合同会社笑う門には福来る 代表 菅原広行氏 | |
生年月日 | 1976年11月29日 |
プロフィール | 東京都荒川区町屋出身。高校卒業後、印刷会社に就職。印刷オペレーターに就き、24歳で退職。飲食や、トラックドライバーを経て、35歳、グロブリッジの独立支援モデルに合格し、同社のフランチャイズとして独立を果たす。独自のネットワークによる食肉の仕入れが強み。将来はアグリビジネスにも参入を予定している。 |
主な業態 | 「笑う門には福来る」 |
企業HP | https://warafuku.thebase.in/ |
山形から父親が上京したのはいつの頃だろう。「集団就職で上京したのではないか」と菅原氏はいう。仕事は印刷関連。その頃から町屋で暮らしている。まだまだ町屋が下町だった頃。
菅原氏が生まれたのは1976年。「あの頃と比べると高いビルが建ち、駅前もおしゃれになった」と笑う。下町といっても、当時からビルがあったのは、さすが東京だ。
小学校は30人3クラス。中学も同規模。多いとみるか、少ないとみるか微妙なところ。「小・中はリトルリーグやクラブで野球をしていました。ポジションはショート。高校に進学してからは準帰宅部です」。
どうして野球をつづけなかったのだろう。
「硬式の野球部があればよかったんですが、軟式しかなく。いちおうバトミントン部に籍は置いていました」。だから、準帰宅部。バトミントン部に入部したのは、「女の子のお尻を追いかけて」とこちらを笑わす。
「勉強は、ぜんぜん好きじゃなかった。大学進学も最初から頭になかったくらいですから。バイトは高校時代から始めていて、ピザ屋や東京ドームでコーラを売ったりもしていました」。バイト代は月数万円になったが、すぐにパチンコ台に飲み込まれた。
「今思うと、あの頃は、やることがなかったんでしょうね」。やりたいこともなかった。だから、就職も父親の紹介で印刷会社に簡単に決めている。
町工場の印刷オペレーター。これが菅原氏の最初の仕事。「24歳で退職していますから、合計6年間くらいいた計算になります」。印刷機と向き合う菅原氏は、何を考えていたんだろうか?
「印刷の仕事の傍らで、アルバイトもしていました。仕事に慣れた20歳の頃からですね。酒代や、サーフィンやスノボーにもお金がかかりましたから」。
営業をやってみようと思ったのは、単純な作業が苦になってきたから。転職先は、光通信関係の会社。コピー機のセールスが仕事。勇んでチャレンジしたのはいいが、思ったようには売れない。「月に2台くらい」と笑う。結局、こちらは1年で退職している。
「次の就職先がみつかるまでと思って、カラオケ店でアルバイトを再開します。その時、新たにダーツバーをやることになり、立ち上げから参加させてもらったんです」。
飲食の楽しさを知ったのは、この時と菅原氏は言っている。「独立もしたくなりましたね。ただ、ダーツバーにいたのは27歳までです」。
独立も視野に入れ、飲食への思いを膨らませた菅原氏。しかし、次に選んだのはトラックドライバーだった。「28歳で結婚するんです。飲食は給料がよくなかったので、結局、飲食を離れ、トラックドライバーに転身します。そうですね。ハードな仕事でしたが、年収は550万円くらいありましたから、飲食とは比較にならなかったです」。
この仕事を33歳までつづけている。今度は、どんな理由で退職するのだろう。
「じつは、ドライバーをしながらも、なんとなく独立したいと思っていたんです。当時、サーフィンをやっていましたから、いずれ海の近くでお店をやりたいなと。ただ、なかなか人間、踏み出せない(笑)」。
そんな時、リーマンショックで年収が100万円くらい下がってしまったそう。「稼ぎたくても、稼げない時期がつづいた」と菅原氏。
それが、菅原氏の背中を押すことになる。
「もうひとつ、家を買おうと思って、方角などを占い師にみてもらった時に、『人の上に立つ仕事があっている』って言われるんです。それも引金になりました」。
「飲食」×「独立」。キーワードが重なる。むろん、もう33歳。遠回りはしたくない。目標は、海の近くに飲食店を出店すること。ただ、どの道が海までつながっているかわからない。
「いちおう面接は5社受けて、合格したのは2社。お給料のいいほうを選択しました」。すでにお子さんもいたから、生活のためを思えば、給料が基準になってもおかしくない。
「蕎麦と地酒、饂飩と焼酎のお店を都内に6〜7店舗もっている会社です。ダーツバーにいた時に、焼酎にハマって、『焼酎の利き酒師』の資格をもっていたもんですから、給料だけではなく、そういう点でもいいかなと思って」。
現実的かつ、理想的な選択。ただ、独立という目標がある。そちらはどうだったのか?「独立のセミナーにちょこちょこ参加していたんです。ある時、そのセミナーで『自己資金ゼロで独立』という謳い文句と出会うんです(笑)」。
それが、グロブリッジとの出会いだったそうである。
「グロブリッジさんのお店もまだ5店舗くらいの時です。その時は、希望者である私たちがグロブリッジで4ヵ月間研修を受け、5ヵ月目に新店の立ち上げを行い、初月の成績が目標をクリアすれば合格となり、無利息でお金を貸していただけるというスキームでした」。
晴れて、合格されたんですね?
