株式会社Global Ocean 代表取締役社長 佐藤洋一氏 | |
生年月日 | 1986年3月18日 |
プロフィール | 子どもの頃から格闘技をはじめ、大会でも度々、優勝。小学校からジャッキーチェンをめざし、18歳の時に俳優業に挑戦するが1年で断念。その一方で、専門学校にも通いつつ中華料理店をオープンして起業する。 |
主な業態 | 「福包酒場」 |
企業HP | https://fupao.jp/ |
「おとこは、中華に魅了されますよね」と、佐藤氏。炎がたちあがる、あの瞬間がたまらないという。だから、中華の道に進んだ。
「もともとお父さんが料理好きだったものですから、それにも影響されて、料理の世界がいいと思ったんだと思います」。
極貧だった、と佐藤氏は笑う。これは子ども時代の話。
「団地暮らしです。生活もギリギリだったんじゃないでしょうか。ディズニーランドに行ったのは、一度切り」。
極貧というが、無料教室の習い事は色々した。とくに格闘系の習い事がおおかった。極真空手、合気道、少林寺拳法、キックボクシングなど小さい大会ではきまって優勝した。
運動神経がいいのは、父譲り。
少林寺は3段。中学で初段になり、高校まで6年間やっている。そのあと、ニコラス・ペタスにつき、キックボクシングをやっている。
めざしたのは、ジャッキーチェン。じつは、俳優にもなっている。
破天荒な人生だ。
大学にも進んでいる。18歳から俳優になり、料理の専門学校にも進んだ。
俳優で言えば、事務所には所属していなかったが、舞台に出たり、さとうきび畑の唄にもエキストラで登場している。
「20代は失敗もできるじゃないですか。だから、色々、チャレンジしたかった。大学生も、俳優も、料理の専門学校も、チャレンジするために進んだ道です」。
ただし、予定していた道だったかどうかは定かではない。「大学進学で、むちゃくちゃ落ち込んだ話があるんです。もともと高校の最初の頃は成績が悪かったんですが、やればできると母親からハッパをかけられたことで成績がのび、指定校推薦までいただけるようになります」。
いい話だ。お母さまは、佐藤氏の教師でもあるらしい。
「ただ、絶対、受かるはずだったのに落ちちゃった。ありえないんです。うちの高校、50年の歴史のなかで初めてだそうです。ちょうど、彼女にもふられて、もう、むちゃくちゃ落ち込みました」。
母の一言で立ち直りはしたが、50年に1人とはたしかにきつい。
「でしょ。理由はわかんないんです。それで気持ちを切り替え、進学したのがわりとゆるい大学で、俳優もできたわけですが、けっきょく俳優は1年くらいでやめています。ジャッキーチェンはあきらめました笑」。
指定校推薦はアウトだったが、ある意味、幸いだったのかもしれない。満足できない。だから、チャレンジはつづく。
独立したのは、何歳ですか?
「19歳の後半から物件を探しはじめて、20歳の時に独立しました。創業店は鴨居にオープンしました。初期投資は600万円。私と親で半分、半分です」。
25坪で、家賃は20万円。周囲からは反対された。ただ、ご両親だけが応援してくれたそうだ。
大学生だったんですよね?
「ええ、大学にも通っていました。料理ですか? 料理は、料理人を中国でスカウトしました」。
中国人をスカウトですか?
