株式会社ユリシス 代表取締役 龍井義典氏 | |
生年月日 | 1975年7月2日 |
プロフィール | 法政大学卒。輸入車などを販売する「ヤナセ」に入社し、いったんサラリーマンになったが、起業を志し、退職。フリーターを経て、グローバルダイニングに転職。サービスの神髄を学ぶ。その後、まるはレストランを経て、知人の店(2号店)の立ち上げに参加。30歳で独立を果たす。 |
主な業態 | 「浅草もんじゃ 土蛍」「碧い月」「cyan」 |
「小学生の頃は神童で、勉強でも、スポーツでも目立ちまくっていました。今思えば、あの頃が人気のピークだった気もしますね」と笑うのは、今回ご登場いただいたユリシスの代表、龍井社長。
「父親が典型的なサラリーマンだったこともあって、私もサラリーマンになるんだろうなと漠然と思っていました。中学3年生で、父親が単身赴任をします。重石がなくなったことで、私自身の生活態度が少しずつ乱れ始めます」。
それでも、「やることはやろう」と神童らしさも残っていたという。「中学の頃は、勉強より、スポーツです。なかでも物心ついた頃から始めたスキーが大好き。高校も実はそれで決めました」。
高校は、神奈川県の法政二校。
「関東で競技スキーのクラブがある学校は少なく、内申書の成績で推薦が受けられたので、そちらに通うことにしたんです」。
実家は東京の北区だったから電車で1時間はかかったそう。バイクで通ったこともあったが校則で免許取得禁止のところを見つかり、没収されている。
スキーの成績はどうだったんだろう?
「スキーではインターハイにもでています。かなり真剣にやりました。でも、そうですね。冬は授業そっちのけで山に籠るんですが、夏はプールで遊んだりもしていましたね。大学はそのまま法政に進むんですが、進学を境にスキーと縁を切りました」。
どうして縁を切ったんだろう?北国ならともかく、関東でスキーはマイナーだ。そのあたりに答えがあるのかもしれない。ちなみに、龍井氏は、中学ではビーバップハイスクール、高校で神奈川にいくと、それが時代遅れと知り、チーマーに憧れたという。
時代に敏感といえば聞こえはいいが、移ろいだというほうが正しい。
大学になってスキーをやめた龍井氏。「ちょっと生活が荒れた」と笑う。マージャンに明け暮れたのも、大学入学後。「大学時代は、飲食をはじめいろんなアルバイトをしました。なかでも、高校時代の同級生のおばさんが経営していた『もんじゃ焼き』のバイトは、メインの仕事です」。
月30万円をめざしたが、だいたい20万円程度で終わる。ただ、20万円でもすごい。
いったい何に使った?と聞くと、マージャンで払った授業料が相当額になるそうだ。
チャランポランな学生生活だというが、就職もきっちり第一志望に合格している。
「たしかに、そうなんですが…実は大学も、就職も、第一希望と言っているんですが、頭から妥協した上での第一志望です。大学なら早稲田、就職なら総合商社がいい、と。でも、最初から無理だと決めていたんです。いいかげんな学生生活を象徴するように、高みをめざすという気概がなかったわけです(笑)」。
「就職はヤナセです。こちらが、就職できるカテゴリーのなかで第一志望でした。配属はコンチネンタルタイヤ営業部。1年で退職してしまうんですが(笑)」。
父親のサラリーマンの生き様が、重なったのかもしれない。「ああはできない」と思ったのか、「ああはなりたくない」と思ったのか。もっと単純に「つまらなかった」のかもしれない。
いずれにしてもサラリーマンの時代があったから、起業しようと思ったのはたしか。「その時、頭に浮かんだのが『もんじゃ』です。飲食ではなく、『もんじゃ』をやろうと。ヤナセは、1年きっちり勤め、退職。もんじゃ店オープンに向け、スタートします」。
龍井氏の「もんじゃ」のルーツは、学生時代のバイト先。だから再度、もんじゃ焼きの店に舞い戻る。今度は修行という色合いがつよかった。
「そうですね。ただ、『もんじゃ』だと決めている割には、熱意が薄かったのも事実。フリーター生活を親に咎められ、もんじゃとはちがう飲食に就職します」。
それがグローバルダイニングですか?
「そうです。彼女とデートでお台場に行った時にモンスーンカフェをみて、心を動かされました」。
それで、即?
「ええ、即、面接にいきました(笑)。面接では、『すぐに辞めたくなるからアルバイトからスタートしたほうがいいよ』ってアドバイスしていただいたんですが、『正社員で』とお願いして」。
「ただ、結果的には言われた通り長くは続かず8ヵ月程度退職しました。でも、むちゃくちゃ勉強になる濃密な8ヵ月でした。お客様が、居心地がいいお店は、スタッフがたいへんだというのも初めて知りました。グローバルは給料がいいことでも知られていますが、私の時で、初任給40万円でした。ただ、当時は労働時間もハンパなかった。これでは体がもたないと退職を決意しました」。
それから、どうしました?
「また、『もんじゃ』の店に戻ります(笑)。そこでアルバイトをしながら、今度は、もう少し楽というか、ハードルが低いお店と思って、『まるはレストラン』に転職し、ほぼ3年間お世話になりました」。
もんじゃ焼きはどこにいったんだろう?
