株式会社アールベイカー 代表取締役社長 廣谷光彦氏 | |
生年月日 | 1978年10月16日 |
プロフィール | 大学時代、栄養士になろうと決めて卒業後、2年間専門学校で栄養学を学ぶ。川崎重工業の子会社「川崎食品」に入社し、栄養士としてスタートする。26歳、独立するために会社を辞め修業を開始するが、6年後独立の思いはなくなり、偶然に出会った「商品開発」の四文字に惹かれ、イートアンドに転職。現在、イートアンドのパン事業でもある、株式会社アールベイカーの代表取締役社長を務めている。 |
主な業態 | 「R Baker」「Coccinelle」「YOUR OVEN」他 |
企業HP | https://r-baker.com/ |
福知山市に引っ越したのは、小学校に入る前。
「大阪の藤井寺出身です。4歳の時に福知山に来て、それから高校までこちらで暮らします」。
兄弟は2人。廣谷氏は次男。長男とは性格がちがうらしい。「兄はおっとりですが、私はせっかち。性格がちがったからではないですが、兄は野球で、私は剣道です」。
剣道は小学校からはじめたそうで、中学時には40数年ぶりに学校に優勝旗を持ち帰っている。
「高校は福知山高校に進みます。剣道は続けますが、中学の時と比べれば練習量も減って、いい成績は残せなかったですね」。
剣道も好きだが、プロセスも好き。格闘技好きというのが少年、廣谷氏の正体。
スポーツもできたが、頭も悪くない。進学校の福知山高校を選択したのは、そのためだろう。
「剣道だけでいえば、 福知山成美高校というのがあって、そちらは京都府でもトップクラス。中学時代の剣道仲間はそちらに進みましたし、私も勧誘されたんですが、学業を取って福知山高校に進みました」。
福知山成美に進んでいたら、どうなっていたでしょう?
「そうですね。剣道で福知山成美に進むと、国士館や日大に進学していたんじゃないでしょうか。ただ、私にはそういった思いもなかったですね。当時は、漠然とですが、ADになりたいと思っていました。芸能界に憧れていたんでしょうね」。
「大学は、四天王寺大学に進みました。福知山から離れ、独り暮らしを開始しました。大学は、私の出身である藤井寺のちかくにありました」。
「親元から離れたことで困ったのは食生活です。カップラーメンとか、食べちゃいますよね。もともとアトピーはあったんですが、いいかげんな食生活がたたったのか、大学2年くらいの時にひどくなって。原因は、一言、食生活の乱れです」。
たまたまだったそうだが、廣谷氏が3年生の時に父親が転勤で、大学の近くに来ることになり、そこで一緒に生活を始める。
「親といっしょに暮らすようになって、野菜をちゃんと食べるようになります。すると、アトピーがうそのように治ります。この実体験があったから、このあと栄養士をめざすようになるんです」。
つまり、アトピーの改善で、未来が決まっていったんですね?
「そうです。ただし、大学での専攻は社会学部で、栄養士とは無縁でした。なので、大学を卒業したあと、栄養士の専門学校に通い始めます」。
学生時代のアルバイトは?
「流通系のクレジットカードの案内のバイトです。時給が当時で1200円。専門学校の学費も、こちらのバイトでためたし、ヤマハの400CCのバイクも購入しました」。
晴れた日には400CCのバイクを駆ってツーリングを楽しんだそう。山道を通り抜ければ、和歌山まですぐ。和歌山にでれば、海岸線も近づいてくる。
「大学時代を一口にいうと、バイトと、あそび」。もちろん、アトピーと食事も、廣谷氏の大学時代のキーワード。
専門学校に進んだ廣谷氏は、熱心な生徒になる。「先生に、やるね、すごいね、と言われて、その気にさせられていたんでしょうね」。
講師がすごいといったのは、調理実習。
天性のものがあったんだろう。
「かなりいい評価をいただいたもんですから、この頃から将来独立もいいかな、と。とはいえ、就職先は、営利団体に興味なく、保育園などを志望していました。独立とは真逆で、ほのぼのとした生活をしたいと。おっとり系だった兄の色がでてきたのかもしれませんね笑」。
ただ、うまくいかない。
「保育園は、やはり女性が有利。それで、不合格が続きました。学校に相談し、それならと、給食会社を勧められます」。
いかがでしたか?
