年代別社長インデックス
掲載時期別社長インデックス
オススメ求人サイト
リンク
アプリラボ
第923回 株式会社アールディーシー 取締役会長 久志本 京子氏
update 23/02/14
株式会社アールディーシー
久志本 京子氏
株式会社アールディーシー 取締役会長 久志本 京子氏
生年月日 1954年07月24日
プロフィール 大学薬学部を卒業後、病院勤務を経て、結婚。その後、株式会社アールディーシーに入社。現在は、2011年急逝した兄の意志を引き継ぎ、取締役会長としてアールディーシーを支えている。
主な業態 「がってん寿司」「かつはな亭」「ひな野」「優勝軒」「ブラウンバター」「かつ敏」「大島屋」「函太郎」他
企業HP https://www.rdcgroup.co.jp/

医学部に進んだ兄と、薬学部に進んだ妹。

2017年11月16日、「カンブリア宮殿」に取り上げられている。スシロー、くら寿司などの大手回転寿司とは一線を画す、いわゆるグルメ回転寿司が、海のない埼玉県からスタートした「がってん寿司」。大手と比較すると確かに値は張るが、その分、旨い。クオリティの差が、値段の差を軽々と埋めていく。
「がってん寿司」のモットーは手の届く贅沢の追求。今回は、この「がってん寿司」を経営する株式会社アールディーシーの取締役会長、久志本京子氏にお話を伺った。
「私たちは、埼玉県の大里郡寄居町という人口3万人程度の小さな町に生まれます」。
大里郡寄居町を、地図で調べてみた。荒川を遡上すれば、寄居町に着く。「寄居」は「よりい」と読む。昔は宿場町として賑わったそうだ。
「周りが大人ばかりだったので、本ばかり読んでいた」と久志本氏は笑う。本の虫だったが、成績は、普通の女の子。
「小学校6年生の時に、初めて先生に影響されます。国語の先生がいらして、言葉遣いを厳しく教えていただいたんです。本が好きだったこともあって、先生の教えに傾倒しました」。
中学に上がると、父親の同級生が音楽の先生だったこともあって、有無を言わさず吹奏楽部に入部することになる。
「理科の先生が好きで、私自身も科学に興味があったので、あの頃は、いつか理科の先生になろうと思っていました。ただ、熊谷女子高校に進んだあと、今度は医学部に興味がわいてきます。ただし、こちらも先に医学部に進んでいた兄から『女性が医学部に進学すると厳しい』とアドバイスされたこともあって、結局は、理科の先生でも医師でもない、薬学部を選択。当時、女子大だった旧共立薬科大学、現在の慶應義塾大学薬学部に進みます」。
「大学を卒業して最初に勤務したのが、埼玉医科大学の附属病院です。2年間、勤務するのですが、兄が歯科医院を開業することになったので、いったん退職し、兄をサポートすることになりました」。
仲のいい兄妹。信頼は厚い。

白衣を着た飲食経営者、現る。

兄をサポートする。最初は、開業した歯科医院を手伝うだけだったが、領域が思わぬ方向へと広がっていく。
「兄は、歯科医院を経営する一方で、RDCを起業します。『元禄寿司』寄居店をオープンしたのは、1987年のことです」。
つまり、がってん寿司の創業者は、兄の大島敏氏。
元禄寿司のフランチャイズからスタートした大島氏は、店舗数を拡大し、6店舗目にして「がってん寿司」をオープンする。
海のない埼玉県で、ホンモノ志向の回転寿司をはじめた歯科医師。白衣のまま店に現れたこともあるそうだ。
当時の物流状況を考慮すれば、まさにイノベーション。このチャレンジは、多くのお客様の笑顔となって結実する。
ちなみに、久志本氏のお父様も事業家で、日大の経済学部を卒業し、映画製作などに取り組まれたあと、飲食事業にも取り組まれ、最終的に不動産会社を起業されている。