「19歳から物件を探していたんですが、じつは料理人も探していて、夏休みにハルピンに渡ります。旅費の関係で、東北のハルピンにしかいけなかった笑。向こうで、そうですね、20軒くらい食べ歩き、料理人をみては『ジャパン カモン』って。もちろん、中国語も、英語もできません。にもかかわらず、奇跡ですが、声をかけたうちの1人が連絡先をくれたんです。当時32歳くらいの人です。帰国してから、オープンも決まりましたので、その人に連絡を取り、日本に来ていただきました」。
「たまたまなんですが、その人のお父さんが料理学校の講師で、日本に来てくれた料理人は中国にもどっていますが、お父さんのネットワークもあって、今も料理人を紹介してもらったりしています」。
偶然といって片づけていいのか、わからない。たしかに、奇跡みたいな話だ。
「19歳の若造を信用してくれて。来日してからも、けっしていい待遇を用意できたわけではありませんが、がんばってくれました。今でも感謝しています」。
店も確保でき、料理人も採用できた。しかも、料理人は本場の中国人。だが、オープンして3ヵ月は、毎日、客数ゼロを更新したらしい。
「みんなに聞かれますが、ほんとうにゼロだったんです。鴨居は、おじいちゃん、おばあちゃんばかりというか、新店には抵抗があったんでしょうね。ただ、なぜか、そんなに心配はしていなかったです。たぶん、若いうちの失敗は取り返せる、と思っていたからでしょうね」。
とはいえ、さすがにゼロ行進は辛い。そのあとはどうなっていったんだろうか? ちなみに現在は、鴨居でナンバー1のセールスを記録する店になっている。
「店のなかにいても中国人と2人でしょ。言葉も通じない笑。だから私は、店の前に立って、地域のおじいちゃん、おばあちゃんに声をかけて。お名前はもちろんですが、ご家族の構成まで、ぜんぶ、メモして。お孫さん誕生日ですね、なんて言葉を交わしているうちに、ボチボチですがお客さんがいらして。半年経った頃には、ありがたいことに、もう連日満席です」。
人生がかかっている。
「私はジャッキーチェンにもなりたかったですが、じつは社長にもなりたかった。ようやくその一歩ですね。お店が繁盛すると、反対していた人もみんな『すごい、すごい』と言ってくれて。あまり褒められたことがないので、その意味でもお店をオープンしてよかったなと思います」。
今も、お客様のお目当ては、餃子。
「餃子は、最初の料理人が残していったうちの財産です。タレからして、ぜんぜん違います。じつは、このレシピは今も私しか知らないんです。秘伝のレシピです」。
最初は、1店舗だけでいいと思っていたらしい。
「ただ、成功して褒めてもらったでしょ。今までそんな風に褒められたことがなかったので、もっと褒められたくなって」。
それで新店ですか?
「そうです。22歳の時。スケルトンからだったので、本を読み漁ったりして。けっきょく6000万円ちかくかかりました。43坪100席、家賃は140万円です」。
とほうもないステージに入っていく。
「現在、グループ全体で200店舗です。独立してオーナーになったのは100人くらいはいます」。
2006年の創業だから、わずか16年。
しかし、じつはこれだけではない。コンサルティング事業、リラクゼーション事業、カンボジアでも事業を行っている。
「カンボジアでは、不動産事業を進めています。コロナ禍の前には、かなりの頻度で出かけていました」。
なんでもやりたい、と佐藤氏はいう。もちろん、なんでもやりたいという人はたくさんいるが、できる人は多くない。できたとしても1つか、2つ。
「子どもの頃から、マルチタスクというか、あれも、これもと欲張りなんでしょうね。今も、いろんなことにチャレンジしたいと思っています。新ブランドの『福包酒場』は、19坪で1900万円をたたき出しています。このブランドでFC事業もスタートしようかな、と。グループ内のメンバーや従業員からも、上場という声が上がっていますので、それも視野に入れています」。
どこまで、翼を広げるつもりだろうか?
「将来的には1000店舗を目標にしています。海外にも展開していきたいですね」。
中華鍋の炎がかっこいいと佐藤氏はインタビューの初めでそういったが、その炎は佐藤氏のなかにあるのではないか、そんな気がした。
今の礎となった、中国人の料理人の心を動かした「ジャパン カモン」は、炎のような一言だったのかもしれない。
ちなみに、23歳の時、佐藤氏はご両親に初めてプレゼントをしている。そのスケールがでかい。3LDKのマンションだということだ。
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