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第920回 株式会社オリエンタルダイニング 代表取締役 宮 将司氏
update 23/01/31
株式会社オリエンタルダイニング
宮 将司氏
株式会社オリエンタルダイニング 代表取締役 宮 将司氏
生年月日 1973年4月23日
プロフィール 池田高校出身。甲子園経験者。明治大学でも野球をつづけるが、腰の怪我に悩まされる。大学卒業後、愛媛県にある石油化学メーカーに就職。経理を希望し、企業経営を学ぶ。営業を経験したのち、大学時代の友人の勧めもあり、外食で起業をめざす。
主な業態 「Local India」
企業HP https://localindia.jp/

6番、ショート、宮。

ショートからみる風景は、どうなんだろう? 右にサード、前を向けば、ピッチャーにキャッチャー、そして、バッター、左には、セカンドとファースト。
甲子園は特別でしたか?
「小さい頃から目指してきましたから、たしかに特別でしたね」。
池田高校、6番、ショート宮。
「小さな頃からスポーツではわりと目立っていたほうです。運動会で走ると、ほかの子のお父さんが私を撮影していたくらいですから笑」。
野球好きの大人には、野球で評判の、目の前を走る少年がなにかの原石に映ったんじゃないだろうか。「私自身、野球が大好きで、小さな頃から夢は池田高校で甲子園と周囲に言いふらしてました笑」。
池田高校といえば、やはり「やまびこ打線」と「蔦監督」。
「強豪と思われていますが、実は田舎の県立高校。蔦監督が赴任された時はボールが3球しかなかったそうです。部員もいないから陸上部から選手を借りたりしていた弱小時代もあったと聞いています」。
県立だから、スカウトもない?
「そうなんです。ただ、私らの時にはもう有名でしたから、蔦監督を慕って、それなりの選手が入ってきたように思います」。
中学時代はピッチャーだったが、ピッチャーは早々にあきらめた。「同級生にすごい球を投げる奴が2人いて、ピッチャーなんてチャンスすらまわってきませんでした。で、初日にいきなり蔦監督からショートをしろと言われて、なんとか3年間ショートをやったわけですが」。
蔦監督は、宮さんにとってどんな人?
「入部するまでは、神様のような存在でした」。
入部すると?
「このくそおやじ!笑」
蔦監督がつくった寮で暮らした。「くそおやじ」は、文字通り、グランド外でも、おやじのような存在だったに違いない。
「もちろん、卒業後はふたたび神様。今も、尊敬してやまない人で、蔦監督がいなかったら全く違った人生になっていたと思います」。
教育者だった、ともいう。
「蔦監督は社会科の先生でして、生活態度や試験の点数が悪ければグラウンドに入れてもらえない。野球はあくまでも学校の部活動という考えだったから学業優先が当たり前。いわゆる『野球学校』が大嫌いな先生でした」。
この話からでも、蔦監督の人間像が浮かび上がる。
ちなみに、調べてみると1991年夏、国学院久我山を1回戦で破り、弘前実業を2回戦で撃破、帝京高校と当たった3回戦で延長戦の末、惜しくも敗れている。

明治大学、野球部で、辛酸を舐める。

2つ下に川上憲伸氏がいたという。こちらは明治大学時代の話。
「野球推薦で入りましたが、高校時代とはレベルが全く違う。特に守備と走塁は知らないことだらけ。全然歯が立ちませんでした」。
1年時に椎間板ヘルニアをわずらった。
「いい病院があると聞けば、大阪でもどこでもいきました。でも、けっきょく手術をします」。
選手を続けながら練習をサポートしたりもした。
「なんとか野球ができるようになってからは、毎日痛み止めを飲んで練習をつづけます。でも、そんな状態では到底かなわない。最後までやりつづけ、4年生の時チームは日本一になりましたが、辛いことのほうが多かった4年間でした」。
田舎の天才少年が、全国の天才たちに跳ね返され、凡人になる。楽しくはない。だが、人生にとっては悪くない試練。背骨はそういう試練の下で、まっすぐになる。
「大学を卒業してからは、いったん故郷の愛媛にもどり、経理をさせてくださいといって石油化学メーカーに就職します」。
どうして経理だったんですか?
「もともとうちが裕福でなかったことと、大学時代、経済格差を目の当たりにしたことで、早くから独立志向があったんです。要するにお金持ちになりたかった笑。経理はお金のことを勉強できるので、それで経理部を希望しました」。 勉強になりましたか?
「経理は初めてでしたから最初は苦労しました。ただ入社した会社が素晴らしい経営体質で、ぜんぶが勉強になりました。会計学はもちろん、会社のあるべき姿を優良企業から学べたのは、何よりも私の財産ですし、目標とすべき理想の会社です」。
東京で営業もされていますね?
「そうです。経理を3年やって、営業を2年やりました。とても楽しかったので少し躊躇いましたが、初志貫徹で独立します。」。

