株式会社Incroot(インクルート) 代表取締役 野本幸佑氏 | |
生年月日 | 1989年2月4日 |
プロフィール | 北海道札幌市生まれ。明治大学法学部に進学と同時に上京、大学生時代に4年間ラーメン店でアルバイトを経験。卒業後、バーを開業するため一度はバーテンダーとして修行するが挫折し、友人二人とラーメン店の開業を決意する。2016年浅草に「濃厚鶏麺ゆきかげ」を開店、2年後にオープンした三ノ輪店との2店舗を経営する。 |
主な業態 | 「濃厚鶏麺ゆきかげ」他 |
企業HP(食べログ) | https://tabelog.com/tokyo/A1311/A131102/13200289/ |
父はサラリーマンで母は専業主婦、ごく普通の家庭で姉と妹の間で何不自由なく育つ。幼少期は「忍者」や「サムライ」に憧れ、国民的人気アニメやアメコミヒーローが好きだったが、特になりたい職業はなかった。唯一飲食店でカッコいいと思ったのは「お寿司屋さんの板前」だったという。
高校生になり、進みたい道が見えてくる。「ファッション業界」だ。「売る側」でも「作る側」でもどちらでもいいから大好きな洋服に関わる仕事に就くため、専門学校進学を両親に相談したが、はじめて自分で選んだ道は、母親の「大学だけはどうしても行って欲しい」と言う願いを聞き入れ、一旦変更することとなる。
「では、どこの大学に行こう?」
どんな業界でも、いずれ独立すると決めていたのは、不自由ない環境で育てられたが故に、逆に、お給料ではなく自分の商売で稼いだお金で生きていくという生き方に魅力を感じていたからだ。
自分で会社を立ち上げることになった時、法律に明るいのが有利なので弁護士資格を取得しようと考え、野本氏は法学部を選択する。しかし、もともと弁護士を目指して準備していたわけでもなかった高校生には法学部の壁は高く厚い。2年間の浪人生活を送り、明治大学の法学部に合格した。
大学に合格したものの、入学早々「弁護士」になることは諦めようと決心した。
「二浪してるんですよ?入るだけでも大変だったのに、もっとずっと難しい弁護士試験のために、また毎日勉強漬けかと思うと…」
少なくとも「大学に行って」という母の願いは叶えたが、まだ自分自身の進むべき道を決められないまま、アルバイトをしながらの大学生活を送る日々の始まりだ。
働いていたのは、北海道味噌ラーメン店「魚らん坂」の両国店(当時)。「実は醤油ラーメンが一番好き」という野本氏だが、本場北海道の味を知っていて、ホール業務から仕込み・スープ作り・麺上げまで何でも任せられる人材として活躍、人間関係にも恵まれ4年の月日を過ごした。当然「このままラーメン店に残って欲しい」という言葉を頂戴したが、卒業と同時に辞め、いよいよ自分の選んだ道へと進みだす。
母親思いで法学部卒の若者は、どこか大企業にでも入社が決まったのだろうか?
「バーを経営しようと思ったので、神田のバーでバーテンダーの修行をはじめました」
“NEVER STOP EXPLORING”某アウトドアブランドのコンセプトで、野本氏の好きな言葉の一つ。新たなことに好奇心を持って挑戦するのが苦ではないのだろう。
スタッフが皆仲良く賑やかだったラーメン店とは打って変わって、オーナーと自分だけの特殊な空間。望んで入った業界なので、仕事自体は面白かったというが、昼夜逆転の仕事の過酷さ、友人たちと別世界で生きる孤独さに、日を追うごとに苛まれていった。
「華のある自由な仕事だと思っていたら大間違いでした。実際入ってみたら、地味で、忍耐と努力が人一倍必要なことがわかったんです」
バー経営の理想と現実を知り、1年足らずで去ることとなった。
神田のバーを辞めた後、かつてアルバイトをしていた「魚らん坂」の店長だった人がバーを独立開業するということで声がかかった。「開業の流れを学ぶチャンス」と思って勤めたものの、経営がうまくいかずに半年間無給で働くことも経験した。
お店の開業や経営の厳しい現実を目の当たりにし、自分が開業した際にそんな思いを従業員に決してさせる訳にはいかないと心に誓った。
バー開業をあきらめた野本氏は、再びラーメンの世界に戻っていた。前の店とは違う、鶏白湯ラーメンの店だった。後で考えてみれば、現在経営する「ゆきかげ」の看板商品である「濃厚鶏麺」との出会いである。
友人たちが皆就職した中、フリーターでいた事には理由があった。確固たる目標が決まっていない状態で就職し、もし仕事が順調だった場合に、「起業の志を忘れてそのままサラリーマンとして生涯を終えてしまうのでは無いか?」と思い、初めから「就職はしない」と決めていたのだ。
「経営者の今となって考えれば、一般企業に勤める経験があっても良かったとも思います」
フリーター生活が二年に及ぼうとしていた頃、企業に就職していた二人の友人から声がかかった。
「そろそろ何かやろうよ?起業しよう!」
一人は予備校時代からの友人で独立志望、もう一人は小学校時代からの古い友人で会社に勤める傍らでの起業を考えていた。
「気の合う友人と3人でやるなら」と、話は前に進みだした。
問題は、「何をやるか?何で起業するか?」がまったく決まっていないことだった。ミーティングを重ねても勝算のあるアイデアが思い浮かばない…。
「ラーメン店をやろう!」そう決心するに至ったのは、「やりたいことがない、決まらない、決まってもうまくいかない」10代〜20代を過ごしてきた中で、ラーメン店の勤務で0から100を経験した自信と、何より「ラーメンが好!」きという気持ちが大きかった。
2016年、「濃厚鶏麺ゆきかげ」第1号店を浅草雷門前にオープンする。
なぜ浅草を選んだのか?
