福満園グループ 代表取締役 山田聖一郎氏 | |
生年月日 | 1971年12月1日 |
プロフィール | 中国 福建省産まれ。17歳で来日し、仕事を通し、日本語をマスター。25歳、来日してから貯蓄した1000万円を元手に、1号店を出店。順調に業績を拡大し、横浜中華街にも進出。2021年現在、店舗数は、関連含め24店舗を数える。「横浜中華街発展会協同組合」の理事をはじめ、「日本福建経済文化促進会 横浜分会」で会長を務めるなど、中華街や、福建省の発展にも尽力する。 |
主な業態 | 「福満園」 |
企業HP | https://fukumanen.jp/ |
「中国でもかなり田舎の村で、私が小さい頃には電気も通っていませんでした」と、今回、ご登場いただいた福満園(フクマンエン)グループの代表取締役、山田 聖一郎氏。
1996年に帰化し、日本国籍を取得されている。
来日は17歳の時。西暦では1988年のこと。日本はバブル経済、真っただ中。「親戚の子といっしょに来日します。上海にも行ったことがありません。17年間、村からでたことがなかったのに、いきなり外国でしょ。最初は、当然のことですが、なにもわからない」。
ただ、不安のなかには、希望もあった。初来日されて、日本はどうでしたか? とうかがうと、「みるもの、みるもの、すべてで、目が丸くなった」という返答だった。
「最初に暮らしたのは、港区の田町です。来日のきっかけをつくってくれた父親の知人のところで暮らしました。ただ、5畳の部屋に6人です。狭いですね/笑」。
その後、新橋にある、カレーとスパゲッティのお店でアルバイトを始めたそうだ。
「1年くらい働きました。日本語を勉強したのは、そのお店です」。
日本人の印象は? とうかがうと、「やさしい」と一言。「お世話になったお店がファミリー経営だったから、とくに」、とも。もう来日して、数十年。日本語は流ちょうだ。ただ、当時の話を聞くと、言葉の端々で、不安と希望が入り混じった、来日当時の、17歳の心境が揺れうごく。
「そのあとは、亀戸や市ヶ谷、そうですね、リトル香港でも仕事をしました。ともかく当時は、1ヵ月で300時間くらいはたらいていたんじゃないでしょうか。中華街の『大珍楼』でも仕事をさせてもらいました」。
1ヵ月、300時間。いまなら、問題になる労働時間だ。しかし、当時は、それが当然という風習だったのも事実である。そのなかで何を指向するか、問題は、そこ。むろん、山田氏の視線の先には、「独立」の二文字があったに違いない。
独立のきっかけは?
「中華街です。この街には、北京はもちろん、上海、四川、広東と、中華料理のすべてがあるんです。ただ、一つだけ、福建省の、私が育った村で、私が小さな頃に食べた料理がなかったんです」。
それで福建省の料理で勝負ということになったんですか?
「そうです。福建省の料理は、旨いんです。だから、いけるんじゃないだろうか、と。この味にかけてみよう、と」。
結果はもうでているが、急がず、もう少し創業時の話をつづける。
「1号店は横浜市中区の松影町に出店します。1995年のことで、私が25歳の時です」。
開業資金はどうされましたか?
「12坪の小さな店ですが、それでも1000万円くらいはかかりました。来日してからコツコツ貯めてきた資金をあてて開業です。ただ、私自身は『景徳鎮』という起業する前から勤めていた店で支配人をつづけます」。
お店のほうは、どうされたんですか?
