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第943回 株式会社エムシス 代表取締役 瀧川真雄氏
update 23/07/11
株式会社エムシス
瀧川真雄氏
株式会社エムシス 代表取締役 瀧川真雄氏
生年月日 1979年7月4日
プロフィール 国士館大学卒。父親の影響で野球を始め、大学まで野球漬けの日々を送る。大学時代のアルバイトで知り合った店長に惹かれ、同時に飲食にも魅了される。大学卒業後は仙台にもどり修業を重ね、27歳で独立を果たす。
主な業態 「焼きとん大国」「元祖仙台ひとくち餃子 あずま」他
企業HP https://m-sysinc.jp/

野球と瀧川氏。

瀧川氏は1979年7月4日、岩手県盛岡市に生まれる。小学1年生の時に仙台に引っ越し、小学6年生の時には両親が自宅を購入したことで、ふたたび転校している。
本人曰く「どちらかというと優等生タイプで学級委員を務めるような少年だった」とのこと。父親の影響で野球を始め、中学では一番バッターとして活躍。実は、運動神経も群を抜いていた。
高校は「盛岡大学付属高校」。野球の名門校だ。瀧川氏は、特待生として、その野球部に入部している。
「野球も大変でしたが、寮生活がそれ以上でした。4人部屋で1年生は私1人。もちろん、使いっ走りです」。俗に言うパシリ。
同級生は20名。
「私らの代になるまで2年間、岩手県では負けたことがなかったんです。そのうえ、私らの代は最強とも言われていたんですが、実を言いますといちばん勝てなかった」。「大会の度に優勝旗を返す結果になった」と苦笑する。レフト、8番。最後の大会で、なんとか背番号7を奪い取った。
ところで、寮生活はその後、どうなったんだろう?
「2年になると、パシリの時代が終わります。私も先輩になるわけですが、後輩を顎で使うようなことはなかったからか、私の部屋には1年生が入り浸っていました」。
当時から人に好かれる性格だったんでしょうね?と問いかけると、「いや、舐められていたんじゃないかな」と一言。そういう風に言うところが瀧川氏らしくていい。

店長と瀧川氏。

「大学は国士館です。一般入試で受験し、体育学部に入ります。準硬式野球部に入り、野球は続けました」。
寮も卒業し、念願の独り暮らしですね。アルバイトは何をされていたんですか?
「100席はある、とんかつ居酒屋でキッチンをしていました」。
その時に出会った店長が瀧川氏の運命を動かす。2歳上の店長だった。
「お店は流行っていたと思います。キッチンは5〜6人で回していました。私は、夕方からですが、それでも週5〜6日出勤していましたから中心メンバーですよね。店長にもかわいがっていただいて。実は、その店長から『独立』というのを刷り込まれていたんです。サーフィンが好きな店長で、毎日、『海のちかくに出店して、サーフィン三昧の生活を送る』なんて楽しい話を聞かされていましたから笑」。
歳がちかかったからだろう。2人の距離はすぐになくなり、瀧川氏はみるみる、その店長に惹かれていった。
「結局4年間、アルバイトをさせていただきます。体育学部ということもあって、消防士をいったん志望するんですが、どうも身が入らない。ただ、飲食に抵抗があったのも事実です。でも、やはり店長の影響なんでしょうね。飲食だって思っちゃう笑」。
葛藤もあったが、だからと言って飲食以外の道を選択する気にもなれなかった。心が決まったのは4年時になって。
「グローバルダイニングのモンスーンカフェに出会って、もう心を動かされまくるんです。ちょうど4年生の夏だったと思います。店長に相談したら『いいじゃん』ということで、恵比寿のモンスーンカフェでもバイトを始めます」。

