株式会社ヤマト 取締役社長 清水一成氏 | |
生年月日 | 1969年1月8日 |
プロフィール | 栃木県宇都宮生まれ。専門学校中退。スーパーの店員、自動車メーカーの期間工を経て、サントリーとUCCが出資するプロントに入社。営業部長、プロントコリア副社長、プロントサービス専務を経験し、イートアンドに転職。会社分割ホールディングス化に伴い アールベイカー代表取締役社長を経て、現在は、鮮魚卸、仲卸から回転寿司/寿司・海鮮居酒屋などを運営する株式会社ヤマトの社長を務めている。 |
主な業態 | 「回転寿司やまと」「山傳丸」「房総の駅 とみうら」「ヤマト水産」「ヤマト寿司」 |
企業HP | https://yamato-f.jp/ |
小学校の入学時、担任の先生から「清水の弟か、勉強はできるよな」と言われたそうだ。
「担任のこの一言でヘソを曲げたというか比較されることから逃げたのだと思います。姉が2人いますが、どちらも優秀でしたので。担任の悪気ない一言で『勉強はやらない』と思ってしまいました。だから、小学校の通知表は体育と図工以外2がほとんど」。
通知表をみた父親から殴られたこともある。また意固地になって、勉強はしない。
「でも中学でちょっと勉強したら、普通にクラスで上位になって」。やればできる。清水氏には怒られそうだが、それは姉2人が証明している。
得意だったというスポーツではどうだっただろう?「中学では体育はいつも通知表5でした」。
「小学校の時は、柔道。中学の時は楽そうだと思い卓球です(でも きつかった)。高校からサッカーを始めるんですが、3ヵ月でリタイアしました」。
エネルギー満タンの高校生だ。部活をやめて、何をしていたのかも聞いてみた。
「女子高と合コンに精を出すのが一番で。学校に内緒でスクーターで通学したり(笑)。そんな感じでフラフラしていましたので担任の先生に応援団長をやれと言われて、野球が強い高校でしたから選抜甲子園の決勝まで応援に行きました」。
甲子園では 生徒と地元からの一般市民合わせて何千人ですから大変でした。 マナーが悪くても一般応援の方への気遣いが出来ていなくても全て団長の責任だと怒られ、本当に人をまとめる大変さを経験しました」。
「ですが、基本いい加減でしたので大学受験に落ち予備校にも行かせてもらったんですが、基本の性根が変わっていないないものですから翌年も失敗。専門学校に進みましたが、1年の夏で辞めています」。
どうして辞めたんですか?
「専門学校に進んで東京で独り暮らしをはじめて、バイトとサーフィンにはまってしまって。進学できないことがわかって、人生完全に脱線したと思いました。ですが ここで人生のレールから外れたことを自覚をし 普通に生きていては大学卒には勝てないと 学生では出来ないことを経験しようと決心しました。その時、バイト先の会社の常務に声をかけてもらって、じつはそこに一度、就職するんです」。
19歳から2年弱。上司、社長も評価する優秀な社員だったそう。「評価もいただいていましたし、仕事も楽しかった。提案にも耳を傾けてくださいました。ただ、」
ただ?
「私よりあとから入社した年配の人が、月に200万円くらいお金をくすねていたんです。立派な不正です。それに気づいて会社に報告しましたが、結局、辞めさせることをしなかったんですね。皆で汗水流して稼いだお金を取ってお咎めなしなんて許せなかったですね、もうこの会社にはいられないと思いました。まだまだ私も青かったんでしょうね(笑)」。
今だったら、会社まで追及しているところと言いたげ。ただ、なんとなくスタートした社会人人生が一転したのは間違いない。
「3ヵ月のインターバルを経て、トヨタ自動車の期間工をはじめます。名古屋駅を降りたら迎えのバスが何十台と、私とおなじようなボストンバックをもった奴がいっぱいいてびっくりしました」。
寮付き、月給も悪くない。「全部で数万人くらいの独身寮だったと思います。むさくるしいオトコの世界です。私は体力測定の結果、組み立て科に配属されます」。
仕事は単純だが、それでも難易度は高かったそう。ある程度、マスターするまで3ヵ月はかかったと言っている。
「ある意味、人種の坩堝です。給料は悪くなかったですね。半年で150万円は貯金できたんじゃないですか。私は、蓄財せず、散財していましたが(笑)」。
二匹目のドジョウを追い求めていたらしい。
「っていうのは、当時はオグリキャップ全盛期、競馬が大人気。しかも、ちかくに中京競馬があってね。ある日、いつもいっしょに行っていた仲間が、万馬券当てて2000万円勝って」。
2000万?!
