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第887回 株式会社マラヴィーダ 代表 金田剛賢氏
update 22/06/07
株式会社マラヴィーダ
金田剛賢氏
株式会社マラヴィーダ(MALAVIDA) 代表 金田剛賢氏
生年月日 1981年3月28日
プロフィール 韓国・釜山出身。両親は幼い頃に離婚し、母親に引き取られ韓国、中国、アジア各地を転々とする。父親は日本の兵庫県で生まれ育った在日韓国人。子供の頃から父が生まれ育った日本へ興味があり、2001年、20歳の時に当時交際していた女性(現在の奥様)と初来日。日本語学校に通いながら、居酒屋を皮切りに飲食業で働く。2016年9月、起業1号店の焼肉店「たまには焼肉」を高田馬場にオープン。現在は同ブランドの焼肉店を5店舗展開している。松坂牛、佐賀牛、宮崎牛、田村牛、オリーブ牛といったブランド牛の豊富なバラエティとお値打ちの価格が人気。
主な業態 「たまには焼肉」
企業HP https://yakiniku-restaurant-698.business.site/

父が愛した「津軽海峡冬景色」が生まれた国で青年が叶えた夢の形。

東京を東西に貫くJR中央線・総武線の高円寺。北口から徒歩2分ほど、小説の舞台にもなった「高円寺純情商店街」の一画に、店頭が真っ赤で統一された店がある。
店名は「たまには焼肉」、七輪で炭火焼きする焼肉店である。
この店は、2001年、20歳にして韓国から父が育った国、日本にやってきた青年が生きていく夢を形にしたものだ。父がよく口ずさんでいた「津軽海峡冬景色」のメロディーが大好きで、「こんな素敵な曲が生まれる日本ってどんな国?」と幼き頃から興味を持っていたという。
今回ご紹介するのは、20歳で来日し夢を叶えた金田剛賢氏。その生い立ち、来日してからの歩みを辿ってみる。

アジア各地を転々とする生活で奥様と出会う。

「生まれは韓国・釜山です」と語る金田氏は1981年生れの41歳と若い。
10歳の頃までは韓国で育つが、親の仕事の都合で中国、マレーシア、シンガポール、タイなど東南アジアの各地を転々とする。当然、言葉の壁があり、なかなか友人を作るのも難しい生活。なんとか友人を作りたいと必死になって中国語を覚えたという。そんな中、中国吉林省で現在の奥様と出会う。「中国語を覚えていてよかった」と心底思ったそう。

妻の一言で日本へ、二人で海を越えた。

アジア各地での生活を経験した金田氏。20歳になり身の振り方を考えた時、日本へ行く選択肢しかなかったという。「日本が経済で盛況だという情報も得ていましたし、日本文化にも興味がありました。『津軽海峡冬景色』の国ですから」。
しかし日本への憧れは募るものの、なかなか踏ん切りがつかない。そんな金田氏の背中を押してくれたのが現在の奥様のこんな一言だったという。「私がいるじゃない」。
一人だと不安でも、二人ならなんとかなるかもしれない!20歳の旅立ちだった。

狭く窮屈だったけれど、日本での生活が始まった。

2001年初来日。金田氏は住む当てがなく友人カップルを頼った。相談すると、一緒に住んでもいいという。そして、向かった先は東京、港区元麻布の1Kのマンション。
友人カップルと金田氏と彼女。4人の共同生活が始まった。しかし、大きな問題があった。
「家賃が18万円だったんですよ!驚きました」。
友人カップルも家賃で困っていたのかもしれない。それぞれで分担して家賃を払うことに。1Kに4人。その窮屈さは今ではいい思い出だそう。

高額家賃を払うため飲食業へ。

来日して3日、友人の紹介で、大手居酒屋チェーン店で働き始める。
そこで実に多彩なメニューが揃っていたことに感心。なかでも「焼き鳥」に驚いたという。
「串に鳥肉を刺して焼く食べ方は初めて見ました」。これまでの食文化では出会わなかった食べ方だったそう。焼き鳥に感動しつつも、生活をするため、ただ、ひたすら働く日々。
「時給は920円で月収にして40万円以上でした」。しかし、当時の労働時間はなんと1日18時間を超えていたそう。
そんな生活を続け、28歳の時、洋食系カジュアルレストランを展開する会社に入る。
そこで、当時、立ち上がったばかりのホルモン焼肉部門の配属となる。

人生を運命づけた人物に出会う。

新しい職場で金田氏にとって“人生の師匠”と呼ぶ人物に出会った。
「その方は23歳ほど年長でしたから、当時、50歳くらいだったと思います。地方都市で飲食業を経験し、東京に出てきたばかりだという経歴の持ち主でした」。
この人物は、いったいどこが凄かったのか?金田氏は、どこに魅了されたのか?
「料理人とし高い技術を持っているばかりではなく、マネジメントに長けていました。たとえば“この店は半年後、こうなる”“一年後、こうなる”ということを語りかけてくれたんですが、実際にその通りにするんです」。
要するに、自分で店の目標を設定し、その目標を達成するためにストイックに実践し成果を上げていく。ただ、がむしゃらに働いて稼ぐ日々を送っていた金田氏にとって、目標設定をして次々と達成していく働き方は刺激的だったという。
さらに師匠は、飲食業のトレンドの読み方にも優れていたという。
「“これからは焼肉とワインの時代になる”と語られた時は、びっくりしました。ホルモンと言えばビールや焼酎ですから。しかし、ホルモン焼肉の店ながら、ワインをメニューにすると、徐々にですが売れて行くんです。そして、今では当たり前の焼肉とワインが親しまれるトレンドがやって来るんですから」。
『目標設定とその遂行』『トレンドを読み実践する』ことの重要性を語ってくれた人物との出会いは、金田氏の人生を大きく変えるほどの存在となった。
この会社には4年間勤め、次なる目標に向かって退社。32歳になっていた。

『目標設定とその遂行』の実践。売り上げを3倍に!

