株式会社升本フーズ 代表取締役 塚本光伸氏 | |
生年月日 | 1951年、居酒屋を営む塚本家の長男として誕生する。 |
プロフィール | 幼少の頃から、仕事に明け暮れる父と母をみて、飲食業に嫌気がさす。高校卒業と同時に家を出たが、父が病気になり呼び戻される。いったん独立し、不動産の仲介業などをはじめ、そこで得た資金で懐石料理店を開業するが、稼ぎ頭だった不動産事業に失敗し、一時倒産の危機も。しかし、その危機を救ったのも飲食業だった。塚本はその後、改めて飲食業の良さを知り、家業であった居酒屋を継ぐことになる。それがいまの『亀戸 升本』の始まりである。 |
主な業態 | 「亀戸 升本」 | 企業HP | http://masumoto.co.jp/ |
飲食業の経営者でありながら、「飲食業が大嫌いだった」と話す人も珍しい。今回、登場いただく(株)升本フーズ 代表取締役 塚本光伸は、そんな珍しい一人だ。塚本の場合、嫌いどころか、憎んでいたといってもいい。むろん、いまの塚本からは想像できない過去の話だが。なぜ、塚本は、飲食業が嫌いだったのか。それがどうして、いまに至るのか、そこに飲食業界の「光と影」が潜んでいるような気がしてならない。塚本の過去を辿り、「光と影」のありかを探ってみよう。
1951年、塚本は東京都亀戸に生まれる。兄弟には、2つ上の姉と10歳下の弟がいる。家は、明治38年から酒屋を営んでいた旧家だが、空襲で店が全焼したこともあり、当時は父と母が夫婦で切り盛りするような小さな飲食店を経営していたそうだ。
朝から晩まで、休む間もなく働いていた両親は、子どもたちにまで気を回すことができなかった。疲れて眠り込む母をみて、子ども心に、お腹が空いたと言えなかったそうだ。肉体的な空腹だけではなかった。気持ちも満たされない。飲食業に父と母を奪われた。そんな気持ちがやがて、憎しみにまで発展していったのではないだろうか。
「労働時間も長い。休みも少ない。給料も良くないのになにがいいんだ」。中学の時には、両親と喧嘩をしたこともある。高校卒業後、家出同然で大阪に行った。
その大阪で塚本は7ヵ月近く暮らしている。もともとあてなどない。最初の2日間は、寺で野宿した。しかし、少年はこれで家業と離れられると、野宿さえ苦ではなかった。ところが7ヵ月過ぎた頃に、連絡が入る。父が病気になり、その父から店を頼むと懇願された。だが、塚本は頑なだった。病気の父を前にしても、首を縦に振ることができなかった。そのとき父の余命はわずかしか残っていなかったにもかかわらず。かろじて「手伝いなら」と答えた。
25歳の時、2つ上の姉が結婚し、家業を手伝うことになったため、これ幸いと塚本は、家業を放棄し、別の事業を始めてしまう。不動産の仲介、また飲食店も経営した。このとき始めた仲介事業が瞬く間に軌道に乗り、一人で2億円近い収入を得た。ますます飲食業が、ばからしくなっていく。ただ、自分を慕って付いてきてくれた人間がいたこともあって、ならばと、仲介事業で得た収入を元に多摩で280坪の懐石料理を始めた。順風満帆な時代だったといえるかもしれない。
窮地に陥った。稼ぎ頭の不動産事業で失敗してしまったからだ。そのとき、追徴課税が4億円にも上った。38歳だった塚本は、もはや倒産しかないと腹をくくった。そんなときに彼を救ってくれたのは、あれだけ自分が毛嫌いしていた飲食業だった。「友人を通じて雅叙園関連の店舗運営の話をいただいたり、あるレストランの経営を委託されたりして、危機を乗り越えることができた」と当時を振り返っている。
シダックス株式会社の志太社長と出会ったのもこの頃。シダックスはカラオケ事業で急成長を遂げていくことになるが、志太氏と出会ったとき、塚本は「カラオケをされてはどうか」と提案している。その後も、シダックスの社外相談としてお付き合いをしている。
そういうことが続き、当時は、再生話が次々、舞い込んできたそうだ。飲食業嫌いの人間に、飲食業再生の話が舞い込む。皮肉といえば皮肉な話である。
「たまたま箱根に行ったときに、とてもいい旅館や施設をみつけたんです。調べてみたら、飲食業をされている『うかいグループ』が経営されていたんですね。感動して、すぐに社長に手紙を送ったんです。ぜひ、お会いしたいと」。
4度目のアプローチで初めて返事が返ってきた。10分だけなら、と。塚本はすぐさま本店まで出向いた。そこでまたショックを受けることになる。
「若い人が一生懸命働いているんです。誤解を恐れずにいえば、飲食業は、社会の底辺の人しか働かないところだと思っていたんですね。それがここでは銀行員から転職した人までいるというじゃないですか」。
「そのときの社長の鵜飼 貞男(うかい さだお)さんから一通の手紙を見せていただいたんです。自殺を決めていた2人が箱根のガラスの森美術館(うかいグループが経営している美術館)に行き、感動を受け、自殺を思いとどまった。けっして今も裕福ではないが、楽しく生きている。そんな内容の手紙だったんです」。好き嫌いは別にして、子どもの頃から飲食業にかかわってきた塚本にとって、その手紙はあまりに衝撃的だった。「飲食業は人を救うこともできるんだ。自分は何をやっていたんだろうか」と。すでに40半ばを超えた塚本は、はじめて飲食業の「光」を目にした思いだった。
「あなたの所に来た人を、来たとき時より幸せにして帰しなさい」という教えがある。塚本は、まさにその意味を知った。幸せにするのは客だけではないだろう。従業員もまた同じである。人を幸せにできる、それが飲食業だとしたら、誰が嫌いになるというのだろう。
「いまの幹部社員の8割は出戻り社員たち」と塚本は笑う。新入社員に最初に教えることは「辞表」の書き方だ。人生は2度ない。精一杯生きよう。これが塚本のメッセージである。辞めたいと思った人間は引き留めない。代わりに戻ってきたいという人間は快く迎える。これが塚本流。「光」が「影」を作ってはいけないからだ。
客の喜びを、自分の喜びにできた時、飲食業を営む者には、他の事業にない「光」がさす。そんな風に思えてくる。それは周りの人の心を温かくする「光」でもあるはずだ。
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