株式会社アヤカンパニー 代表取締役社長 小口欽也氏 | |
生年月日 | 1979年12月28日 |
プロフィール | 中学生の時から全寮制の学校に進学。高校2年生の時にアイルランドに留学。一時、帰国するが、今度はアメリカアリゾナに留学。西海岸の大学に進んだあと、帰国し、日本でも大学に通っている。父親と母親が経営していたプロダクションに入社したあと、独立もしたが、もう一つの事業である飲食に舵を切り、母親のあとを受けて、2020年社長に就任する。 |
主な業態 | 「鴨匠」「SHUN分家」「坂の上レストラン」「かみくら」「神楽坂茶寮」他 |
企業HP | https://aya-company.co.jp/ |
「父の影響が良くも悪くもいちばん大きい」と、小口氏。父親の話をうかがうと、小口氏が、そう表現するのもわからなくもない。
「父は大学を卒業し、バーニングプロダクションに入ります。どうやら学生時代からアルバイトをしていたようです」。
当時のサラリーは有名な企業でも6,7万円が相場だったが、芸能マネージャーは約3倍の給与だったそう。「芸能界に入ったのは給料がいいからと言っていました(笑)」。
サラリーもすごいが、違う意味ですごい話がでてくる。
有名な歌手、タレントの話。名前を挙げれば誰もが知っている芸能人たちだ。
「父は、私が3歳の時に自身でフロムファーストプロダクションを立ち上げ独立します、父は、豪快ですが、そのぶん口も悪いからタレントとも衝突していました。ただ、そういう時は、タレントを母親がなだめていました」。
夫婦で、二人三脚?
「そうですね。父が亡くなったあともプロダクションを続けられたのは、昔から母がタレントと接していたからでしょうね。タレントのなかには私に憧れていた人もいましたが、私にとって父は、怖い存在でした」。
ある時、小学校の校庭に連れていかれ、いきなり硬球を投げられたという。初のキャッチボール。捕れるわけがない。ボールをそらし、たたずむ小口氏に『二度とやるか』といって去っていったそう、それ以来、キャッチボールもしてくれないらしい。
一度のキャッチボールが父と子の関係を物語っている。
「父は、私をプロ野球選手にしたかったようです。でも、才能がないと思って腹立たしかったんでしょう。あの頃は、我が家では父が絶対でした。父に対しては、会話も敬語です。私は中学から全寮制の学校に進みますが、父のもとから離れたかった。それが、いちばんの理由です」。
今回、ご登場いただいたアヤカンパニーの社長、小口氏は1979年12月生まれ。父親が独立したのは、小口氏が3歳の時、母親が飲食事業を開始したのは8歳の頃。
「日本はバブルに向かっていく頃ですね。プロダクションは好調だったようです」。
小口氏は、どんな状況だったんだろう。
「私も、ある意味、ひっぱりだこでしたね、父の職業を知られて、学年やクラス問わず、学校の先生までがだれだれのサインをくれとかと言われて(笑)」。
小学校も知名度が高い小学校。中学も知名度がある「暁星国際学園」。こちらが全寮制だった。
「中学時代は陸上部で、持久走が得意でしたね。高校は、蒲田の日体荏原高校へ進学します。ただ、高校2年生の時にアイルランドに留学します」。
なぜ、アイルランド?
「めったに日本人がいかないからです(笑)」。
留学は楽しかったという。日本人だからと、差別もされなかったらしい。
「最初は、英語もぜんぜんできませんでしたが、しゃべれないなかでもコミュニケーションには積極的でした。おかげで、彼女もできましたが、悪い友だちもできて、それで、じつは国外追放になっています」。
国外追放?
