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第862回 株式会社ディー・ファクター 代表取締役 宮本大城氏
update 21/11/16
株式会社ディー・ファクター
宮本大城氏
株式会社ディー・ファクター 代表取締役 宮本大城氏
生年月日 1974年10月22日
プロフィール 野球に夢中になった少年時代。バブル真っ盛りの時代に味わった飲食業の煌びやかさや雰囲気に魅了されたのが体の奥深くに浸み込んでいたのか、大学進学とほぼ同時にスタートした飲食店でのアルバイトに夢中になり、アルバイト先の会社に就職。30歳で18万円の貯金を抱え、勤務していた会社を買い取り独立。31歳のとき「Shi-Fan」オープン。今後は、2023年完成の北海道日本ハムファイターズの本拠地「HOKKAIDO BALLPARK VILLEG」での開業や自社店舗の拡大展開を計画中。
主な業態 「Shi-Fan」
企業HP https://www.harden.jp/

祖父、父から三代続く「江戸っ子」として生まれる。

江戸っ子である。
「江戸っ子」という言葉が使われだしたのは18世紀末、田沼意次が老中だった頃のようだ。厳密な意味での定義はないがいくつかの条件があるようで、一般的には「三代続く」と「江戸っ子」と言ってもいいといわれている。「祖父も父も東京生まれですから、その意味では江戸っ子なんでしょうね」。
「1974年、東京都渋谷区で生まれました」
かれこれ半世紀、50年を経ても未だに伝えられているトイレットペーパーが店頭から消えたニュース映像に象徴されるオイルショックに襲われた翌年にあたるこの年、どんな出来事があったのか、ちょっと振り返ってみる。
スプーン曲げのユリ・ゲラー来日で超能力ブーム。モナ・リザ展開催、ハンク・アーロン715号本塁打、サッカーの神様と称されたペレが引退、モハメド・アリが復活した「キンシャサの奇跡」、先日、文化勲章を授賞した長嶋茂雄が現役引退。暗闇迫る後楽園球場、引退セレモニーで語った「我が巨人軍は永久に不滅です」はいまなおファンの間で語り草になっている。1974年とは、こんな年だった。

バブルの凄まじさを目の当たりにした少年時代。

「父親は普通のサラリーマンでした。父母に4人兄弟の6人家族の構成で2歳下に弟がいます」
父親は企業戦士とでもいうのか、良くいえば仕事一筋、悪くいえば家庭を省みないタイプだったようだ。この時代「24時間、戦えますか!」「やりがい!」というCMがあり、現代の「ワークライフバランス」「働き方改革」「時短」などという考えとはまったくの真逆で、全精力を傾け企業のために働くことは当然という空気、美徳の感さえあった。古い言葉で言えば「滅私奉公」、凄い世の中だったようだ。
「本人は、いわゆる高度経済成長を支えた世代だと自負しているようですし、いまでも思い込んでいるようですよ」
当時の住まいは港区の父親が勤めていた会社の社宅。小学校3年までは原宿、6年までは麻布だったとのこと。いまでこそ麻布は東京を代表する繁華街・六本木に近いこともあり「オシャレな街」として知られているが、宮本氏が住んでいた時代は電車もなく不便極まりない「陸の孤島」という感があった。「陸の孤島」化したのにはある理由があるのだが、そこはさておき、麻布十番に地下鉄が開通し「孤島」から解放されたのは2000年のことだ。
「小学校高学年の頃、いわゆるバブル真っ盛りでした。そのためか地方から憧れなのか、お金があったなのか知りませんが、新しい住民が増えたようですよ。ボクらは地元育ちでこれまでどおり、普段どおりの生活なんですが、この新しい住民、人たちの振る舞いというか金銭的な価値観には驚かされることばかりでした。とんでもない家に住んでいた子もいましたし、お金持ちをひけらかす人もいましたね。いま、バブル紳士と呼ばれた人たち、どこにいったのでしょうね」
ただし「バブル」という言葉は弾けたあとに使われた言葉で真っ盛りの時には「この隆盛はいつまでも続く」と信じられ、いつかは弾けて消えてしまうなど誰もが考えつかなかった時代だったともいえる。こうした時代に多感な少年時代を過ごした宮本氏だが、冷静な一面もあったようだ。
「世の中全体が浮かれまくったような狂乱の一方で、埋もれた、あるいは隠れた影に、いまにして思えば、子どもながらに現代に繋がる格差社会の断片を目の当たりにしたかもしれませんね」
振り返ってみればサラリーマンで頑張ろう!とか、いい大学に入って、いい会社に就職してとか、弁護士や教師になるという未来にあまり魅力は感じなかったようで、それが現在に繋がっているのかもしれない。
とは言え、世は浮かれているのは大人の世界。やはり子どもは子ども。
「野球少年でした」