日本人向けにアレンジしたインド料理。

大学時代の友人から外食を勧められたそう。
「あるビデオを勧められて、、、たしかグローバルダイニングの特集だったかな。頭も体も動かすし、チームスポーツみないで面白いなと外食に関心をもって。あることがきっかけでインド料理をはじめます」。
インド料理といえばカレーですね。
「日本では国民食ですが、インドのカレーといったらまた別物。インド人がつくるスパイスの利いたあのカレーです。私は、ちょっと苦手だったんですが」。
たしかに、コテコテのインド料理店は家族連れではちょっと入りづらい。。
「私と同じように、興味はあるけれど本場過ぎて敬遠してきた人もいるだろうと思いましたし、実際、本場のインド料理を謡っているところに限ってそれほど賑わっていないことがわかったので、だったら日本人向けにアレンジしたインド料理で勝負すればいけるんじゃないかな、と」。
それがきっかけですね。
「ただ、会社を辞め、1年は物件がない笑。25坪、50万円と決めていたんですが、探しても、探してもいい物件がありません。けっきょく恵比寿に出店するんですが。27坪、84万円。いきなり予算オーバーしちゃいましたが、それでも最初はいけると思っていたんです。オーナー気どりで、蝶ネクタイで店に立ちました笑」。
オープン初日はどんな思いだったんだろうか?
「居抜きで開業資金は2500万円くらいです。私はほかの社長さんとちがって飲食の経験はありませんでしたが、かわりに、財務会計やマーケティングには自信がありました。ところが、初日からすべての計算が狂います」。
どういうことだろう?
「ぜんぜん、お客さんが来ないんです笑」。
1日経っても、2日経っても、客はこない。「飲み屋には向いている場所でしたが、カレー屋には全然向かない場所だったんです。エリア的な問題ですが、最初はわからなかったんです」。
チラシを撒いても、ビラを配っても、笑いたくなるほど、反応がない。「ネットにも掲載しましたが、インド料理はお酒とつながらないので、うまくいきません」。
賃料84万円。通常なら、400万円が損益分岐点。しかし、月商は180万円しかなかった。「3日目には、恥も外聞もなく、アルバイトの子に頭を下げてシフト減らしてもらって、蝶ネクタイをはずして、私がホールに立ち接客をはじめました」。
最初は意地もプライドもあったという。「でも、オープンしてからの3日が、私の意地もプライドも、ぜんぶ、洗い流してくれました」。
11:30のオープンから深夜2:00のクローズまでぶっ通しではたらいた。アルバイトを雇用したのはランチタイムのみ。閉店後はポスティング。帰宅は深夜3時。これを無休で1年間続けた。

飲食の本質。

「けっきょく飲食ってそこかなと思うんです」。
宮氏はブレイクのきっかけをそう表現する。宮氏が「そこ」というのは、もっとも地味なこと。
「ビラを配っても、広告を打っても、営業にも行きましたが、ぜんぜんだめです。いま思えば、お金がないあまりに即効性を求めすぎていたんでしょうね」。
ある日、世界がかわったという。
「悟りじゃないですが、飲食の本質的なことを徹底しようと思ったんです。特別なことじゃない。料理の味付けや盛り付けはもちろん、照明や音量の調整、カトラリーの向きやメニューの場所、グラスの置き方まで、全部ちっちゃいことです」。
バイトの立ち位置や歩くルートにまで目を向けたという。宮氏に言わせれば、ジャブの連打。
「小さなジャブを1年間打ちつづけました。もちろんカウンターパンチがあれば楽なのですが、ジャブしかなかったから。でも、ちょうど1年くらい経った頃、もうちょっとで店をたたまないといけない、そんな時、急に売上がはねたんです」。
広告をだしたわけでもなく、割引券をだしたわけではない。昔、蔦監督が、教えてくれていた本質。
「そう、飲食の本質ですね。それを地道に磨いてきた、その結果としかいいようがありません。その日を境に、前年同月比を割ったことは一度もなく、それで、7年目になりますが、町田の商業施設に2号店をオープンします。こちらが狙い通り、ファミリー層にも受け、大ヒットします」。
商業施設に入れたのは、運も、実力も、「あの池田高校」もあった。「ふつうなら個人では入れなかったと思うんですが、店を視察に来られた時に行列ができていたことや、そうですね、池田高校野球部出身という肩書も利いたように思います」。
大事なことは、といって宮氏はいう。
「うちには、これ、といった決定打がありません。もちろん、日本人向けにアレンジしたインド料理という軸はありますが、だから流行っているかと言われたらそうじゃない。もっと本質的でベーシックなことで、たぶん、お客様も、答えはわかってない気がします。たとえば、『店の明るさがちょうどいい』や『注文聞きに来るタイミングがちょうどいい』といった目に映らないちっちゃなことなんです」。
小さいことを積み重ねて『なんとなくいい店』になったから、真似しづらいとも言う。それを店に定着させることは、そう、大手であってもできるものじゃない。現場に立って苦労してきたから得られた感覚なのだろう。
「現在、レストランは9店舗にまでになっています。ありがたいことに、20年間で閉店したレストランはありません。それが、一つの自慢です」。
もっとも、コロナ禍では、商業施設に出店が多いだけに、大変な苦労も強いられた。
「とくに、最初の緊急事態宣言では、9店舗中7店舗が強制的に休業。給料だけではなく、インド人コックの住まいも会社もちですから、もうだめかも、と思いました」と、漏らしている。
むろん、客はもう戻り始めているが、宮氏にはまだまだに映る。だいたい客の戻りは90%くらいかな、という。
とはいえ、一時の危機は見事乗り越えた。それで一回り大きくなったのはいうまでもないだろう。基本とも言えるちっちゃなことの積み重ねがいちばん強い。宮氏はそれを証明してくれている。
コロナ禍の下、厳しい時代がつづき、ゴーストレストランやバーチャルキッチン、またDXなど、未来のツールを模索する今だからこそ、もう一度、宮氏がいう本質を思い出したい。

思い出のアルバム
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