「そうです。あの時は、やばかったですね。帰国しないといけないわけですが、帰国したら父が待っていますからね。正直、どうしたらいいもんかと・・・」。
小さくなる小口氏に向かって、父親は一言、『しゃぁねぇ奴だな』とだけ言って笑ったらしい。「しかも、それで終わりじゃないんです。『ヨーロッパは合ってねぇと思ってたんだよなぁ。明日からアメリカに行け』って」。
帰国したばかりで、今度は、日本追放。拒否はできない。そういう親子関係。
「今度は、アメリカのアリゾナです。こちらも日本人がいないからです。1年半ほど在学しました。」。
アリゾナでは勤勉な好青年だった。「海外で父みたいな仕事がしたいなと思ったのはあの頃です」。父親の背中をはじめて意識したということだろうか。
ただ、高校を卒業し、大学進学にしてからは、またもや机から離れる。「サーフィンしたくなって西海岸の大学に進みます。あの時、仕送りが30万円なのに、29万円くらいのところに住んでいました。バカでしょ。でもね、ロケーションが最高。ドアの向こうに、西海岸の海がバーンと広がっていて。朝起きたらすぐにボードといっしょに海にダイブです。ただ、その結果、アリゾナでは勤勉だったのに、大学にもいかなくなっちゃって。そういうこともあって帰国し、もう一度大学に進んでいます。22歳の時。イチから勉強です(笑)」。
破天荒といえば、破天荒。
有名なタレントがいるなかで育ったからだろうか。それとも、もともと父親譲りで、スケールがちがったんだろうか?
話はとぶが、小口氏は2020年にアヤカンパニーの社長に就任している。こちらは、すでに書いたが、小口氏が8歳の時に母親が創業した、小口家のもう一つの事業である。
「父が他界したあとも、芸能事務所はつづけ、私も入社して仕事をしていましたが、ある時を境に飲食に舵を切ります」。
アヤカンパニーのホームページをひらくと、素敵な絵が現れる。
「飲食は母親と、今の副社長がプロデュースした事業です。きびしい時もあったようですが、おかげさまで人気となり、今の店舗数は12店舗です」。
グルメサイトをみてみたが、いずれのショップも高得点。店づくりでも、やはりスケールがちがうように映る。とはいえ、経営者の小口氏は、ただ大胆なだけではない。むしろ、デリケート。
「社長に就任してからは、全スタッフと面談しました。私の代になって、ぐっとスタッフに近づいたと思います。おかげで、コロナ禍のなかでも、スタッフは辞めずに残ってくれています」。
コロナ禍でも、給料は100%、ボーナスも支払っている。小口氏の矜持という奴だ。
「今では、利益もコロナ前にもどりつつあります。支配人、料理人のおかげですね」。
小口氏は、料理人はタレントで、支配人はマネージャーだという。その発想が面白い。タレントも、マネージャーもいるなら、彼らに任せておけばいい。
「料理もそうですが、店のカラーも支配人を中心としたスタッフみんなで決めています。私は、彼、彼女らをバックアップするのが仕事であり、役割です。だから、コロナ禍でも給料を支払ってきたし、独立したい人も支援しています。もちろん、それでも不満な人もいるでしょうが、そこはもう『去る者は追わず来る者は拒まず』で」。
社長に就任して2年。まだまだ手探りのところもあるようだ。
ただし、逃げるつもりはない。
「将来はイタリアに本社移そうかなと思っています。飲食は世界共通ですからね」。
たしかに、そうだ。
ところで、ある時、父親に、これまたいきなり100万円を渡され、何を食べるか試されたことがあったそう。その時、小口氏は100万円を使い和食の料理人を呼ぶことを選択したそうだ。それを報告すると、父親はにっこり笑い『正解』といったという。理由は、「和食は素材に金をかけるから」ということだった。
料理の本質を見抜いたということだろうか?
さて、今の小口氏は、いったいこれからどんな選択するのだろう?
食の美学を広めるのもいい。イタリアでボーノと言って笑っていてもいい。いずれにしても、答えは、食の世界のタレントたちが握っている。その、食の世界のタレントへのマネージメントが大切であると小口氏は語っていた。
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