sync オーナー 森 敬貴氏 | |
生年月日 | 1971年9月24日 |
プロフィール | 北海道出身。1971年生まれ。高校3年時、アメリカ、ニューヨークに留学。帰国後、高校を卒業し、改めてアメリカに渡り、ニューヨーク州立のコミュニティカレッジに進学。23歳で帰国、ベーカリーショップでパンづくりを学んだほか、世界的なレストランでも修業し、都立大学前にカレーショップ「sync」をオープン。インドでも、スリランカでも、タイでもない、スパイシーで深みのあるオリジナルカレーがファンを虜にする。 |
主な業態 | 「sync」 |
企業HP | http://www.spice-you-up.net/ |
果樹園が広がっている。りんごと聞いて「北海道でりんご?」とつい口にでた。すると、森氏は笑いながら「りんごといったら青森ってイメージですよね」とこちらを気遣う。森氏によると、北海道でも森氏の出身地である余市町では、りんごの栽培が盛んらしい。ウイスキーづくりも盛んで、りんごとウイスキーが2大産業だという。
「ウイスキーでいえば『ニッカウイスキー』の工場があるんです。昔も多かったですが、今は、りんご園とワイナリーだらけ」。
「あ、だらけっなんていったら怒られそう」と爆笑する。
森家も、りんご農家。広い園をもっていた。「10ヘクタールはあった」と森氏。10ヘクタール。調べると約3万坪、東京ドーム2つがスッポリ収まる。つまり、東京ではイメージできない、でかさと広さ。
「小さな頃から手伝いはしていました。ただ、どうやって逃げ出すかばかり考えていましたから、好きじゃなかったんでしょうね。笑」。
りんご園の繁忙期は収穫時だけではないらしい、いったら1年中、いそがしい。従業員さんも常時4人いたそうだが、それでも手がたりなかったのだろう。
姉弟は姉が3人。
「父親から継げと言われたことはなかったですが、長男ですから、子どもの頃からなんとなく父親の背中は意識していました」。
言われなかったんですか?
「オレも好きでりんご園をやっているから、お前も好きなことをやれ、と」。祖父はカーディーラーだったそう。「でも、そう言われるとね。好きなことってなんだろう?って、子どもながら思案にふけっちゃうんです」。
りんごが熟すのをみて、さて、オレは?と悩みつづけた。
「小学校の同級生はたった7人。東京ではイメージもできないでしょ。全生徒の9割はりんご園の子ども。スポーツですか? スポーツっていっても同級生7人ですからね。だいたいのスポーツができない。笑」。
中学は4キロ先。バスケットボールを始める。高校は進学校。向かう先は北大というところだろうか?
「そうですね。ただ、私は大学に進む意味がわからなかった。何が向いているのかも、どの道を進みたいのかも漠然としていた。バスケも入部したのはいいんですが、けっきょくすぐ辞めてしまいましたし」。
憂鬱?
「そうですね。もちろん、勉強もそんなにしていないし、部活もないから、ほかの人より謳歌していたといえるかもしれませんが」。
高校2年になって、一念発起。交換留学に手を挙げ、オーストラリアへ行くことになった。「姉も留学していましたから、だいたいイメージもつきましたし。でも、事務局側のミスで流れてしまうんです。残念でしょ。ただ、一度行こうと思うと、その道だけしかみえなくなって」。
それで、ニューヨーク?
「ええ、3年生の9月から1年の予定で留学します。当然、大学受験はパス。笑」。
思い切りましたね?
