株式会社VAプロジェクト 代表取締役社長 森本和伸氏 | |
生年月日 | 1965年1月5日 |
プロフィール | 関西大学卒。リクルート入社。リクルートを4年で退職し、ゲーム会社を起業。100タイトル以上のゲームをリリースしたが、2006年、解散。以降、様々な仕事を行い、50歳になり、豆乳づくりを開始し、現在に至る。 |
主な業態 | 「靖一郎豆乳」 |
企業HP | https://www.sei16102.com/ |
今回、ご登場いただいたVAプロジェクトの代表、森本氏は1965年、大阪府の豊中市に生まれる。大阪万博が開かれる5年前。「親父と母親と兄貴と私の4人家族です。親父はサラリーマンでしたけど、裕福やったんちゃいますか。いうたら、ぼっちゃんです。まぁ、高度成長の時代でしたから、うちだけが裕福やったわけやないんでしょうが」。
「子どもの頃からピアノを習っていました。カルチャー好きな母親でね。私は好きやない。野球はへたでしたけど、からだ動かすのが大好きでした。将来、なりたいもんいうたら、そやね、プロレスラーやったかな。ブルースリーも大好きやった。でも、太っとったから、あの動きは無理やったやろな。生まれてから一度も『やせている』っていうてくれた人はおらん」。
「エスカレーター進学を狙って、中学から私学です。高校から日本拳法をはじめます。かっこいい? ぜんぜん。汗臭いだけ。でも、好きやってんやろね。好きやないとでけへんで。そやないと、だれが好き好んで汗だくなって、くそうなって、ボロボロなるまで練習すんねん。笑」
大会で優勝したこともあるそうだ。格闘技が好きで、相撲もしていたというから、昔から、からだも大きかったに違いない。カルチャー系からスポーツ系に。格闘技に、次々に専念する息子を、カルチャー好きのお母さまはどんな思いでみつめられていたんだろうか?
少なくとも、ぼっちゃんはとっくに卒業している。
「私は関西大学を卒業して、リクルートに就職するんですけど、当時は青田買いちゅうてね、もう、『来て』『来て』みたいな。大学でも日本拳法やってましたし、キャプテンでしたから、企業がほっといてくれません。飯も食べに連れてくれるし、至れり尽くせりです笑」。
「リクルートがなにやっているかようわかってなかったけど、すごく勢いがあったのは事実です。私が入社したのは、世間様をお騒がせしたリクルート事件が起きる2年前です。職種は、もちろん、営業です」。
当時のリクルートは多士済々。いまもそうかもしれないが起業家もたくさん生まれている。「私はいうたら起業家の走りです。4年、リクルートにいて独立します」。
リクルートにもまれ、社会にもまれ、さて、キャプテン森本はどんな事業を興すんだろうか。話を聞いて、まったく畑違いで、驚いた。
「私はゲーム会社をつくるんですが、もともとゲームが好きとかそんなんじゃないんです。リクルートに4年いたでしょ。その時思たんが、『リクルートで偉くなったら、しんどいで』やったんです。課長とかになったら、もうどうなるかわからへん。それやったら、サラリーマンをつづけるより、会社つくったほうがええんちゃうかなって」。
「時代もよかったしね。スーパーファミコンの時代です。任天堂さんに行ったら、いろいろ教えてくれて。当時はゲームやりたい人がおおくてね。それで、プログラミングできる人材を雇ってスタートするんです」。
タイトルを聞いて、笑った。
「この会社は2006年に解散するんやけど、解散するまで、だいたい100タイトルくらいはリリースしました。狙うんはスキマです。心理ゲームとかね。タイトルで言うたら、『祇園芸者物語り』とか、『サラリーマン接待マージャン』とか。これトップとったら、あきませんねん。接待やからね。海月育てるゲームもだしました。うれへんかったけど」。
もう、25年前の話。
「プレステとかでて、2Dから3Dになって、一つ開発するにもごっつうコストがかかるようになって。有名なタイトルやったら、いくらコストかけてええんやろうけど、莫大なコストを投じて『祇園芸者物語り/2』や『サラリーマン接待マージャン/2』はようつくらんかった」。
「若い子はいっぱい入社してくれました。会社で寝泊まりしていましたよ。給料は、いわれへんくらい安かったけど、彼らにしたら、うちに入ったら開発用の、お高いマシンをつかえますからね。なかには、その後すごく有名になっている人もいますよ」。
「あのね。みんなうちで経験を積むでしょ。ほんで、ほかの会社を受ける。で、ある日、『〇〇に行きます』って、だれもが知っている有名な社名をいいよんねんな。ほなら、みんな拍手して。なんで、拍手やねん、て。笑」