野球部を退部してブラブラの日々。

宮本は野球が大好きな活発な少年だった。
「中学生時代は野球に夢中になっていましたね。野球選手になりたいとか、そんな大それたことは考えませんでしたが楽しかったですね。上手いか下手か?図抜けて上手い選手ではなかったと思いますが……、下手ではなかったです」
それなりの技量を備えていたのだろう。高校へ進学し野球部に入部した。
「とりあえず野球の技量が入学試験の採点に加味されたことは事実のようです。こんなこと言っていいのか分かりませんが、人並み以上の技量を備えている場合、答案用紙に名前を書くだけで合格するという話を耳にしたことがありますよ。ボクは違いましたけど……」
高校進学で入部した野球部だが、中学校までとは勝手が違うことに驚いた。というより恐怖すら感じた。
「中学校までとは違い使用するボールは硬球なんですが、痛いんですよ。怖くなってすぐ退部しました」野球がしたくて入学したが野球をとってしまえばなにもない。
「特に何をするでもなく、何かに熱中したわけでもなく、日々、平々凡々、プラプラした3年間でした」
高校卒業、大学へと進学。入学間もない頃に出会ったアルバイトが、「運命の出会い」になるのか、飲食業への道を切り開くことになる。

子どもの頃に味わったバブル時代の体験が飲食業の原点。

飲食業への素地、関心は、いつ頃芽生えたのか。どうやら子ども時代に体験したバブルだったからこそ味わえた楽しみが現在の職業に繋がるきっかけになったともいえるようだ。
時計の針を戻してみよう。
「先ほども言いましたが、小学校高学年の頃はバブル絶頂期でした。当時は異常な金持ち、金持自慢の大人が多く、そういうオジサンたちにいろんなお店に連れてってもらいました。料理の味は覚えていないんですけど、店内の雰囲気、煌びやかな装飾、サービスなど日常とは異質の世界に刺激されましたし、いまだにあの空気感を覚えていますね」
サービス業に対する憧れ、飲食業への原点がここにあるようだ。
「サービスって、カッコイイと思いました」
本人が意識するかしないかは別にして、こうした体験が刷り込まれた「飲食業」への憧れや漠然とした夢が結実する第一歩が大学進学に合わせるかのように始めた飲食業でのアルバイトだった。というより飲食業との出会いだった。
「入学して間もなく、中華ですが母親の知り合いのお店でアルバイトしたのがスタート、飲食業デビューです。面白かったですね」

大学の講義は気もソゾロ、進みたい道が見えてきた。

「大学へは入学して間もない頃は講義に出席していましたが、アルバイトを始めてからは、ほとんど行きませんでしたね。必要な単位を取得したかどうかわかりませんし、3年に進んだのかどうかも定かじゃないんですが、最終的には6年在籍しました」
なぜ6年も?
話によれば宮本氏の父親は厳格で教育熱心のようで「学生の本分を弁えろ」と、常に言われ続けたという。
「こう言ってはなんですが、本人は高卒ということもあったのか、それがコンプレックスだったのかわかりませんが、子どもは大学に行かせたいというか、そういう意味では教育熱心だったんでしょうね」
質実剛健とはいわないまでも、厳しく教育熱心な家庭で育った宮本氏だが、実家はもちろん親族にも「商売を営んでいた」事実、歴史はないという。ただ本人は「商売」の「飲食業」の面白さに魅了されていく。
「アルバイトがオモシロクてオモシロクて、学校にはほとんど行きませんでした」そうはいってもアルバイトの身分であることに変わりはない。
「時間を見つけてはいろんなお店に行ってみました。こうした体験を積み重ねた結果、『この店のようなカッコイイと思う場所で働いてみたいなとか、どうやってこの世界で生きていくか』と考えるようになっていましたし、そうしたお店のスタッフの方々と話しをするのも楽しかったですね」
視界は開けてきた。「飲食業で働く」という覚悟もついた。一日でも早く「飲食業」に進みたいのだが、ハードルがあった。父親の存在である。
「中退して飲食業に進みたかったのですが、大学を辞めさせてくれないんですよ」
6年たってやっと中退。
父親なりに描いた子どもの将来を諦めたのかもしれないが、飲食業に進んだ我が子を認めているわけではなさそうで、誤解を恐れず言えば「水商売になり下がりやがって」と思っていたようだ。ただこの考えは、人それぞれの価値観でしかない。
人がなんと言おうが飲食業との出会いを振り返り宮本氏は、「天職なんだと思います」と語る。