「店は、信頼できる人に任せました」。むろん、コンセプトはすべて山田氏が手がける。幸いなことに業績は順調に拡大する。
その後、蒲田にも出店し、中華街にも進出する。
「中華街にオープンしたことで、いろんな人と知り合うことができた」という。とくに、「景徳鎮」で勤務したことが大きいそうだ。「社長が、中華街のなかでも顔が利く人でしたから。そのおかげですね」。
一つ一つの出会いが、山田氏を大きくする。
のちに「横浜中華街発展会協同組合」の理事となり、10年以上つづけているそうだ。そのなかで生まれた人脈も多い。そんな山田氏からみて、中華街の風景は、どう移りかわってきたのだろう? その点についても、質問を投げてみた。
「この10数年で、中華街もかわりましたね。リーマン・ショックや震災時に、とくに大きくかわったという印象です。具体的には、いままで中華街にはなかったようなショップがオープンします」。
無意味な価格競争が起こったこともあるという。
「昔を大事にするわけではありませんが、100年の歴史がある街です。その文化は、やはり大事にしなくてはいけない、私はそう思っています」。
かわることと、かわらないこと。ルールがあって、はじめて街がある。そのルールは、仲間を大事にするということではないのだろうか。共存という言い方もできる。
「福建省だけではなく、中国からは様々な人が日本に来ています。私のように帰化した者もあれば、そうでない者もいる。日本に来る目的も少しずつかわってきているかもしれません」。
ただし、時代はかわっても、横浜中華街は、中華のアイデンティティによってはじめて成立する街である。それはかわらない、街の根っこ。
さて、山田氏の活動は、飲食だけではない。
「『日本福建経済文化促進会 横浜分会』という会を立ち上げ、私は初代の会長を務めます。この会は、飲食だけではなく、日本で様々な仕事をしている福建省出身の中国人の会です。最盛期には、600〜800人がいました」。
ネーミングからすると、日本と福建省の、経済と文化のかけはしというところだろうか。「そうですね。でも、震災の時などには、物資の支援を行うなど、活動の幅も広いですね」。
順風満帆。
苦労がないといえばうそになるが、会社も順調に大きくなり、山田氏自身もまた、何不自由のない立場になる。山田氏を慕う人間も、少なくないだろう。
そんな山田氏に一つ、たいへんだった時を挙げてもらった。
「そうですね。リーマン・ショックや大震災の時もたいへんでしたが、いちばんたいへんだったのは、本店の隣にあった割烹を新しく買った時ですね」。
取得するのに、3億円くらいかかったそうだ。
「投資金額もそうですが、なかなか儲けがでませんでした。儲けをだすまで5年くらいかかりましたから、かなり足を引っ張られた格好です」。
「あれがなければ、事業展開はもっとスピーディだった」と山田氏はいう。「あと2億円くらいだせば、大通りにも出店できたのに」とも。ただし、スピーディな展開だけがいいわけではない。その5年は、事業を模索し、事業の幅を広げることになり、いまの礎にもなったのではないか。
現在、福満園グループは、8社のグループ会社をもち、飲食店舗は、関連を入れ、24店舗くらいになるという。そのうちの8店舗が、昨年からのコロナ禍の下でオープンした店というから驚きだ。
「新店効果で、全体の売り上げは、一昨年に比べ拡大しています。ただし、既存店だけでいえば、うちも70%はダウンしているんじゃないでしょうか」。
既存店の落ち込みはきついが、それでも雇用は維持している。出店の狙いは、雇用の維持にあるのかもしれない。
「グループでいま、従業員は300人くらいです。日本人はうち10%くらいでしょうか」。
今後は、「日本人の採用を強化していきたい」と山田氏はいう。むろん、チャンスがあれば、積極的な出店も辞さない構えだ。「理想をいうとM&Aですね。業態は関係なく、10店舗くらいの規模の会社をM&Aできれば、いいですね」。
コロナ禍の下でもまっすぐ上を向く。
これが、山田氏のつよさだろう。
2021年現在、福建省出身の中国人は、世界中で活躍している。山田氏もその1人である。生まれ故郷の村では、有名人の1人かもしれない。
ともあれ、起業時にかけた、小さな頃に食べた福建省の味は、いま大きな利をもたらしている。山田氏にとっては、勝利の味でもあるわけだ。
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