株式会社龍名館 代表取締役社長 浜田敏男氏 | |
生年月日 | 1954年6月9日 |
プロフィール | 東京都出身、慶応義塾大学卒。10年間の銀行員生活を経て、1986年に「龍名館」に転職し、財務の健全化、業務の効率化を図るなど経営手腕を発揮。次長、部長、副社長とキャリアを積み重ね、平成17年、兄の浜田章男氏が会長となり、5代目社長に就任する。 |
主なレストラン業態 | 「花ごよみ東京」「RESTAURANT 1899 OCHANOMIZU」「CHAYA 1899 TOKYO」 |
企業HP | https://www.ryumeikan.co.jp/ |
「脛に無数の注射器の痕が残っている」という。
「ちっちゃな頃はとにかくからだが弱くってね」。4歳の時には、盲腸になったそう。浜田氏が4歳の時だから1958年 のこと。今ほど医療もしっかりしていない。
「ついてないですよね、誤診もされて腹膜炎も併発してしまいます」。入院は3ヵ月に及んだそう。脛の痕は、その時刺された注射の数だけある。
「退院してからも、また肋膜炎になって半年間、療養生活です。だから、3年制の幼稚園だったんですが、1年間ぽっかり穴があいているんです。小学生になってからも冬になったら風邪をひくもんですから、学校も休みがち。低学年の頃はとくに運動もままならなかったので、休み時間は教室に1人。ともだちもいません」。
ただし、孤独だったわけじゃない。「旅館にはいつも声をかけてくれる番頭さんや女中さんがいましたから。キャッチボールの相手は、板前さんやふろ場のおやじさんと決まっていました。ふつうなら、学校がもう一つの世界なんでしょうが、私には旅館がすべての世界でした」。
番頭さんたちといっしょに正座して、「いらっしゃいませ」とお客様をお迎えしたこともある。大人たちに混じって頭を下げる少年の姿に頬を緩めたお客様もいらっしゃることだろう。
ちなみに、浜田氏が通ったのは、千代田区にある「番町小学校」。四ツ谷駅から徒歩7分、市ヶ谷駅から徒歩6分。2021年で創立150周年らしい。
むろん、歴史では龍名館も負けてはいない。明治32年創業。100年以上の歴史がある。日本の歴史のなかに組み込まれている名旅館だ。
「日ごろから大人たちと接しているもんだから、教師には冷めた目を向けていましたね。昔は今みたいにハラスメントという考え方がないから、先生もひどいもんです。休みがちで、算数ができなかった私に、『算数ができない奴はすなわちバカだ』と。今なら大問題ですよね/笑」。
給食にでたイカが食べられないというだけで、放課後に残されたこともある。「だからって、腹も立たなかったです。こんな大人もいるんだって。先生らより、大人だって思っていましたからね」。
子どもの格好をした、おやじ。
つまり、「おやじこどもだった」と笑う。
高学年になった頃から、ともだちもできたが、女子ばかり。女子に混じってゴム飛びばかりしていたそう。「刺繍やアップリケが得意だった」とも言っている。
兄弟は、3人。長男とは5つ離れ、姉とは4つ離れている。「末っ子ってこともあって、かわいがってもらったと思います。もちろん、からだが弱かったから、そのぶんやさしくされたのかもしれませんが」。
おやじこどもは、両親の愛情も、冷静に分析していたのかもしれない。
中学生になると、すっかりからだも強くなったのだろう。弓術部に入部し、主将を務めている。「中学は、慶應義塾の付属中学に進みます」。弓術は兄弟の影響で始めたそうだ。「高校に進学した時には、水泳部やボート部もいいかなって思ったりしましたが、けっきょく、大学までつづけます」。
「和弓」というらしい。「洋弓」はアーチェリーのこと。「これくらいのね」と両手で輪をつくり、「この的を射るんです」という。「弓術っていうのは、私にぴったりのスポーツでした。イレギュラーっていうのはない。反復の動作だけです」。
動きは単純だが、奥が深い。「弓をみていると、私という人間がいかに凡人で、いや、凡人以下っていうことがわかります。弓は、なんでも映し出すというか、なんでも知っているんですね。ただ、その弓が私にはあっていたんでしょうね。同じことの繰り返しですから」。
「人の11倍、練習した」という。
「矢数をかけるというんですが、私は人の何倍も矢数をかけ、巧くなりました」。全日本やリーグ戦にも出場している。東京都で開催された「百射会」では3位にもなっている。
「大学1年の時は、新人賞をいただきました」。
精神力も大事なスポーツですよね?