貯金18万円。30歳で独立を果たす。

6年の歳月をかけて大学を中退した後、アルバイト先に就職。社員になった宮本氏は、これまで転職した経験が一度もない。
「会社に在籍したのはアルバイト期間を入れるとかれこれ8〜9年になるのですが、同じ系列、たとえばBARなどに配置転換や異動はありましたが、いわゆる、辞めて別の会社に就職する、つまり転職の経験がないんです」
会社はピーク時に5〜6店舗を運営していたのだが、29歳の時に経営が傾き始めた。原因は定かではなく、一社員が直接関与することではないが、他の事業に失敗したことが引き金になったらしいということを耳にした。
さぁ、どうするか。ここからが真骨頂。
「就職してから30歳までには独立しようと考えていたこともあり辞めようと思いました」
思い立ったら行動は早い。
当時、南青山で50坪ほどの広さの店舗をオーナーに任されていたが、ここを引き継ぐかという話があり、会社対会社で引き継ぐことを決意。
「広さは50坪程度で60〜70席の店舗でした。建物が古いこともありましたが、助かったのは水道光熱費込で家賃が76万円と安かったことです。元々が元気で順調な店舗だったこともありスタートから好調で2年半後に2店舗目を出店しました」
因みに引き継いだとき、資金はどうしたのだろうか。
「貯金は18万円しかありませんでした」
無謀といえば無謀、度胸がいいといえば度胸がいい!
そして31歳のとき、麻布十番に「Shi-Fan」をオープンした。2005年のことだ。

順風満帆ばかりではなかったけれど、人生のターニングポイントに。

「店舗運営に関して考えつくかぎりあらゆる面でしっかり投資したこともあり、1年半くらいで回収できました」
会社を設立して17年の歳月が流れた。この間、順風満帆とばかりではなかった。
「2011年に東日本大震災、昨年からの新型コロナウイルス禍など影響は大きかったですね。成功ばかりではなかったしマイナスも味わったし、売上が大きく減少したこともありましたよ。ただ、いま、人生のターニングポイントだ、これからだと思いますし、飲食業が一番楽しい時だとも思っています」
「禍を転じて福と為す」という言葉がある。「ピンチはチャンス」という言葉もある。新型コロナウイルス、緊急事態宣言による休業や時短営業など飲食業が直面した問題は大きかったし、未だ回復はしていない。ただ下ばかりを向いているわけにはいかない。 「いまスタッフが一番充実していて、コロナ禍で以前よりスタッフと話ができている、コミュニケーションがとれている、みんなが同じ方向を向けているなと実感しています」
現在、共に働くスタッフは22歳〜49歳まで、創業時からのスタッフを含め総勢8人。彼らに対しても独特の考えをもっている。
「ここで経験して独立すれば、という気持ちで接していました」
普通は気心の知れた、仕事を、お互いを理解したスタッフには長く勤めてもらいたいと希望するのではないかと思うが独立を推奨する。どういうことなのだろうか。
「お客さんて、お店につくのか、スタッフにつくのかのどちらかだと思います。その意味ではスタッフについているお店を作ってきたつもりです。どんどん外に出ていって、個性を生かしたお店を出したり、いろんな業態に進んでほしいですね」
「たとえばですけど、2023年春にオープンする北海道日本ハムファイターズの新球場“HOKKAIDO BALLPARK VILLAG”に出店する話などが進んでいますし、今後、自社で4〜5店舗ほど新規展開をしたいですね」
「料理人の“顔”が見える料理を提供したい」と語る宮本氏。「飲食業は天職だ」と語る宮本氏。飽くことなき前進の日々は立ち止まることがない。

思い出のアルバム
 

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