株式会社遊鶴 代表取締役社長 橋本 毅氏 | |
生年月日 | 1961年5月22日 |
プロフィール | 大学中退後、東京にでてロシア料理のコックになるが、父親が倒れ実家に戻る。父親が亡くなったあとは、社長を継いだ母親をサポート。のちに社長に就任し、5年で財務の健全化を図る。クリエイト・レストランツのM&Aに賛同し、傘下に入ったが、社長をつづけ現在に至る。 |
主な業態 | 「ごまそば遊鶴」 |
企業HP | http://www.yuzuru.hokkaido.jp/ |
今回、ご登場いただいた株式会社遊鶴の代表取締役社長である橋本氏は、食材の宝庫でもある北海道小樽市に1961年に生まれている。
小さい頃は海が遊び場だったというから海からも近かったのだろう。
「ただ、私が6歳の頃に札幌に引っ越しています。もともと小樽で製麺業を営んでいて、札幌の製麺工場を買い取って札幌に移ったようです」。
当初は業績も順調だったそうだが、次第に厳しくなる。
「私が、中学に進学した頃からでしょうか、大型スーパーや学校給食など大量生産能力が必要となってきましたが、設備投資もままならず経営が厳しくなっていったようです。今の基礎となる蕎麦屋の第一号店もこのころ開店しました。私も、家業を手伝うために厨房に入り仕事を始めます。学業との二足の草鞋ですね笑」。
父親について橋本氏は職人気質で厳しかったと言っている。幼少期は母子家庭みたいなものだったとも。ただし、中学を卒業する頃には一人前の麺職人、父親ともいっしょに過ごす時間が増えた。
しかし、中学生の麺職人とは、ちょっとイメージが追い付かない。
「家業の手伝いばかりではなく、大学にも進みました。地元の大学に進学したんですが、じつは、飲食のアルバイトが楽しくなって途中でリタイアしています」。
それで、どうされたんですか?
「若かったこともあって、『東京だ』と思って、東京でロシア料理のコックになりました。当時は家業を継ぐ気持ちはぜんぜんなかったですね」。
ただ、そうは言っていられない事態になる。
「ちょうど自社新工場を建設するということになって、住居といっしょに、今の本店ですが、蕎麦店もオープンしようと。ただ、その計画が動きだした頃に、父親が倒れてしまい、私も急いで実家に戻ります。父親は亡くなり、母親が社長に就任しますが実質の運営は自分でした。その頃、負債は2億円くらいだったと思います」。
マイナスからのスタートですね?
「そうです。でも、危機感はそうなかったですね。投資のための2億円だから、うまく回転させれば、当然、2億円以上の利益を生むわけですから。もうちょっといえば、母親が社長だったこともあって、私自身、お金のことまで危機感がなかったというのが正直なところですね」。
億単位の借金があり、父親という羅針盤もないなか、先の見えない製麺事業からの撤退を決意する。
「もう、製麺では立ちいかないと思っていましたから。だから、飲食業に舵を切るんです。私自身、いわば麺職人でしたし、ロシア料理の経験もある。ただ、なんとかなるとは思っていましたが、ここまで繁盛するとは、まったくの想定外でした」。
蕎麦づくりは、橋本氏の仕事。むちゃくちゃ目がまわった。
「うちの店がヒットしたのは、当時の蕎麦屋では珍しいセットメニューを数多くお出ししたからだと思っています。私自身が東京でそういったお店を経験していたものですから、その方法を北海道にインポートしたわけです」。
本格蕎麦の旨さと多彩なセットメニューが、口コミで広がった結果、オープンして数日で目がまわる、うれしい状況になったそうだ。
橋本氏は、クリエイト・レストランツ・ホールディングスのHPに掲載しているTOPインタビューで、当時を振り返り、次のような趣旨の話をしている。
「大量消費の時代が訪れたことで食品添加物が流行りだします。添加物を入れれば、長持ちし、ロスも少なくなります。利益だけ追い求めれば、それが正解です。ただ、そうしたくなかった。だから、市場に卸すのではなく、直接、消費者の皆様にという思いこそ当社が飲食店に転身した理由でした」。
メインは「ごまぞば」。同インタビューで、「当時全国では全く存在しない、札幌でもまだまだ珍しかった『ごまそば』を選択した」と言っている。
「ごまそば」はいまも看板メニューだ。
もっとも、負債もある。経営手腕が問われるところだ。「とくかく財務体質を立て直すのが喫緊の課題だと思い取り組み、社長就任から5年後には改善しました」。
「旨い」だけでは、もちろん生き残れない。だが、旨いの一言を追求する志は消費者に伝わった。消費者の信頼があったからこそ、財務体質もまた改善できたに違いない。言い換えれば麺職人の矜持が、すべてを凌駕したということだろうか。
「財務状況が改善していくなかで、もう一つ、人材という飲食にとっては本質的な問題がクローズアップされてきました。いまから大きくなるためには、どうしたらいいか。やはりそこには『人』という問題が立ちふさがります」。
じつは問題は、それだけではなかった。
「家族で温泉に行った時に脳梗塞を発症し倒れ、入院の手続き諸々で自宅に戻った時にもう一度倒れます。いまは、まったく不自由もなく毎日10キロ走っているのですが、後遺症で1ヵ月ほど、左半身が麻痺。息子はまだ大学を卒業して間もない頃だったので、M&Aかなと思ったんです」。
クリエイト・レストランツの傘下に入ることを選択したのは、上記のような理由があったから。ただ、社長職にはとどまった。
「クリエイト・レストランツは資本を入れても必要でない限り、傘下企業の意思を尊重してくれます。私が社長に残ったのは、弱気になった私自身を責めてのことですが、クリエイト・レストランツだったから認めてくれたんだとも感謝しています」。
中学生の麺職人が、経営者になる。けっして楽な道ではなかったし、今尚、模索はつづいているはずだ。だが、父親の代から打った、うまい蕎麦は、健在。角が立ち、きりりとしまった、「蕎麦がうまい店」にはだれも逆らえない。
継承も含め、未来に託すのも、やはりその「旨い」の一点かもしれない。
創業時の写真 | 札幌移転最初の社屋 | 25周年全社員 |
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