「そうですね。弓っていうのは、練習量が糧になるスポーツです。これだけやったから、というのが自信になって、それが、精神力というか、ちからになって結果につながります」。
だから、11倍なんですね?
「そうです。10倍で人といっしょ。だから、あと1つ、それが大事なんです」。
ちなみに、中学の時の恩師は、のちにモントリオールのメダリストの指導もされた名伯楽だったそうだ。
龍名館。その歴史は、代々の経営者がつむいできた苦労の歴史でもあるのだろう。「私が知る限りでは、オイルショックですね。親父が1人座って旅館の天井を見詰めていたのを記憶しています」。
御茶ノ水の本店をビルに建て替えるための、融資がなかなか下りなかったそうだ。リニューアルしないと、時代に取り残されてしまう。それだけは避けなければならなかった。けっきょく、懇意にしてくださっていた銀行に頼り、融資が下り、昭和50年に本店ビルが完成する。
無事、竣工されたが、この時の経緯は、浜田氏の未来に影響を及ぼす。
「私は旧太陽神戸銀行に就職します。親父の方針です。オイルショックの時に相当苦労したもんですから、金勘定ができる人間が身内にいて欲しかったんです」。
銀行マン、浜田。
「兄はホテルオークラに就職します。ただ、3年で退職し、『龍名館』に専務として入ります。従業員と軋轢があり、苦労したと聞いています。ただ、兄はまっすぐ親父をサポートし、『龍名館』を育ててくれました。兄は平成7年、父が他界したことで、社長に就任します」。
「私といえば銀行マンになるんですが、窓口業務は3日しかやってなくって、あとはずっと得意先回り。目黒や三軒茶屋、雷門のところの浅草支店と、支店を転々として、次の立川支店の時に兄から『龍名館』に入るように言われます」。
銀行員時代は10年というから、「龍名館」に入社したのは 1986年のこと。「当時は木造の、部屋も20室くらいの旅館でした。入社して、なんじゃこれは、と/笑」。
どうされたんですか?
「とにかく効率が悪かったんです。水道管をリニューアルしただけで月々30万円のコストダウンできたくらいですから。すべてがこんな感じ。とにかく不効率。ただ、当時の旅館といったら職人ばかりです。そういったところに目を向けない。それが職人というものの矜持だったのかもしれません」。
全員、年上だったそう。「納得すると神業みたいなことをするんですが、納得いかないと何もしない。昔かたぎだったんですね」。
尊敬もしたし、旅館を一つの世界として育った浜田氏だけに、職人たちのやさしさも理解している。しかし、忖度はしていられない。改革もまったなしだったから。
「朝礼をしようとしても、来たのはたった1人」と笑う。昔かたぎの従業員からすれば、とつぜん、銀行上がりの、しかも年下の上司ができたわけだから、面白いわけがない。
「それでね。私は、みんなといっしょに『まかない』をいただくようにしたんです。同じ釜の飯というのは、ただしいですね。だんだんと心が通じ合うようになっていくんです」。
食事の時は、肩書もなにもない。心も、無防備だ。無防備な経営者が、たわいもない話に笑う。その姿をかみしめて、従業員の心も動いたのだろう。
ちなみに、浜田氏は今もこの習慣をつづけている。
次長、部長、副社長とキャリアを積み、平成17年に社長に就任する。前社長である兄の浜田章男氏から「社長をしろ」と命じられたのは、八重洲の居酒屋だったらしい。
「私で5代目です。まぁ、私はそれまで副社長でしたから楽だったんです。総務部長の延長みたいなイメージですね。だから、兄としては『こいつにいつまでも楽をさせておくわけにはいかない』となったんでしょうね/笑」。