「そうですね。『もんじゃ』にはなかなかたどり着きません。ただ、忘れたわけではありません。じつは縁もあったんです」。
ヤナセ時代の同期が、龍井氏より早く「もんじゃ焼き」のお店をオープンしていたそう。その方が2店舗目をオープンする際に、責任者として声がかかった。
「もんじゃ」との縁はつながっていた。
そして、30歳の時、初めて自身でプロデュースした「もんじゃ焼き」のお店をオープンする。「もんじゃをやろう」と思って、7年。いまだ「もんじゃ」なら成功すると高をくくっていた。
「1号店は、偶然、みつけたんですが、もとのオーナーが焼き肉チェーン店の社長さんで、びっくりするくらい器が大きい人で、破格の条件で店を譲ってくださったんです」。
「ちょうど、ジンギスカン料理が下火になったタイミングで、お好み店にするかと思ってらっしゃったので、鉄板もまっさら。おかげ様で出店コストは1000万円もかかっていません」。
上々のすべりだし。
ただ、破格と言っても、じつは10年間で1年以上つづいた店が1軒もない店舗だった。だから、つづいたこと自体、奇跡だ。とはいえ、計画していた売上にはまったく届かない。給料も取れず、生活もギリギリ。「辞めるにも辞められなかった」というのが、正しい表現になるだろう。
「『もんじゃ』で失敗した店は知らなかったから、大丈夫だと。資金計画では月商を600万円と弾いていました。ところが、ふたを開ければ200万円からよくて250万円です」。
家賃は30万円だから、通常に計算すれば300万円が損益分岐点。「粉もんは利益率が高いといいますが、食材費は30%程度はかかります。だから、粉もんだから利益がいいという計算は成り立ちません」。
経験者がいうのだから間違いない。
「食べていくのでやっとだった」と龍井氏は声を漏らすようにつぶやいた。当時のつらい思いが、声のトーンを暗くする。「食いつないではいけるものの、先がみえませんでした」とも言っている。
1年目にはお子さんも生まれている。先がみえないプレッシャーに押しつぶされかけたこともあったはずだ。
何がいけなかったんでしょう?
「正直、なめていたんです。それがすべて。もちろん、何もしなかったわけではありません。営業時間も数ヵ月後には朝5時まで延長します。3年間、休むこともなく仕事をしました」。
それでも先がみえない?
「みえなかったですね。ソースも改良し、サービスも徹底しました」。
じつは龍井氏の店では、スタッフが横に付き、「もんじゃ」を焼き上げる。「これって、グローバルダイニングで教わったことなんです。お客様に居心地がいいと思っていただくには、スタッフが動かなくちゃいけない。『もんじゃ』ってけっこう焼くのが面倒ってお客様も多いんです」。
しかし、なかなか業績は浮上しない。トンネルはつづく。
世田谷というロケーションだからだろうか。芸能人も時々いらしていたらしい。そのなかに、人気俳優がいた。「家族でもいらしていただけるような方で、たくさんのご友人もつれてきてくださいました」。
その俳優たちが、ある番組で龍井氏の店を紹介してくれた。「本人たちはそう思ってないでしょうが、私にとっては恩人です。収録が終わった時点から、潮の流れがかわりました」。
200万円の月商が400万円になる。「ふつうTVの影響は数週間で終わるという人もいますが、うちはおかげさまで、あの時以来、ギアが一段あがった感じです。お客様が多くなってしまって、ご紹介いただいた俳優の方が、こられなくなったとこぼしておられたそうです」。
「もんじゃ」は元々、石に汁で文字を書いたというルーツから、文字焼き→もんじゃ焼きとなり、昭和の時代に駄菓子屋で子供のおやつとして食の文化に浸透していったという説もある。ひょんなことから、食の一つのカテゴリーができたわけだ。
1回のTV放送が、一つの店をつくりかえた。「あの店を取り上げようよ」という俳優さんの一言からはじまったのも、ある意味、ひょんなきっかけからと言えなくもない。
むろん、3年の間、地道に努力し、磨き上げてきたベースがあったからこその大変革。その意味では、龍井氏の成功は偶然ではなく、必然だったのかもしれない。
生き方もかわった。
「もんじゃをやろう」と思ったあの時とはまるでちがう。苦節3年は、楽天家に足元をみつめさせ、周りの人を思う心を芽生えさせた。
「偉そうな言い方になりますが、私がリスペクトしている人は父母以外いないんです。でも、お世話になった人はたくさんいいます。父母はもちろん、もんじゃ焼きのおばさん、俳優さんたちも、従業員ももちろんそうです」。すべての人に「感謝しかない」と龍井氏はいう。
現在はもんじゃ焼きのお店4店舗、イタリアン1店舗、バー1店舗。店舗の拡大は常に目指しているが、今の最優先は、今いる従業員を幸せにする事が最優先。「飲食にイノベーションを起こしていきます。めざしているのは従業員の最低基本給を40万円にすることです。年収1000万プレーヤーも生み出したいですね。もちろん、労働環境もうらやましがられるようにしていきたいです」。
龍井氏はインタビューの最後を、そう力強く締めくくる。
「もんじゃ」で、イノベーション。昔ながらの「食」で、「食の世界」にイノベーションを起こす。こんなに痛快なことはない。
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