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第875回 焼肉岩崎塾株式会社 代表取締役会長 岩崎幹永氏
update 22/03/01
焼肉岩崎塾株式会社
岩崎幹永氏
焼肉岩崎塾株式会社 代表取締役会長 岩崎幹永氏
生年月日 1945年2月21日
プロフィール 35歳で独立。肉の卸からスタートし、ホームグランドである大阪梅田にホルモン焼き食堂「イワサキ」を開業。有名な精肉会社や、数々の同業らが度々視察に来る繁盛店になる。のちに、岩崎氏のもとにたくさんの起業家が訪れ、サポートを受け、開業する。2022年現在、直営店6店舗、FC店80店店舗。
主な業態 「炭火焼肉 岩崎塾」
企業HP http://yakiniku-iwasakijyuku.com/

岩崎家の食卓。

その昔、鉛筆にかぶせるアルミ製のキャップがあった。尖った鉛筆に蓋をするのが主な役割だが、もう一つの使い道のほうが子どもたちには人気があった。ロケットだ。
「そうそう、ぼくと下の弟はよくつるんでいてね。爆竹から火薬を抜いて、あのキャップに詰めて。火をつけたらシューってロケットのように。ただ、ある時、兄貴に言われて火薬をつめすぎたんか、爆発してもうて」。
今回、ご登場いただくのは焼肉岩崎塾の代表取締役会長、岩崎幹永氏。生まれは1945年。終戦の年に生まれている。
兄弟は5人で岩崎氏は4男。兄弟は全員、名を成しているが、とくに三男は国から勲章までもらっている。その昔、「火薬をもっと詰めろ」といった兄貴である。
「私らのルーツは韓国です。父と母が来日します。当時は日本も、韓国もなかったんですが、岩崎家は在日韓国人となります。父親は繊維もやったし、プラスチックの射出成型の会社も経営していました。当時の松下電器やサンヨーの孫請けの仕事をしていました。お手伝いさんもいましたから、裕福だったと思います」。
焼肉の話もでた。「兄弟は男ばっかりの5人です。そりゃ、取り合い。はよ食べなあかんから、ちゃんと焼いてたべたことがありませんね笑」。
牛肉の争奪戦が目に浮かぶ。当時、牛肉は高根の花。食卓にのぼること自体、裕福さの表れだ。
いいものを食べていたからではないだろうが、兄弟は基本、からだがでかい。いちばんは岩崎氏だった。小学校の頃は大阪でいちばんのスピードランナーだったそう。
勉強は社会と英語が得意。勉強は中のちょい下だそうだが、IQテストは1位。IQ138というから、数パーセントのエリート。ただ、本人に偉ぶる様子はない。
「まぁ、やんちゃでしたわ。でもね、喧嘩はやらんし、拳で勝負ってタイプやない。当時の目標ですか? そういうんはあまりあらへんかった。ただ、兄貴たちもそうですが、憧れの人はいましたね」。
岩崎氏にとって、兄弟は自慢の存在。兄弟たちの話になると、饒舌になられる。子どもの頃の賑やかな食卓が、今もつづいているようだ。

梅田の、どぶ池ストリート。

いまや大都市の梅田界隈であるが、岩崎氏が子どもの頃は、どうだったんだろう。
「そうですね。今の関テレのところにはグランドがあってね。ぼくも、そこで野球をしていました。雨が降った翌日はグランドコンディションがぐちゃぐちゃ。ゴロ打ったらセーフです笑」
「ぼくね、高校は中退しているんです。たばこと喧嘩が原因です。ただ、ぼくはどっちかというたら、喧嘩をやめるようにいいに行ったんです。でも、いちばんでかいし、『あいつだろう、首謀者は』みたいになって」。
高校を中退されてから、どうされたんですか?
「親父の会社で仕事をしました。プラスチックの会社です。ただ、4年くらい経った頃かな、テレビでカレッジフットボールを観て、やりたくなってね。それで、高校に入り直しました。それから、神戸学院に進みます。フットボールはできたんですが25歳のときに辞めました。結婚したんです」。
岩崎氏の足跡は、トレースするだけで忙しい。
「クルマも好きだったですね。大学にはアメフトだけのために行っていたんですが、梅田から神戸の大学まで真っ赤なスポーツカーで通っていました」。
6メートルもあるキャデラックを乗り回す。2ドアのロールスのハンドルもにぎった。「ベンツも三台。キャデラックは4台乗ったけど、あれには誰も近づいてこんかった」と笑う。 そりゃそうだろう。アメ車、全盛期。日本車と比較すれば、排気量だって、大ちがい。
「そのぶん仕事はしました。父親の会社を辞めて、独立したのは35歳の時です。昔は、梅田にも丼池(どぶ池)通りっていうのがあってね。そうやね。丸ビルのちょうど向かい側にあった70メートルくらいのストリート。その通りに親父が土地をもっていて、それを譲ってくれたんです。『なんかやれや』いうて」。