「こちらは、一発合格でした」。
廣谷氏が就職したのは、川崎重工業の子会社の川崎食品。
「川崎食品は、社食やお弁当をつくっていて、そこで栄養士として入社します。ただ、1年でグリーンハウスという会社に買収されてしまって、入社した翌年4月には上司が入れ替わります。関西弁が共通言語だったのに、その4月からは、標準語です笑」。
川崎食品からは残るかどうかの選択を迫られたらしいが、廣谷氏はグリーンハウスに籍を移し会社に残っている。
ちなみに、川崎食品時代は船員の食事づくりのため、船にも乗ったそう。「播磨灘を往復したり、1回乗船すると、3〜4日は船上の生活だった」という。
「船に乗ると手当がつくもんですから、新人なのに手取りで30万円あって、さすがに大手はちがうなと」。
「もちろん、グリーンハウスも悪い会社じゃありません。でも、これはどこの会社でもおなじだと思うんですが、なんだか先がみえなくなって。脱サラしてパン屋をしようと思い立ちます。これが26歳の時です」。
昔からいったんこうだと決めれば、行動ははやい。
「最初は、個人のパン屋さんで2年間、修業をさせてもらって。そのあと、中小企業のパン屋さんで4年ほど勤務します。前者の2年間は体がもたないと思いましたし、後者の4年間は、どうかな、とにかく役職をめざして。それでチーフになったんで、もういいかなと。その会社もそうですが、もうパン屋はいいかな、と」。
独立も封印ですか?
「結果、そうなりました。栄養士の頃を思い出して、商品開発の道へ進もうと思ったんです。その時、たまたま大阪王将のホームページをみて、王将の商品開発募集と書いてあって、それでイートアンドに応募したんです」。
すでに、32歳。
新たな決断は、どんな道につながっていくんだろうか。
「どうも話がちがって」と廣谷氏。
イートアンドへの道は、離れたはずのパンのもう一つの道だった。
「職務経歴書には、パンの製造って書きますよね。だから、だと思いますが、『パンの事業をしようと思っているんだよね』って話しかけられるんです。パンはもういいやと思っていたんですが、新事業でしたし悪くはないなと」。
商品というより事業の開発ですね?
「そうですね。サンマルクのFCはしていましたから、カフェのオペレーションの経験はあったんですが、『粉からつくる』となると初試み」。
イートアンド初のオーガニックレストラン「コシニール」ですね?
「そうです。コシニールは催事でもたいへんいい評判をいただきます。事業全体をプロデュースしていたのは、グローバルダイニング出身の私より2つ年下の方だったのですが、はじめてかなわんなぁと思った人でした。反論したくても先読みされて、結局、飲みこまざるをえないような笑」。
辞めようとはされなかったんですか?
「いえ、『もう今日辞めたろ』っていうのはしょっちゅう。スタートした頃なんてぜんぶゼロから。業者さんはどうする? え? 決まってない? 人は? いまから? マシンだってなにもない。もう、吐きそうな日々でした。でも、その時だけじゃありません。事業が大きくなっても、大変さは一緒です」。
だから、もう辞めたろ、ですか?
「そう。でもね、そんな時に限って文野社長がひょっこり現れるんです。あれはもう間違いなく動物的なカンですね。で、私の思いを知っているのか、『もうちょっとしたら工場、建てるからな』なんて言うわけです。そう言われたら、辞められへんでしょ。こっちも」。
たしかに。今もその繰り返しですか?
「もちろん、今は社長ですから、『辞めたろ』なんて簡単にはいえないですけどね笑」。
イートアンドのパン事業は、あるカフェをリニューアルして、廣谷氏曰く「バカスカ売れた」ことで火がつく。アールベイカーとなって、全国区に駆け上がる。
人生のターニングポイントを一つ挙げてもらうと、「栄養士になろうと思ったこと」だという。アトピーで食事の重要性を知ったことが今につながるということだ。
だからだろう。
「心とからだにおいしいパンを。」
これが、アールベイカーのぶれないコンセプトになっている。
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