「おかげ様で、研修では昼間、経営を勉強し、夕方からお店で実践を積みます。新店では、アルバイトの採用からぜんぶ行いました。それ自体、いい経験ですし、その時、お会いした代表の大塚さんには、今も感謝しています」。
大塚氏は<「株式会社グロブリッジ 代表取締役社長 大塚 誠氏」第310回>で、「飲食の戦士たち」にもご登場いただいている。とにかく、6ヵ月後には、グロブリッジから資金を借り、巣鴨に一号店をオープン。思ってもいなかった展開となる。
ただし、フランチャイズだからといっても、安パイではない。独立までも大事だが、それ以降がもっとも大事だ。「どうにかこうにか」と菅原氏は笑う。
「何もないところから一つひとつが生まれ、お店ができて、リピーターがつく。ダーツバーの立ち上げで経験したことが、いまの私の原点だと思います」。
店づくりが、面白いということだろう。それは、実践できた。菅原氏が言う通り、お店も、どうにかこうにか軌道に乗った。
菅原氏が上記のスキームで独立を果たしたのは35歳の時。2号店は2〜3年後に出店したとのこと。2022年1月現在は巣鴨、錦糸町、町屋に3店舗運営している。すでに、グロブリッジとのフランチャイズ契約は終了。店名も今は「笑う門には福来る 巣鴨店」だ。
<東京・荒川区の下町、町屋。焼肉の超激戦区として全国に名を轟かすこの地に、「炭火焼肉ホルモン 笑う門には肉来る 町屋店」が、新たに狼煙を上げました。>
こちらは、「Makuake」のプロジェクトの一つとして始まった「雲丹×和牛 うにく」に掲載された紹介記事。記事通り、2021年10月、町屋に炭火焼肉ホルモン店がオープンした。
菅原氏は独自の仕入れルートがあるんだという。芝浦の食肉市場で社長をしている友人が、その独自ネットワーク。巣鴨店で好評のレバテキやもつ鍋も、そのルートから仕入れた食材だそう。これは、強い。ただ、一方で、焼肉業態は設備面など投資もかかり、参入のハードルが高い。
「こちらも友人なんですが、横綱三四郎という焼肉店を経営し、コンサルタントもしている人がいて、彼にアドバイスをもらいながら準備を進めました。資金面では、事業再構築補助金に申請し、1000万円、お借りしました。ただ、合計2000万円ちかくかかりました」。
コロナ禍の下、簡単にできる投資ではない。むしろ、「思い切った」と表現したほうがいいだろう。結果がでるのは、いうまでもなく、アフターコロナの時になってから。
とはいえ、「Makuake」をみるとわかるが、すでに注目度は抜群。ちなみに、この「うにく」では、雲丹専門店とコラボレーションし、雲丹と和牛のマリアージュを追求しているとのこと。二大食材のコラボと言っていいだろう。
将来に話をふると、「農業」の二文字がでてきた。すでに、埼玉県の春日部で無農薬野菜を育てているそうだ。最後に、そのお話もうかがった。
「いまはまだ友人の手伝いなんですが、いずれ自社で農業も行い、『農業』と『飲食』を一つにしたビジネスモデルを立ち上げていきたいと思っています」。
コロナ禍の下だが、ホームページを作成するなど計画は着実に進んでいる。「店舗数をこれだけ、とか、そういう目標はもっていないですが、10年後には年商20億円。それはイメージとしてもっています。これを実現する、これも今からのチャレンジの一つです」。
さて、社名であり、店名でもある、「笑う門には福来る」である。
「笑門来福」をネットで調べてみた。てっきり中国から輸入された四文字熟語と思っていたが、そうではないらしい。じつは、「福笑い」から来ているのだという。もちろん、正真正銘、日本生まれの四文字熟語。意味は「笑いの絶えない家庭には自然と幸福が訪れる」だそう。
「家庭」を「職場」や「人生」に置き換えてもいいかもしれない。旨い料理と旨い酒を食せば、むろん、みんながいい顔になる。まさに、福笑いだ。「笑門来福」。新店はもちろん、すべての店が「福笑い」に包まれている。これも、菅原氏がめざすところに違いない。
この企業にご興味のある方、コンタクトを取りたい方、また代表にメッセージを送りたいといった方は、下記フォームよりご登録下さい。当社が連絡を取り、返信させていただきます。
例)テレビ番組用に取材したい、自社の商品をPRしたい、この企業で働いてみたい、中学時代の同級生だった など