「“店長募集”ということで応募し店長として採用されました」。
任されたのは東京・新橋のか12坪ほどのホルモン焼肉店。
ここで『目標設定とその遂行』を実践する。オーナーの前で売り上げを3倍にすると宣言した。当時月商100万円ほど、これを300万円にすると目標を設定した。まずは店に何が足りないのか、お客の声に耳を傾けた。すると、こんな声が…「ホルモン以外も食べたいな」「カルビとかロースないの?」。金田氏はすぐにオーナーに相談、当時、メニューになかった赤身系の肉の提供を認められた。さらに、イチボやトモサンカクなど希少部位も出し、部位の説明や焼き方を丁寧に伝えたそう。
これが新橋の客層にウケた。「へぇー」と肉のマメ知識に関心してくれ、新たなお客まで連れて来てくれるようになったという。「お肉の美味しい焼き加減の見極めは難しいですから、知れば誰かに話したくなりますよね」と金田氏。 売り上げは徐々に上がって行くが、まだ足りない。そこで、目標達成のために次の一手をオーナーに提案する。それは「土日営業」。
「オーナーが四国・愛媛にいましたから、『新橋=サラリーマンの街』という固定概念があったんです。土日に会社勤めの人はいないから、休めと。お台場での観光帰りや銀座での買い物のついでに食事に来る人がいるとは思っていないわけです。」そこで、現状をオーナーに伝え説得、土日営業の許可をもらいます。狙い通り売り上げはアップ。そして、半年後、見事に目標を達成した。この成功体験が独立起業への思いを強めていったという。

国籍の壁。新橋での出店が叶わず新天地へ。

「35歳までには独立しようと考えていました」。
開業資金として自己資金500万円、日本政策金融公庫から750万円を借り入れた。
顔なじみも増えた新橋で出店したいと考え店舗を探し始めるが、次々と断られる。国籍の壁が立ちふさがったという。そして、新橋での出店を諦め、不動産屋を巡り頭をさげる日々、半年かけ、ようやく借りられたのが高田馬場駅前の4坪の場所だった。
2016年9月、高田馬場駅前で第1号店をオープンした。
「新橋で出店できなかったことは悔しかったですね。でも今では4坪あれば何でもできると、心の支えになっています」。
肉の質にこだわり、薄利多売。接客では、新橋で成功した肉の豆知識を軽妙なトークに混ぜる。すると「美味しい!お得感がある!」と瞬く間に口コミで広がり、社会人だけでなく学生の心も掴み、たちまち人気店に。
高田馬場1号店の開業から1年後、2017年8月には、2号店として冒頭で紹介した高円寺店を開店。以後、順次、店舗を拡大し現在5店舗にまで拡大した。

ピンチをチャンスに。コロナ禍で新業態に挑戦!

「会員制で勝負する!」。
コロナ禍で前職のオーナーから「新橋の物件を手放したい」と相談を受ける。
金田氏はすぐさま「自分にやらせてください」と申し出た。念願の新橋での出店である。周りでは閉店する店が増える中、金田氏にはある狙いがあった。それが「会員制の焼肉店」だ。
完全予約制で1日2組限定。2部制にして、それぞれ1組ずつの貸し切り営業。4名から12名まで。料理はコースで飲み放題。それで一人当たり6000円。
これが大当たりした。
その理由は、まず知らない人(他の客)がいない空間は、コロナ禍での安心感に繋がる。
さらに飲み放題のドリンクはセルフサービス。非接触で衛生的。これにも安心感。
そして、予約制にすることで、肉の仕入れロスを防ぐことができる。これにより仕入値をギリギリまで上げることができるという。つまり、お客からすれば質のいい肉をお値打ちに食べられるのである。しかも他の客がいないので、少々騒いでも大丈夫!
金田氏は過去に学んだ『トレンドを読み実践する』ことに成功したのである。

初期投資を抑えたFCパッケージの展開が今後の目標。

金田氏が見据えるのは「たまには焼肉」のFC展開。加盟店にとって初期投資が抑えられる仕組みをつくろうとしている。「私がこれまで出店する時に、いつも初期投資に悩まされてきたので、この部分を解消しFCオーナーと共に『たまには焼肉』で繁盛していきたい」と語る。この仕組みづくりについては、専門家をパートナーとして迎えて取り組んでいきたいという。

店名の由来と…

ところで“たまには焼肉”というユニークな店名だが、これには“なるほど!”と頷ける理由がある。
「開業時に閃いたんです。つまり焼肉って日常的な外食ではなく“たまに”に食べるもの、楽しむものなんですよ。だから“たまに”を十分に楽しんで貰おうという意味が込められているんです。それに『たまには焼肉行こうよ』って日常会話ですから覚えてもらいやすいでしょ」と笑う。
20年前、父親が生まれ育った日本への憧れを抱き、韓国から海を渡った金田氏。具体的な計画も曖昧だったが、「飲食業で生きる」と決めてから有言実行を繰り返し、今日を築いた。
師匠ともいうべき人の“目標設定と遂行”“トレンドを見極める”を糧に「まだまだ、やりたいこと、やるべきこと」は尽きないと金田氏は語る。そして、こう締めくくった。
「『退路を断つ』ことで新しい世界へ挑むことが自分の生き方だ」と。

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新橋で統括マネージャー時代 独立当時  
 
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