店名は、ホルモン焼き食堂 イワサキ。

「そう言われたかって、やりたいもんはあらへん。ただ、なんかやらんと生活できへんし。その時、銀行さんからアドバイスしてもらうんです。それで、私の人生が決まったようなもんですわ。なんもわからんから、とにかくでっかい冷凍庫を買ってね。肉の卸をはじめます」。
「ただ、当時のことでしょ。お客さんはついたんですが、商品のホルモンがいつ入るかわからへん。相手さんに聞いても『そのうち』ですから、どうしようもない」。
「それで、直接働きにでたんです。朝早くから出かけていって、うちに肉をわけてくれるっていう会社の牛をひっぱってくるんです。ひっぱってくるいうても一頭500キロはありますからね。いくら私でも、はさまれたら大変です。片手にやすりをもってね。そっちやない、こっちやって誘導するんです。それでわけてもらったホルモンを卸すようになり、軌道にのります」。
儲かりましたか?
「儲かったんは、儲かったんですが、タンとか、レバーとか、センマイ以外の、シンゾウやミノがあかん。それだけでも、相当なトン数になりますから、もったいないでしょ。それで平成7年にホルモン焼きの店をスタートします。これがむちゃくちゃヒットして。今まで売れへんかったミノやシンゾウも食べてもらえます。もう言うことありません。ただ、ヒットしすぎて、私が仕入れた分だけでは、おっつかなくなっていくんですが」。
これが、焼肉岩崎塾の始まり。店名はホルモン焼き食堂「イワサキ」。
「ぜんぶセルフです。ビールも冷蔵庫からお客さんが出して」。
広い店内でポンポンとビールの栓が開く音がする。
「1日300本は開いていましたから、アサヒビールの人も腰抜かしたはりました」。
濛々と立ち上る煙。その煙の向こうに岩崎氏はなにをみていたんだろうか。

塾長、岩崎。

焼肉は日本で生まれた食文化だという。韓国には、実はない文化なんだそうだ。「ホルモン焼きは、あの頃、梅田になかったんとちゃうかな。精肉の会社さんや、同業の会社さんの社長さんらがぎょうさん視察にきはりましたわ」。
聞くと、早々たる社名が挙がった。
お客様は列をつくり、視察のために業者も列をつくった。ホルモンがメジャーデビューしたのは、この頃だったのではないだろうか。
2022年現在、岩崎氏は直営店6店舗を経営し、フランチャイズ80店を指導している、岩崎塾、塾長の岩崎氏が育てた経営者は100名をゆうに超えている。その経営者たちが育てた人まで加えれば、岩崎氏の系譜は、もう何百名にもひきつがれていることだろう。
「北海道から沖縄までいきますねん」。
手弁当で訪れ、指導する。
今も、あちらこちらで岩崎氏の系譜が生まれ、つづく。
「あの店は、よう頑張ってはる。逆にあの店は、もうちょっと頑張らなあかんかな」と、はるか離れたエリアの店を挙げ、話だす。
天才型の岩崎氏だが、愛情は深い、深い。
「責任があるからね、まだ、5年はがんばります」と宣言。
この一言が、いかにも岩崎氏らしい。

思い出のアルバム
 

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