ちあげられない位に具合が悪くなり、医者に行くと栄養失調でした/笑。でも、その夜、ライブで歌うことが決まっていたので点滴を受けてステージにはなんとかあがるんですが、体調が悪いなかでライブをやったからでしょうね。ハウリングした音で左耳が半分くらいしか聞こえなくなってしまいました」。
それで、ミュージシャンを諦めた?
「そうですね。音がわからないんですから。それ以外方法はありません」。
ということは、今度はパン一直線ですね。起業の話はどうなりましたか?
「それが、サポートしてくれるはずだった人が『やっぱりしない』といいだして。ええ、もう真っ暗です。キャッシングで生活していましたから、借金も150万円くらいになっていましたし。お店が開けないと返済も進められません」。
はしごを外されたというのは、こういうことを言うのだろう。始まりと、躓き。ただしくいうと、まだ何も始まっていないのだが。
「一度は道を閉ざされたわけですが、ビッグサイトで神がかりのようなことが起こります。さつま揚げのキッチンカーを出されていた人と知り合いになり、その方が車を貸してくれることになったんです」。
まさに、神の助けですね。「象の耳」のデビューはいかがでしたか?
「あるお祭りにキッチンカーで出店したのですが、ほぼ完売です。祭りの間、『象の耳っておいしいよ』って言葉を何度、聞いたことか。もう、うれしかったですね」。
揚げたてアツアツ。旨くないわけがない。お祭りにはもってこいだ。
「そう、祭りにはもってこいなんです。ただ、このあとスーパーで店頭販売をするんですが、こちらはぜんぜんだめでした。祭りのように、その場で食べないから味が落ちるんです。それから、改良につぐ、改良がスタートします」。
その後、沢山の方々の助けの元に揚げてから焼くという新製法の開発に成功。
光明は、ガラス1枚分の小さなショップに映し出された。「改良を重ねて、これならいける!と思って、法人化し高井戸で小さな工場兼店舗をオープンします。謳い文句は、世界初製法のパン、です。これが、TVにピックアップされて、テレビ東京、埼玉TV、王様のブランチ、スッキリ、ぶらり途中下車の旅、ちい散歩など6ヵ月連続でオンエアされました」。
「ただ、何故かあまりリピートしてもらえなかったんです」と苦笑する。
「どうしてだろう?と悩みまくって、でもわからない。ただ、耳を澄ましてお客様の感想を聞いていると、『おいしいけど、世界初ってほどじゃないよね』みたいな。そこから謳い文句を変えたり見せ方の研究などを繰り返し、色々と試行錯誤しました。ただ、TVのおかげもありフランチャイズは、うまくスタートできました」。
FCの出店も重なり、事業は拡大する。社員も数名だが採用し、アルバイトも受け入れた。「ただ、震災が起こって、ぜんぶ白紙にもどります」。
どういうことだろう?
「震災の影響でイベントが一斉になくなり、業績が急速に悪化します。象の耳はFCもキッチンカー中心でしたから、売上がゼロになりました。それでも数ヵ月はなんとか貯金を切り崩して、社員にも給料を渡していたんですが」。
最初に、会社の口座からお金が尽き、個人の口座も、容赦なく減りつづける。家財もすべて金に換えたが、焼け石に水。ついには、住む家もなくなった。
神も小泉氏を見放したのだろうか?
「一番しんどかったですね」とホームレス時代を振り返る。資産は底をついていた。どれくらいかかっただろう。今度は、努力だけではなんともできない。
「あの時、一台だけキッチンカーは売らずに残していたんです。材料もあるにはありました。どれくらい経った時でしょうか。イベントが少しずつ開催されるようになって、ようやく出店依頼を頂けたのですが。」
ただ、いざ出番という時に、材料が一つだけ足りなかった。
「小麦粉です。その時の私の全財産が214円。文字通り、全財産をかけた戦いです」。
スーパーで小麦粉を1キロだけ買えたので生地を約30コ作ってイベントまでかけつけ、完売して日商1万円。その売上のうち支払い分を引いた残金で材料を仕入れて今度は60コ作って翌日も完売し日商2万円。
毎日その繰り返し。綱渡り。「ギリギリって、ああいうことをいうんでしょうね。でも、必死だったし、楽しかった」。
再スタートの地は、自由が丘。全財産214円からの、奇跡の逆転劇。一台のキッチンカーが生んだ奇跡だ。
ところで、「象の耳」は名前通り、象の耳にかたちが似ている。ホームページをのぞくとわかりやすいが、象の顔を描くと、ちょうど耳にパンをレイアウトできる。
トッピングで味がかわると書いたが、メニューは色々ある。プレーンからシナモンシュガー、黒ゴマきなこ、カカオチョコ、このあたりは定番だろうが、クリームチーズ&ブルーベリーやカルボナーラ、欧風デミグラスカレーなどもある。ホームページには19種類が掲載されていた。
しかし、デザートパンから、食事パンまで、この幅広さが、面白い。揚げ焼きパンのサクサク感と、トッピングの楽しさ。これがいい。
「再スタートが加速したのは、そのあと『全国キッチンカーグランプリ』に参加して、『軽食部門』で準優勝してからですね。『象の耳』を食べた方が、埼玉スタジアムで行われる選手権に参加しませんか?と誘ってくださったんです。今思えば、これも神の声ですね」。
食べれば、旨い、感動する。
「真似はできないと思いますよ。うちの製法は、私だって素人だから思いついただけで。ほかの人には思いもつかないと思いますね」。
改良を重ねたうえの、自信だ。
ホームレス時代が終わると、ふたたび「象の耳」は快走する。
「杉並区のイベントに参加したら、100メートル位の列ができました。また、JR東日本さんが、阿佐ヶ谷から高円寺につづく高架下にオープンする『阿佐ヶ谷アニメストリート』に出店しないかとオファーをくれました。この時はじめて、銀行から融資を受けました。JRさんがバックにいたからでしょうね。はじめて銀行が相手にしてくれたんです/笑」。
これで順風満帆と思うだろうが、話は尽きない。ふたたび、フランチャイズも数を増やしたが、採用したコンサルタントとFCオーナーの間でいざこざが起こるなど、コントロールがきかない。
「42歳くらいでした。でも、もう凹んだりはしなかったですね。象の耳に絶対的な自信があったからです。あんなにみんながおいしいといってくれているんですから」。
おいしいね、が背中を押す。ただしくいえば、神の声援。小泉氏は、フランチャイズとは異なる特約店モデルをつくり新たに打って出た。
「象の耳をブランド名ではなく、メニューの一つとして契約いただく『特約店モデル』です。加盟金はかかりますが、設備投資といっても30万円くらいあれば十分です。ロイヤリティはなく、うちから食材を仕入れていただく、それだけですから投資の回収も早いです」。
象の耳だけのショップでもいいし、新メニューに加えてもいい。たこ焼きのように軒先で、という芸当も可能。「オペレーションも簡単なので、リタイヤ組の人でも、無理なくスタートいただけます」。実際、現在ある54の加盟店の大半が元サラリーマンのリタイヤ組がオーナーだそう。
「いまはいったん加盟店の募集をストップして、2023年末までに加盟数100に向け、ロゴなども一新しているところです」。
この記事を書いている時には、まだコロナ禍の下、イベントや祭りは中止がつづいている。「象の耳」にとっては、きびしい日々がつづく。それでも、小泉氏は下を向くことはない。
初代キッチンカー | 2004年イベント | 阿佐ヶ谷アニメストリート店初日 |
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