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第90回 株式会社日本レストランエンタプライズ 代表取締役社長 浅井克巳氏
update 09/12/22
株式会社日本レストランエンタプライズ
浅井克巳氏
株式会社日本レストランエンタプライズ 代表取締役社長 浅井克巳氏
生年月日 1953年10月28日 東京生まれ。
プロフィール 一浪の末、東大に進学。その後、国鉄に入社。金沢鉄道管理局に配属される。その後、この金沢鉄道管理局と本社を交互に異動しつつ、組織の活性化に貢献。国鉄民営化を推進し、分割後のJR東日本へ。やがて取締役に名を連ね、09年6月、グループの飲食部門である株式会社日本レストランエンタプライズの社長に就任する。
企業HP http://www.nre.co.jp/
新幹線を利用する楽しみの一つに「駅弁」を挙げる人も多いだろう。蓋をあけ、車窓を眺めながら頬張ると、たしかに旅行気分も高まってくる。この「駅弁」をはじめ、車内販売、駅構内での飲食店や宿泊施設の経営など、JR東日本のグループ企業として飲食・小売などのサービスを展開しているのが株式会社日本レストランエンタプライズだ。今回、ご登場いただく浅井克巳は、この日本レストランエンタプライズの代表取締役社長。09年6月就任とまだ日は浅いが、すでにさまざまな試みを開始しようとしている。

中学時代100メートルを11秒7で駆け抜けたスポーツ万能な少年が、めざしたもの。

浅井は、1953年に東京都小岩に生まれる。ビル群が林立するいまとなっては想像もつかないが、当時の浅井家は家屋が続く長屋の一角にあったそうだ。西岸良平氏原作の「三丁目の夕日」で描かれた暮らしそのものだったという。小・中時代は、遊びと卓球に明け暮れた。足が速く100メートルを11秒7で走り抜けたという。当時の、日本女子の記録が12秒だから、相当なものだ。
高校に進学してはじめて勉強に向き合うようになり、2年生で東大進学を目指し始めた。その頃、勉強以外ではウェイトリフティングに凝っていたそうだ。いまでも100センチ近く胸囲があるというが、当時は、文字通り筋骨隆々。胸囲がみるみる大きくなり、すぐにシャツが着られなくなり、母に怒られたと、笑う。
一浪の末、東京大学経済学部に入学した浅井は、今度は、旅行にハマる。日本中、あてのない旅を繰り返した。海外旅行にも行っている。パリからドイツ、スペインとヨーロッパを横断する旅。荷物を紛失するなどアクシデントを乗り越えながら、約1ヵ月、海外で浅井は、トラブルにも揉まれながら旅を続けた。この旅が浅井を人間的に磨き上げた。「一つの自信が生まれたのはたしかですね」と浅井は振り返っている。受験や旅を通し、浅井は、単純にレールのうえを走るだけでは辿り着けない到達点を目指していたのではないだろうか。

国営企業の「国鉄」への就職。

大学卒業を控え、就職活動を開始した浅井は、三菱重工や石川島播磨など、そうそうたるメーカーから内定をもらう。だが、旅好きな浅井が選んだのはまだ民営化されるまえの「国鉄」だった。研修の後、金沢鉄道管理局に配属された。ここが浅井の出発点になる。1年はホームで駅員をやり、電車も運転したことがあるそうだ。その後、本社とこの金沢の管理局を代わる代わる異動。後に、会ったこともない人間から「おまえが浅井か」と言われるようになる。というのも、当時の国鉄は違った管理局への異動があたりまえ。浅井のように同じ管理局ばかり異動するのは、特異なケースだったからだ。だから、知らぬ間に有名人になっていた。
もちろん、浅井が注目されたのはそれだけではないだろう。大蔵省(現、財務相)との交渉窓口など、重要な仕事を任されていく。本社と金沢を行き来するたびに新たな業務が与えられ、役職も上がった。駅長になったのは27歳のとき。28人の部下ができた。浅井よりベテラン選手がほとんどだ。

27歳の駅長が仕掛けたこと。

「あのときはおもしろかったですね」と当時を振り返る。一方で、労働組合にはやはり閉口したそうだ。「組織が2つあって、対立していたんです。そんななか、どうすれば業務に目を向け、やる気になってくれるか」。集客にも力を入れた。企画を立て、専用列車を借りたこともある。「これがたいへんでね。列車を用意した限り、客を集めないといけない。でも、どうすればいいかわからない。手探りです。助役の2人以外は、ほとんどわれ関せず。たった1人だけ、よく動いてくれる人がいて、いっしょに企業回りを重ねたんです。それでもなかなか参加者が集まらない。最後には、学校に行ってPTAの人たちに営業をかけたんです」。その結果、子どもたちと親を乗せた6両編成の小さなツアーが開催された。子ども達が駅に集まる。歓声が上がる。駅に命が吹き込まれたようだ。このことがきっかけとなって、いままで傍観していた社員たちも浅井たちの仕事に興味を持ち始めた。退廃したかのような組織に活気が戻ってくる。翌年、嬉しいことが一つあった。同じ時期になると、子ども達から問い合わせが殺到したのだ。「今年はやらないのかって」。駅員たちの表情がいっぺんした。

国鉄解体。民営化の道を進む。

浅井は、そのとき同じ金沢の管理局の人事に異動していたが、話を聞いてさぞ目を細めたことだろう。だが、またそこで難問を抱える。国鉄の解体が始まった。何万人もの人間が職を追われる。「人事だったので、再就職先をみつけるために企業を回るんです。でも、反応が冷たくて。労働紛争ばかりやっている国鉄の人間に仕事なんて任せられるか、って。当時の国鉄がどういう風に見られていたか、この一言からでもわかりますね」と浅井。自嘲するしかなかった。民営化の必要性を浅井自身、肌で感じたのではないだろうか。やがて国と、事務レベルでの調整役を任された浅井は、民営化を文字通り推し進めていく一員となる。昭和62年4月「国鉄」は民営化され、JRと名称を変更する。その後、浅井は、JR東日本に席を置き、整備新幹線の開発に携わるほか、組織の整備・近代化も推し進め、取締役に就任している。

飲食というサービス業の先端で、もう一度、変革にチャレンジ。

そして09年6月。浅井は、民営化したJRの、サービス関連を担う日本レストランエンタプライズの社長に就任した。浅井がここに辿り着くまでに、浅井が育った小岩の長屋は、姿を消した。住宅は都心から離れ、郊外に広がっていく。地方へも、新幹線の葉脈は伸びた。鉄道の事業も多岐にわたるようになる。だが、何万人、何十万人と行き交う駅には、どれだけのにぎわいが生まれたのだろうか。たとえば、日本レストランエンタプライズが経営する構内の飲食店は、その立地をほんとうに活かし切っているといえるのだろうか。
「どんどん新しいことを取り入れていこう」浅井はそういってハッパをかける。「あれこれと考え、シミュレーションを繰り返す。その時間がもったいないって言っているんです」。若手社員の採用・教育にも力を入れ始めた。「サービスの基本は人だ」と浅井はいう。かつて金沢鉄道管理局を活性化させたときのように、浅井は、新たな試みを行いながら、「人の活性化」を目指しているのではないか。1000人を超える巨大な組織だけに、簡単なことではないだろう。だが、いまの浅井は、その仕掛けづくりを楽しんでいるかのようだ。

思い出のアルバム
思い出のアルバム1 思い出のアルバム2 思い出のアルバム3
現場助役時代。金沢にて 学生時代。ロンドンにて 幼少の頃。昭和37年10月撮影
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