旅館の経営で何が一番大事か、私にはわからないが、銀行を経験した浜田氏だったからこそ、難しいかじ取りができたのは間違いないだろう。
金融機関とのやり取りもその一つ。財務にもするどく切り込んでいる。バブルの頃には、うまい話にいっさい手を出さなかった。一歩、間違えていたら、今の「龍名館」はなかったかもしれない。
社長に就任して2021年で15年になる。
その15年で苦労したのは?とうかがうと、銀行振り込みの話がでてきた。
「昔は、ぜんぶ手渡しだったんです。だから、給料日前になると、1人1人封筒に詰めてね。そういう世界だったから、銀行振り込みなんていうと『ありがたみがない』と/笑。銀行口座をつくってもらうのもひと苦労です。字もろくにかけない人もいたからね/笑」。
今では笑話だというが、相当、苦労されたのだろう。言葉の端々からも、孤軍奮闘の様子が読みとれた。評価体制も再設計し、今の制度をつくりあげた。
「それまでがザルだったから」と笑う。しかし、それにも抵抗があったと顔に書いてある。採用にも苦労した。函館の高校まで金のたまごを探しに行ったこともあるそうだ。
「まぁ、それも昔の話ですね。今は新卒採用もうまくいっています」。職人の顔ぶれもかわったことだろう。「若い子が中心になってイキイキ仕事をしてくれているのが、いいですね。ただ、コロナ禍でランチのみにしたり、休業にしたりと、なかなかしんどいです」。
ホテル業以外にもレストランや、不動産業も行っているからなんとかやっていけている、と本音をもらす。ただ、浜田氏の予想ではそう遠くないうちにワクチンがいきわたり、潮目がかわるとのこと。あと少し。ただ、東京に宿泊客がもどるのは、もう少し先になるだろうとのこと。
実際、本店は来年3月まで休業することになっている。いまは無駄な経費をつかわない、それも、一つの戦略なのだろう。だからといって手をこまねいているわけではない。
コラボ企画も積極的に行い、オンラインショップにちからを入れている。お茶が一つのテーマになっている。
2018年に開業した「ホテル1899東京」は、お茶がコンセプト。御茶ノ水にあるレストラン「RESTAURANT 1899 OCHANOMIZU」は「お茶を食す」ダイニングとのこと。ホテル内のカフェの 「CHAYA 1899 TOKYO」では、日本茶はもちろん、抹茶ラテや、お茶ソーダ、抹茶のお酒もならんでいる。抹茶をつかったスイーツもかわいい。
オンラインショップのコンセプトも、似ている。お茶のパックや、スイーツ、お茶のある生活が楽しくなるグッズも販売されている。お茶といえば、高価なイメージだったが、ごく普通の価格。贈り物に欲しくなる、「CHACHACHA缶 4種セット」でも3000円。充分、手がとどく。
さて、数年後、龍名館は、どんなホテルとなっているだろう。浜田氏のなかには、その姿がもうあるのかもしれない。その的を狙い、もう、弓は引き絞られている。
ちなみに、2009年に開業したホテル龍名館東京は、新規に開業後わずか3年で、経済誌のランキングの一つ、ビジネスホテル部門で2012年に全国第1位を獲得。外国人宿泊客の評価も高く「ミシュランガイド」(2012〜2020)に掲載されている。
七五三(4歳?) 写真左 | 昭和37年ころ 写真左 | 大学1年(19歳)秋 |
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22歳(銀行に入社した頃) |
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