「もやもやしていましたから、大学に行くより、すっきりすると思ったんです、学校には1年休学ということで参加させてもらいました」。
ニューヨーク。さて、どんな日々がはじまるのだろう。
「ニューヨークっていったら、みなさんマンハッタンを想像するじゃないですか。でも、私が行ったのはニューヨークでも郊外の工場も多い田舎町です。ニューヨーク以外にも候補はあったんですが、ピンとこない。だって、ニューヨーク以外知らないから。それにニューヨーク州ってりんごでも有名なんですよ」。
なんでも、スーパーなどでよくみかける「ジョナゴールド」は、ニューヨーク生まれの品種なんだそう。
ところで、森氏の留学は、ロータリークラブが主催のプログラム。「3ヵ月に1度、ホームステイ先がかわります。ロータリークラブに所属されている人だから、みなさん裕福でインテリジェンスです。ホストファミリーは旦那さんが専業主婦や、小さな子どもがいる新聞記者、議員さん、それと、IBMのセールスマンでした」
ホストファミリーとの交流以外にも、同じ高校生同士、言葉はちがっても打ち解けた。
「1ヵ月に一度、食事会があって、その時、スピーチをしたりもするんですが、旅行にも連れて行ってくださって。今思うと、とんでもなく恵まれていましたね。私の場合はとくに、語学学習ではなく、自身でもわからない何かを探しにいくのが目的でしたので、観るもの、聞くもの、交わるものの、その一つひとつに意味があったと思います」。
まる1年。秋がもう一度まわってくる。
帰国。
「今思えば、やはり私のいちばんのターニングポイントですね」。
1年の留学で、何かみつかりましたか?
「YES」。
「IBMのセールスマンがいたといったでしょ。彼は大学に営業に行くのが仕事だったんです。それで、車に乗っけてもらって、いろいろな大学に連れていってもらいます」。
日本とは違いますか?
「私は日本の大学には行ってないのでわからないんですが、大学めぐりは楽しかったですね。そのなかの一つに、レストラン系のマネジメントやシェフ学部がある州立のコミュニティカレッジがありました」。
なんでも、マンハッタンで働く人たちがバケーションを楽しむような場所だったので、そういう学問が盛んになったんだろう、ということだった。
「面白いなと思いました。アメリカは飲食だけじゃないですが、アメリカの飲食のカルチャーってとくに面白いし、この大学で勉強すれば、そういったカルチャーをもって帰ることもできるんじゃないかな、と」。
ビジネスですね?
「そうです。わりと小さな頃から、商売には関心がありましたから」。
1年遅れ、後輩たちといっしょに机をならべる。これが帰国後の話。「高校3年の秋から再スタートです。翌年春卒業し、ふたたびアメリカに渡ります」。
面白いこと、好きなこと、やりたいことのしっぽをつかんだ、あのコミュニティカレッジへ。「アメリカを離れる時に、もどってこようと思っていましたから、再度、アメリカに渡った時はじーんときましたね」。
自分との約束通り、その大学に進む。
「スピーディにいったら2年で卒業できるんですが、私は4年きっちりいました。トップはフランス人。実地になると1日7〜8時間。サボったらアウトです。笑」
日本のように甘くはない。というか、日本が不思議なのかもしれないが。
「バーでパートタイムもします。差別ですか? そうですね、まだ昔のことですから。ただ、私の場合、いっしょに学んでいた学生に年上の人がいて、差別というよりアジア人だってことを面白がってくれていいバイト先を紹介してくれたんです」。
アメリカらしく、雑多な客層だったそう。
「テイクアウトもできる、レストラン・バー。140人くらいは入れたんじゃないかな。オーナーはマフィアの末裔。面白いでしょ。楽しかったですね」。
飲食に進もうと思ったのは、この時ですか?
「そうですね。まだ、飲食一本で行こうとは思っていなかったですね。ほかの国をみてみたい、まだここにいたいとも思っていました」。
再度、帰国したのは、23歳の時。ベーカリーショップに就職する。これが、飲食のはじまり。
「パンって、つくれるようになって損はないでしょ。我が家じゃ旨いパンはなかなか焼けないし。こちらでは、2年間、お世話になりました」。
ベーカリーショップに勤務しながら、高校時代の、自身とおなじようなアウトローたちと、チームでつるんだ。「そんなアウトローチームで、海にあそびに行った時に、事故でルームシェアしていた親友を亡くしてしまいました。いちばんの親友です」。
森氏、26歳。
「それがきっかけといいますか、北海道にいても意味がないと思って上京します、ただ、東京にでてきたものの、仕事はダム工事。余市よりへんぴな山奥にこもります。笑」。
どこまでも落ちていくような気がしたそうだ。
無気力?
