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第93回 株式会社ウイリー 代表取締役社長 橋口政治氏
update 10/01/12
株式会社ウイリー
橋口政治氏
株式会社ウイリー 代表取締役社長 橋口政治氏
生年月日 1947年12月5日、鹿児島県種子島に生まれる。
プロフィール 6人兄弟の5番目。父は馬車で配送する運送業を営んでいた。6人兄弟を育てる傍らで母は、家で飼う家畜の世話を行うなど、両親とも多忙を極めていた。小学生時代からワンパクで、活発だった少年は、高校を卒業すると共に島を離れる。いったん就職し、24歳までサラリーマンを経験した後、偶然の出会いから先輩が営むパン屋に入店。商売のイロハを教えられ、35歳で独立を果たす。パン屋からスタートした事業は宅配ピザ、おむすび屋、饅頭屋と広がり、現在、「ピザ・ウイリーチェーン」36店舗、「小饅寿本舗」53店舗、「やまと屋」4店舗を経営するに至っている。
主な業態 「ピザ・ウイリーチェーン」「小饅寿本舗」「やまと屋」
企業HP http://www.1willy.co.jp/

自然に囲まれた町で、少年、橋口は活発に育っていく。

政治、これが橋口の名前である。高校時代は、この名前のおかげで、試験で40点、加算してもらったこともあるらしい。父は運送業を営み、母は家畜の世話が日課だった。子ども達も手伝った。鹿児島県種子島。自然の宝庫のような町で、「政治」という大きな名前を持った少年が育っていく。昭和22年。戦後の復興期がようやく始まった頃だ。
自然のままの海と山。海で魚を捕まえ、山で鳥を罠にかけた。中学時代になると海に潜り、伊勢エビを獲ったこともあるそうだ。6人兄弟の5男。一番上の兄とは10歳も違っている。橋口が中学に上がる頃には、もう兄弟の何人かは島を離れていた。
橋口は高校までこの島で過ごす。「当時、高校に電機科ができ一期生という響きに惹かれ、そこに進んだ」と橋口。「電機科は40人ぐらい。最初は10番以内の成績だったんだけども、最後のほうには下から2番目が定位置になっていた」という。学ぶより遊ぶことに忙しい。「アルバイトをしながら、バイクの免許を取り、島中を乗り回していた」。遊び回った島だったが、高校を卒業する頃には、この島を離れることしか考えていなかったそうだ。
大学には進学せず、その後、7年間、サラリーマン生活を送る。電機科卒という肩書きがあったことで工場に配属された橋口は、秋田、新潟、厚木と工場を転々とする。最後の厚木工場で勤務している時に、偶然、島の人間に再会する。それがもとで橋口の人生は、急角度で旋回する。

パン屋の店主であり、島の先輩に教わり、鍛えられた日々。

「拾っていただいた」と橋口は表現する。橋口が会社を辞めたことを知った島の先輩が、声を掛けてくれたのである。先輩は、千葉県でパン屋を営んでいた。橋口はその店で勤務することになった。
橋口は、この店主を「恩人であり、師である」という。商売のたのしみを教わったのも、「お客様に喜んでもらうのが商売だ」と「商人道」を叩き込んでくれたのもこの店主だった。「当時、オイルショックというのがありましてね。何でも値上がりするわけです。私も、よかれと思ってパンの値段を書き換えたんです。それで店主に怒られてしまうんですね。商売は儲けるためだけにするもんじゃない。お客様の喜ぶ顔をみるためにやるもんだと」。この店で橋口は、文字通り朝から晩まで働き詰める。商売人の体力も身についていく。
一方、店主は、事業意欲も旺盛だったようだ。橋口が勤める10年間で5店舗を出店。しかも、当時としては画期的な店作りを行った。もともと山崎パンの販売店だったが、自前でパンを焼き、サンドウィッチを手作りするようになる。山崎パンにも掛け合い、工場まで出向いて、できるだけ作りたてを店頭に並べるように工夫した。そうすることで「売れ行きが違ってきた」と橋口は振り返る。業績も上がり、1日に70万円を売り上げたこともあるそうだ。
やがて、「出来立ての弁当屋」まで開店させている。ほっかほっか弁当がようやく出てきた頃だ。この先進性も橋口が学んだ点。ちなみに、橋口はこの時に、パン作りの修行もさせてもらっている。いまでも「サンドウィッチなら誰にも負けない」というぐらいの腕前は、このときの財産である。

「出来立て」をコンセプトに、パン屋、宅配ピザ、おむすび屋と業態を拡大する。

このようにして大学に行くよりも濃い勉強と、豊富な実践で得た経験をもとに橋口は、35歳でいよいよ独立開業する。当初の業態は、自家製のパン屋。ただ、設備投資がかさみ、資金集めに苦労したそうだ。オープンすると、その日から客が並び、焼けると同時に売れていった。このパン屋を5店舗まで拡大している。
しかし、心のどこかに疑問があった。「朝4時からパンを焼き始める。重労働ですよ。でも給与はそんなに渡してあげられない。それが葛藤の一つでした」と橋口は振り返る。同時に先進性という言葉が頭に浮かんだのではないか。
当時、宅配ピザが世に出始めた頃。橋口は、それに目をつけた。「最初は、外国人とかそういう人しか食べないと思っていたのに、どんどん売れていくんです。1枚3000円とかする奴がですよ。パン屋でしたから、生地には自信があった。よし、じゃぁそれをやってみようと」。幸い、仲間もFC店として参加してくれ、業績は順風満帆に伸びるかに思えた。しかし、旨い生地はつくれたが、パン屋とピザ屋は根本的に経営が違っていた。
「FC店があったから、辞めるわけにはいかなかったが、自分だけなら、すぐに辞めていたかもしれない」と橋口。なかなか思い通りにいかなかったようだ。
しかし、結局、橋口は、この事業も軌道に乗せ、惣菜屋やおむすび屋とつぎつぎに開店させていく。その根底にあるのは、「出来立て」というコンセプトだ。その後、饅頭店も開店するが、饅頭も店でふかし、出来立てを提供している。
そのうちの一つの、おむすび屋に行くと、「おばちゃん」たちが店頭でおむすびを握っている。サイズは大きめだ。具もたんまり入る。口に入れると海苔がパリッと音を立てる。ご飯粒が口のなかに広がる。出来立てはたしかに旨い。顔が自然とほころんだ。
効率的かどうかといえば、非効率かもしれない。しかし、これが、「商売人、橋口」の学んできたこと。「人間、橋口」の原点かもしれない。

思い出のアルバム
思い出のアルバム1 思い出のアルバム2
近影 若島津関(現松ヶ根親方)と
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