「そう、2000万円です。そいつは、その日のうちに寮からいなくなって(笑)。その話が広がって、オレも、オレもと。でも私を含め、二匹目を手にした話を聞いたことはありません。とにかく、そんな期間工時代の勉強になったことは トヨタのカンバン方式 カイゼンを身をもって経験できたことです。今でも自分の考えの基本の一つです。ですが期間工が終わり東京に戻りパチプロを目指しました。今思うと本当にダメダメですね」。
博打つづきですね?
「やるからには真剣にプロ目指しました。自分ルールを決めて、資金は毎日5万円です。夕方までに負けたら、終わりで早退ですね、それ以上は残業です。情報収集のために、店員を飲みに連れて行ったり、常連さんとも情報交換したりして。ただ、月に30〜40万円くらいしか勝てないんです。それくらいの儲けでは一生の仕事には出来ない。だから辞めました」。
プロにはなれなかったが、いい教訓を得たという。
「単純な話です。あそびを仕事にしたら本当に辛いなって、ことです。生活が掛かると全然楽しくない。ただこの経験で、どんな仕事でも辛抱強くやり抜く考えが芽生えましたね」。
それとあと二つうんちく話があった。その話で、プロントまでの清水氏の人生はひとまず終わる。
「パチプロをめざしている時には、パチンコ店の前で開店を待っています。スーツを着た人たちが目の前を行き交うわけです。夏でも当時はスーツです。正直、心のどこかでバカじゃないかと思っていました。ですが、今も私も道行く人になって、今度は開店前の彼らをみるわけです。立ち位置が違うと、みえる景色が全然違って見えると。これも、私にとっては大事な教訓の一つになりました。今でも相手側の視点から物事を見て考えるようにしています。最期にパチプロ時代に女の子と遊んだりするときに仕事何?学生?と聞かれると本当に返答に困りましたね。そして所属や肩書で人は第一印象を判断すると心から思いました。この経験も今も生きていて絶対に人をそのように判断しないと心に誓っています」。
楽しく可笑しくプータロー生活を送っていた清水氏を動かしたのは、1991年静止画の画像から急に湾岸戦争が始まったテレビを見ていた時。
「TVを観て、さすがにやばいなと思って。就職情報誌を買いに走りました。夜中の3時に」。
まだまだバブルの頃。就職情報誌には溢れんばかりの求人広告が掲載されていた。「でも安心しました。これだけまだオレを必要とする会社があるんだと(笑)本当に単純でしたね」。
数ある会社のなかで選んだのが、サントリーとUCCが立ち上げた「プロント」。
「面接を通過して、『一週間後に電話をください』と言われていたんですが、じつは、給料も16万円そこそこ、すっかり危機感もなくなって、電話も忘れていたんです。そうしましたら、先方より電話を頂きまして」。
人事から?
「そうなんです。約束を守らなかった罪悪感と、誠意をすごく感じまして、一瞬考えて『宜しくお願いします』って言ってしまいました。入る以上今から全力を出そうと思い、入社までの1ヵ月間『是非、飲食の経験がないのでバイトさせてください』って。
プロントでは3人の社長に従事する。
「最初の社長には、人として男としての生き方を叩き込まれました。本も、毎月3冊読んで感想文です。又当時スーツのシャツが白がスタンダードの頃 カラーシャツでネクタイも派手にしろお洒落になれと教育されました。ダメダメの私の性根を本当に鍛えてくれました。二人目の社長は、前職がサントリーが買収したペプシの社長です。プロントも創業して10年が経っていて、経年劣化していた頃です」。
面白い話がある。
二人目の社長に「なぜスーツを着るのか」と聞かれたそうだ。
その時は全直営店統括責任者で店長の部下も大勢いたものですから「店長が店で何かご指摘を受けた時にもスーツのほうがいいですし、店長と年の近いバイトさんから一目置かれる方が良いと話しました」。
返ってきた言葉が、スーツを切れば誰でも仕事が出来るのかと言われて。そうですね、朝の3時くらいまで延々と議論をしました」。
で、どうなったんですか?