そうはいうが、心では森本氏もいっしょに拍手をしていたような気もする。そんな人だ。ところでゲーム会社の社長だった森本氏だが、今は立派なIT難民。「エクセルもようでけへん」らしい。
「解散したのは、ビッグタイトルしか残らんような感じやったし、資金ショートもあったけど、けっきょくは私の熱意がなくなったんやと思うわ。うちみたいな小さなメーカーはもうあかん時代やった。だから、解散しよかっていうて」。
2006年といえばスマホでみんながゲームを楽しみはじめた頃だろうか?「あんなちっちゃい画面な。あんなゲームつくったら、都落ちやと思っとった」と言っている。
「私の窮状を知って、昔の部下が『恩返しや』いうて、仕事紹介してくれて、パチンコメーカーの下請けやったり、お金がないから、マンションの販売代理をしたり。ちゃんと免許も取って。。ほかにもいろんなことしたなぁ」。
「いちばんってわけやないけど、山本化学っていう会社の社長さんといっしょに『たこ焼きラバー』いうやつで水着つくって。これは世界中をびっくりさせました。それまでとはまったく異なる高性能の水着で、世界記録が何十回でたやろか。TVにも取り上げられて。せやけど、水泳連盟が『あかん』っていいだしよって。『ラバーはあかん』っていいよんねんな。で、せっかく、世界を獲った思うたのに縮小ですわ。でも、水着は今も販売してますねん。『イルカのはだにいちばんちかい水着。』って奴です。専門誌に広告掲載しているんやけど、ぜんぜんうれへん笑」。
皇室に献上する、そうめんの専門店もやったそう。コシがあってむちゃむちゃ旨い、とのこと。「そうめん専門店は4年ほどやったかな。そらぁ、従業員が辞めるいうんやから、辞めざるをえぇへんでしょ」。
あっちにいったり、こっちにいったり。しかし、どこかで、森本氏に助けをもとめてくる人がいる。「クラブの後輩とかもいっぱいいますしね。リクルート時代に知り合ったお客さんとも仲良くさせてもらっていましたし。そうそう、ホームページの作成なんかもしてたかな。ただ、だんだんそういうビジネスが、実体のないもんのように映りだすんです。口だけでうまいこというてね。50歳でニートを辞めるんですが、そのきっかけはやっぱり、実体があるビジネスをしたくなったからやと思うんです」。
それが今の豆乳ですか?
「そう。豆ですね。これに今は魅了されてます」。
「今、松屋町の本店と、クリスタ長堀、なんばスカイオに店があって、うちの豆乳は百貨店にも置いてもらっています。オンラインショップもありますが、送料がけっこうかかるから、これはマニアな人向けになっちゃうかな。リピーターは、多いです。健康志向? そう、私も薬や思うて飲んでますからね笑」。
パック入りの豆乳とは、ぜんぜん違うらしい。製法が、まったく異なっている。「これは、TVで観て、これやと思って、すぐメーカーのある福岡に行って、交渉して」。
手に入れたのは、第5回「ものづくり日本大賞、内閣総理大臣賞」を受賞した「無浸漬豆乳プラント エコスター」。水と大豆だけ。しかも、浸水することなく、短時間で豆乳がつくれるマシン。
「浸水せぇへんからええんです。だから、うちの工場は綺麗ですよ。もっとも、しょっちゅう掃除もしているんですが笑。なにが難しいいうて、温度がいちばん難しい。それもあって大量にはつくられへん。今思うてんのは、今の生産設備MAXまでいったら、もうええかな、です。そんな無理もしたないし」。
北新地のアッパーなお店でも利用されているというから、「旨さ」は、プロの料理人も認めている。ところで、大豆といっても、価格帯はキロ500円から3万円まであるらしい。「大豆は100種類くらいあるんです。そりゃ、500円のと3万円やったら、ぜんぜん味はちゃいますわね。いいものを使えば、私なんかでも違いがわかるんですよ」。
「豆のままやったら、まだわかっても豆乳になったら、なおさらわからへん」と言いながら、その表情から高級な豆を使っていることが読み取れる。
自信にあふれた表情だから。
もっともニートの時代も含め、森本氏の生き様は自信に満ちているように映る。ゲームの話もそう、水着の話もそう、むろん、大豆の話もそう。
ちなみに、ホームページはこう書かれている。「余分を省くと、おいしさだけが残りました」。こじつけたいわけではないが、森本氏の生き様もそうかもしれない。
あっちに行って、こっちに行って。いろんなものがそぎ落とされ、今のピュアな人となりがでてきたんではないだろうか。コテコテの関西弁と、ピュアな生き様がアンバランスなようで、そこも面白い。
ひょっとすれば、今は、豆乳だが、「豆乳のつぎ」もあるかもしれない。ただ、今は、豆乳が、いい。それは間違いないこと。
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