「そうですね。浮き上がる力がでなかったんです」。
そんな森氏を救ったのは、当時の彼女。つまり今の奥様だ。
「たまたま、彼女が観ていた就職雑誌の裏表紙にシェフの求人があって。今はもう日本にはないんですが『ピッツアエクスプレス』っていうイギリス本社の世界的なレストランです。英語がしゃべれること、イギリス研修に行けることが条件だったんですが、私にすれば、え? これオレのこと?みたいな」。
肩をわしっとつかまれた気がした。
面接は英語で行われたらしい。「今何をやっているんだと聞かれ、モルタルを詰めていると答え、笑われた」という。むろん、やりとりはイングリッシュ。
人生なにがつながるかわからない。
「たしかに、語学目的じゃなかったのに、語学が役立ったわけですからね」。
パン職人から、シェフ森に。新たな道が広がった。
「イギリス研修を経て、日本で、そうですね、3年近く勤務して、もう一度パンにもどり、独立したのは、そのあとです」。
最初からカレーで勝負とは思っていなかったそうだ。
「カレーは趣味でつくっていた程度で。でも、いつか、カレーとビールでって、そんな話を知人にしていたら、じゃぁ、カレーショップをすればいいと言われ、そりゃ、そうかもと。笑」。
最初に出店されたのは、都立大学前ですよね?
「家賃42,000円。水道代込み。ただし、4坪」。
小さな一歩。しかし、森氏にすれば、それが原寸大だった。
「それまでの私って、いうなら、たとえばリムジンという大きなレストランを運転していたようなもんです。でも、リムジンのオーナーにはなれない。じゃぁ、どうすればいいか。原寸大で、そうだ軽自動車でいこうと。軽のフルスペックバージョンでいけばいいじゃないかって思ったんですね。なんであの森がカレーを、なんて言われてもいいじゃないかともね」。
ちなみに、森氏のカレーの原点は、あの北海道にある。
「子どもの頃、歳の離れた姉がお気に入りのカレーショップに、いつも私をいっしょに連れていってくれたんです」。
南インドのカレー。頼むのはいつもチキンとチーズのカレーと決まっていたそう。趣味で追いかけていたカレーもそうだった。「だから、あのカレーが原点なんです。もちろん、私なりのアイデアがプラスされ、オリジナルのテイストとなっていますが」。
ドロドロではなく、サラサラ&ヘルシー、ついでにいうと、店主がよくしゃべるというスパイス付き。syncのカレーは、もう、そうブランディグされてもいる。
「カレーショップってそんなに儲からないんです。だから、売上数字じゃなく、毎日、食べに来てくださる人がいて。ちなみに、その人が毎日くるでしょ。4坪のカウンターで、しゃべらないわけにはいかないから、お客さまと会話するスタイルが定着します。ほかにも著名なアーティストとかもいらして。そういう感度が高い人が旨いと言ってくださっているので、これならいけるんじゃないかって」。
4坪のカレーショップが、爆走をはじめる。軽自動車でいえば、エンジン全開。出店もつづけ、現在は、学芸大学、恵比寿、北海道の3店舗。グルメサイトをみると、いずれも高得点。オーソドックスなチキンカレーもいいが、「牡蠣とクレソンのカレー」がオススメだ。
「恵比寿に移転し、部下にその店を任せ、1年くらい北海道にもどっています。りんご園で仕事をしながら、半分農家、半分飲食っていうのもいいかなと」。
発想が面白い。いつか法人化するかもしれないといいながら、いまだ個人事業主。これも、森氏の流儀。「いつかするかもしれませんが、いまはまだ、法人化する意味がわからないです」。
現在のスケールでは法人化のメリットもないということだろうか?
ただ、未来づくりの戦略は進んでいる。
「ちょうど今、監修のオファーをいただいています。そのほかにも異業種の、ある分野のプロからもお話を頂戴していて、それが新しいうちのスタイルになるかもしれないと思っています」。
飲食の世界だけで、未来をみない。人があつまる、そこにsyncのカレーがあればいいという発想。
「セレクトショップに、カレーがあってもいいでしょ」。
たしかに、たしかに。
ただ、これは未定の話。
こういうと森氏に怒られるかもしれないが、ひょっとして森氏は、ビジネスの未来だけではなく、子どもの頃と同様に、まだ好きなこと、やりたいことを探しているのかもしれない。
いえば、心の広さがそうさせるのだろう。
決まっているのは、スモール&ハイスペックでいくということだけ。その意味ではいえば、森氏というりんごは、まだ熟しきっていないのかもしれない。その青さがまた魅力でもある。
初代sync | 2005年から2013年末の 建て替えまで営業したsync |
森社長と恵比寿店店長 |
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