結局論破されまして「翌日、私はチノパン、ノーネクタイ ジャケットで出勤しました(笑)全員スーツの時代に本当に注目を浴びました」。
二人目の社長から、清水氏は「プロントルネッサンスプロジェクト」の責任者に抜擢されている。ロゴをはじめすべてをリブランディングする、その指揮を執った。たいへんだが、面白くないはずがない。かつての教訓を思いだして、これだ、と思ったに違いない。
いったん業績が落ち込んだプロントだが、ふたたび従来のちからを取り戻す。文化までリブランディングする。だから、プロジェクト名は「ルネッサンス」だったのだろうか。
ふたたび、プロントが快走する頃になって、清水氏は退職を検討した。もともと好奇心旺盛で新しい取組が好きな為だ。
「元々、最初の社長の時に6年目に卒業させてくださいって言っていたんです。義務教育は終わってないと言われ9年目に申し出ると高校はぐらい(あと3年)は卒業しろと。そうこうしているうちに社長が変わりやめるタイミングを失って。私としてはもっといろんな世界をみてみたかったんです。具体的には2つ。人材ビジネスと、海外でのビジネスです。そして3人目の社長の時に『いいよ、やれよ』って」。
3人のタイプの違う個性的な社長に仕え勉強になったことは、自分を成長?いやまともな人生に戻して頂いたと今でも感謝しています。
サントリーには有名な言葉「やってみなはれ」がある。若干、違うが、「いいよ、やれよ」にも、おなじ理念が宿っているように思う。たしかにやってみないとわからない。服装の件にしてもそうだった。
「あれは意外と深い話で、毎日、おなじスーツでいたら、右脳が鍛えられないっていうのです。これからは右脳が大事だと。服装一つでも『やってみなはれ』で、やってみると、たしかにかわる。でも、今度は、海外と新たなビジネスです。やってみて、どうなるかない。わからない。私が始めてみたいと強く思いましが。さすがにやってみろと言われると責任の重さを大きく感じる。でも、そう言われて、やらないとも言えない」。
清水氏は、動き出す。
その結果、思いの一つ、「海外」はプロントコリアとなり、もう一つの「人材ビジネス」は、プロントサービスとなった。
「プロントコリアは投資額1億2000万円を回収できずに撤収となりました。その報告にいった時に、責任を取って辞めようという気持ちと今度こそ辞められるという気持ちでしたがそうしたら人材ビジネスに2000万円投資して頂けるというんです。一からの立上げ10年期限を決めてやろうと思いました」。
プロントコリアでは副社長、プロントサービスでは専務。派遣などの人材ビジネスを行うプロントサービスは今も健在。
もっとも清水氏は2018年に、改めて外食にという思いでイートアンドに転職。そこでもベーカリー部門の分社化を目指し株式会社アールベイカー代表取締役に就任。
「イートアンドでは、さらに深堀してデザインや企画を大阪の発想で鍛えて頂きました」。
現在は、千葉県に地域カンパニーカンパニーである株式会社ヤマトの社長として、敏腕をふるっている。
いわゆるプロ経営者だ。清水氏の下でどんな会社が育っていくか、それが今からの楽しみの一つ。
この企業にご興味のある方、コンタクトを取りたい方、また代表にメッセージを送りたいといった方は、下記フォームよりご登録下さい。当社が連絡を取り、返信させていただきます。
例)テレビ番組用に取材したい、自社の商品をPRしたい、この企業で働いてみたい、中学時代の同級生だった など