「北海道出身なので、学生時代を過ごしたと言ってもやはり東京には詳しくないんですよ」
そこで、「東京と言えば浅草」という、所謂イメージで浅草を選んだ。
思えばそれが、成功のカギだったと言える。まず、オープン当時浅草にはまだ鶏白湯のお店がなく、注目された。また、外国人観光客が多い浅草で、宗教的タブーのない「鶏」のみを使用、全ての原材料から豚・牛成分を排除したラーメンは人気が出ないはずがなく、コロナ前は客の半分以上が外国人だったそうだ。オリンピック前の景気もあり、ただ待っているだけで次から次へとお客さんが入ってくる状態だった。
「その頃の僕はひたすら現場業務をこなし、経営者というより店長みたいなものでした。コロナでの業績不振、休業による時間の余裕が、かえって僕を店長から経営者にしてくれた気がします」と振り返る。
1号店オープン時は、体力的な辛さはもちろんあったが、仕事が楽しくて乗り切れた。
1号店オープンの二年後に、2号店、3号店をオープンと順調に見えた時、最大の苦難が訪れることになる。
共同経営の友人の1人が、暖簾分けにより3店舗のうち1店舗の経営権を手に会社を去って行った。3人での舵取りに歪ができ始めていた頃で、「暖簾分けをした方が互いにうまくいくのでは?」と悩んだ末の苦渋の決断だった。
もう1人の友人は企業勤めの傍ら共同経営を続けていたが、ちょうどこの頃は本業の長期出張で海外にいたため、1人で2店舗を管理しなければならなくなった。
それまでは1店舗を2〜3人で分担して管理していたところを急に1人で2店舗となり、手も頭も足りない状態で本当に大変だったことを覚えている。現場の業務も2店舗間を常に行き来し、2店舗分のシフト管理、経理もやった。経営面で頼り、相談できる人間もなく、精神的にも追い詰められた時期が続いた。あまりの辛さに、続けていく自信と気力が失せて、消えてしまいたい気持ちにもなった。
しかしそこで、当時アルバイトだった20代と50代の年の離れたコンビが力を発揮、社員となり野本氏を支えてくれたのだった。
「この時、僕の中で『会社は人』という言葉を、本当に身を持って知りました。これ以降、お客さんにしても取引先にしても、自分の会社自体も、本当に『全ては人』であると常に意識するようになりました」
苦難を乗り越え、会社にとっての「人」の大切さを知った。
「辛い時期に支えてくれた2人の社員のことを思うと、必ず、僕についてきて良かったと思える会社にしなければいけない。この2人はもちろん、今後増える仲間全員に、この会社にいることを生きがいに感じて欲しいです」と語る野本氏。
会社と従業員を思う気持ちは誰にも負けていないと自負している。この思いから、ラーメン屋に固執することはせず、従業員の意見を取り入れ、新しいことに一緒に挑戦し、従業員と共に成功・失敗しながら会社を作り上げていきたいと思っている。
「何かしたいけど何がしたいか分からない若者、したいことはあるけど踏み出せない若者、そんな若者たちに、好きなだけ挑戦させてあげられる会社にしたい。」それが、野本氏が経営者であるモチベーションとなっている。自分もそうだったからこそ、その言葉に嘘はない。
新しい挑戦の一つとして、浅草店の2階に「シーシャ(水タバコ)」店オープンを計画しているのも、皆と相談してのことだ。
また、サラリーマンを続けながら共同経営も続けている小学校からの友人も、役員となり経営面のサポートを続けてくれていることは大きな支えとなっている。
「ゆきかげ」1号店がオープンして間もなく、中学時代の同級生が札幌から転勤してきた。
10年来の友人が野本氏の東京で開業をFaceBookで知り、転勤してすぐお店に顔を出してくれた。店の雰囲気が居心地よく、人手が足りない時には手伝いまでしてくれるようになっていった。
その友人が2021年、新たに役員の一人として加わり、はからずとも全員が札幌の中学時代を共に過ごした仲間が集まるという不思議な縁が繋がった。緊急事態宣言も明け、新たな経営体制でスタートを切る。
野本氏には座右の銘がある。
「我以外、皆、我が師」
小説「宮本武蔵」(吉川英治著)の中で宮本武蔵が残した言葉で、「人でも物でも皆、自分に何かを教えてくれる先生だ」という意味だ。
これからも周囲から学ぶ心を忘れずに、人を大切にし、謙虚な姿勢で生きていくのだろう。
ヒーローに憧れていた幼少期 | バーテンダー修行時代 | 開店時(駆けつけてくれた友人と) |
創業メンバー | 辛い時支えてくれた 歳の差コンビの写真 |
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兄弟分の21歳社員 |
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