専業主婦からの転身。

「実は私、RDCに就職するまで8年間、専業主婦だったんです。私が入社した頃は、まだ10店舗くらいだったと思います」。
今からすれば、まだまだ始まった頃の話。
先に話を進める前に、専業主婦時代の話も少し。
「結婚は、私にとって一つの挫折だった」と久志本氏はいう。悪い意味ではなく、思い通りにならない時代だったという意味。
「大学で寮生活を始めるのですが、2人部屋ということもあって、そちらでも『私』という個を主張することができなくなった経験がありました。一緒に生活していこうとすれば、相手に寄り添うことが前提になります」。
「その経験を経て、性格が変わった」と、久志本氏。
本の虫の、孵化が始まる。
「寄り添うという意味では結婚もおなじです。ただ、家族というのは思い通りにならないものの、絶対的な味方。その意味で、精神的な安定を得ることができたのも事実です」。
「自身の思い通りにいかない」という葛藤は、「挫折」という言葉に置き換わり、人生の伴侶と、子どもたちに囲まれ、日々の暮らしは明るく彩られた。
子どもたちが手を離れるようになったこともあったのだろう。平成5年から兄の片腕となるべく、RDCでの勤務を開始している。当時10店舗くらいだったというのはすでに書いた通り。
ところで、いつ頃から「がってん寿司」は、埼玉以外でも有名になったのだろう。
「TVチャンピオンじゃないですか。3連勝していますから」。確かにTVチャンピオンで3連勝のインパクトはでかい。「『がってん承知』の合言葉も面白がっていただけたのではないでしょうか」。
個人的には、絵本から飛び出してきたようなイラストも面白い。やがて、「がってん寿司」は海を渡っている。海のない埼玉県で生まれ、海を渡る。それ自体、ロマンのある話。
この兄の構想を実現すべくサポートしてきたのも久志本氏だった。妹は、兄にとって懐刀のような存在だったんじゃないだろうか。むろん、兄妹だから、だけではない。類まれな久志本氏の経営手腕を、兄大島氏は早くから見抜かれていたはずだ。

カリスマ社長を失った「がってん寿司」に現れたもう1人のカリスマ経営者。

「『がってん寿司』の急成長期は、平成16年〜18年です。今はホールディングス化していますが、この時期に様々な企業をM&Aしていきます。とんかつやラーメンなどもその一つです」。
とはいえ、いつまでも快進撃はつづかない。
「2011年東日本大震災が起こり、そのうえ、社長の兄が亡くなってしまいます」。
人のこと、資金繰りのことくらいならなんとかなる、と久志本氏は言い切る。だが、この時ばかりは、どうしようもなかった。兄は、それほど彼女にとっても、「がってん寿司」にとっても大きな存在だった。
だが、司令塔を失っても「がってん寿司」は、揺るぐことがなかった。借入は少なくなかったが、資金繰りは全て久志本氏が担っていたから、銀行の信頼も揺るがない。
「『がってん寿司』は埼玉になくてはならない存在」。その一言が久志本氏の背中を押す。
「兄が亡くなった時、私は専務取締役で、後にホールディングスの代表になります。当時から、海外も含め、13の会社があったんです」。
何をどう整理し、成長分野に資源を集中させていくか。兄からバトンを受け取った数年間は、羅針盤のない中で、経営者のハンドリングがもっとも難しい時期ではなかったか。
むろん、今の「がってん寿司」グループをみれば、カリスマを失った「がってん寿司」に、もう1人のカリスマが登場したことは明らかである。
「手の届く贅沢の追求」<Reasonable>、食のパイオニアであり続ける<Delicious>、日本の食文化を世界に広める<For Customers>。
兄が創ったRDC(アールディーシー)の理念を未来に残していくために、今も久志本氏は、最前線に立つ。ビジョンも大きい。最後に、もと薬剤師という異色の経営者である久志本氏に、「がってん寿司」の可能性を伺った。
「『がってん寿司』だけではなく、日本食は私たち日本人が思っている以上に海外でリスペクトされています。日本で飲食はレッドオーシャンと映っていますが、海外では、まるで異なった世界のなかに、日本食があるわけです。中国でも、タイでも、アジアだけではなく、ヨーロッパやアメリカでも。そういう意味で飲食は、とても可能性があるビジネスだと私は思っています」。
「こうした飲食の可能性の中に『がってん寿司』をおくと、また今までとは違った世界が広がります。安すぎず、高すぎず、しかし手間暇はしっかりかけている。私たちが、お届けしている『手の届く贅沢』は、世界中でも、多分有効なキーワードになるはずです。だからこそ『がってん寿司』には、大きな可能性があると私は思い、また、信じています」。
海外×日本食×手の届く贅沢。
確かに、この融合は面白い化学反応を起こすように思う。その意味でも、益々、久志本氏の経営手腕に期待したくなった。
兄妹の絆がつむいだ「がってん寿司」は、今も可能性に満ちている。

思い出のアルバム
思い出のアルバム 思い出のアルバム 思い出のアルバム
思い出のアルバム 思い出のアルバム 思い出のアルバム
 

この企業・代表の方にコンタクトを取りたい方

この企業にご興味のある方、コンタクトを取りたい方、また代表にメッセージを送りたいといった方は、下記フォームよりご登録下さい。当社が連絡を取り、返信させていただきます。
例)テレビ番組用に取材したい、自社の商品をPRしたい、この企業で働いてみたい、中学時代の同級生だった など