仙台へ。

盛岡から仙台、ふたたび盛岡、そして東京にでて、もう一度、仙台にもどる。案外、忙しい。
「モンスーンカフェは時給が自己申告制なんです。自信があったので、最初に『1200円!』って申告しちゃうんです。でも、全員会議で、みんなに散々に言われて笑。以来、900円で細々仕事をさせてもらっていました」。
だから、ではないが、結局飲食にも就職しなかった。
「これも店長の影響なんですが、サーフィンにもハマってしまって。じつは、仙台にはサーフィンにもってこいのスポットがあるんです。それで、仙台にもどって2年間だけ真剣にサーフィンをしようと思ったんです」。 むろん、働かないという選択肢はない。
「最初に働いたのは、若い社長が運営するレストランでした。こちらで3年。統括というポジションで、社長のちかくで仕事をさせてもらいました。そのあと、お世話になったのが、上場企業を経営されている社長が、サブビジネスだと思うんですが、オーナーのお店でした。社長とは歳も離れていましたが、直接、お会いすることも少なくなく、いろんなお話もさせていただきました。じつは、こちらでガールズ・バーを提案して、それがヒットするんです」。
ガールズ・バー。じつは、瀧川氏の創業事業もそれ。
「ヒットしたもんですから、これなら独立して大儲けだ、と。社長にお話ししたところ、『じゃぁ、今の店舗も委託で運営してくれ』となって」。
仁義を通すため、瀧川氏は、仙台ではなく、盛岡で出店することを想定していた。「だから、仙台で2店舗、盛岡でもう1店舗という、なかなかハードルの高い独立を果たします。でも、ガールズ・バーというのがよかったんでしょうね。仙台からも遠隔コントロールができましたから」。
儲かりましたか? そういうと、瀧川氏はこっくりと頷く。自身の年収は1000万円を軽くオーバーしたそうだ。

焼きとん大国と。

業績は悪くなかったが、瀧川氏自身が経営者となる準備は整っていなかったのかもしれない。コンセプトも、ビジョンも、理念もまだない。
「整骨院のフランチャイズを開始したのは、野球部時代、私もたくさんお世話になりましたし、儲かると思ったからです。ガールズ・バーがなんとなくうまくいって。今思うと経営者としての、知識も経験もたりなかったんでしょうね。実際、苦労もしています。どうしても、やりくりできず、スタッフに迷惑をかけた時もあったし、納税ができなかった時もありました」。
うまくいかない。どん底。そんな時に、東日本大震災が起こる。
「じつは、大国を始めたのは、それ以前で、付き合いのある方からの紹介で大国の本部の社長と知り合い、その社長の講演を東京へ聞きに行って、感銘を受け大国のFCに加盟します。これで、長いトンネルを抜けられると思ってスタートするんですが」。
いかがでした?
「当時、仙台ではまだ、焼きとんっていう文化がなかったんです。『なんだ!?やきとりじゃないのか』って笑」。
なかなか計画通りにいかなかったわけですね?
「計画通りというか、300万円の目標に対し、180万円ですからね。目算違いもいいところです笑」。
起死回生のつもりが、洒落にもならない結果になった。どうしてもやりくりができなかったのは、この頃。
「その時に震災です。『もうだめだ』と正直、そう思いました。幸い、家族も、従業員も無事だったので、それでよかったと思わないといけないと。ところが、」。

復興バブルと、それから。

ところが、どうしたんですか?
「復興事業で、仙台以外から次々人が集まってくるんです。もちろん、うちだけじゃないですが、いきなりうちも、大繁盛です」。
復興バブル。連日、連夜、客が押し寄せ、みるみる業績がアップしていったらしい。
「ガールズ・バーも、接骨院も手放し、大国1本でやろうとしていましたから、そういう意味では、いい時に、大逆転のきっかけをつかんだと言えるかもしれません」。
「やるしかない」「これしかない」ということだろうか。
「私がちゃんと現場に立ってできる仕事じゃないとだめだと思ったんです」。
覚悟と同時に、経営者として凄みが増す。
「大逆転劇とまではいいませんが、仙台駅西口にオープンできたのは大きかったですね。懇意にしていただいていた不動産会社さんから、情報をいただいて、いますぐならと言われ、二つ返事で契約させていただきました」。
それが、「大国 仙台駅西口店」ですね?
「そうです。こちらが想像以上にヒットしまして、数百万円の利益を生む店になります。私にとっても基盤と自信を生むことができた店舗です」。
その店がターニングポイントとなり、すべてが好転しはじめたという。
現在、瀧川氏は「焼きとん 大国」を9店舗、「元祖仙台ひとくち餃子 あずま」を3店舗、「水原製麺」を1店舗経営している。
東京へは進出しないんですか?と質問すると、「ない」と、即答。
「私たちのビジョンは、東北を元気にすることなんです」。だから、まずは、東北に集中するということか。
実はインタビューの冒頭、「野球をやっていたんで、今も丸坊主」と頭をかき、初めて出会ったこちらの緊張をやわらげてくれる。この細やかな気配りが、瀧川という人の真骨頂かもしれない。
ホームページを開くと<一番の売り物は「笑顔」 お持ち帰りいただくのは「元気」>の二行の文字が飛び込んでくる。<お持ち帰りいただくのは「元気」>。この一行が、何より瀧川氏の思いが込められているような気がして、そこが、素晴らしい。

思い出のアルバム
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5歳の七五三 高校時代(野球部の寮にて) 独立後の現場勤務
 

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