株式会社BAKA SOUL 代表取締役 山田能正氏 | |
生年月日 | 1978年6月4日 |
プロフィール | 中学・高校とハンドボールの選手として注目される。大学には進学せず就職。大手メーカーを皮切りに転職を繰り返し、20代半ばで独立を志向するようになる。その時出会ったのがローカルダイニングの代表取締役 榊原浩二氏。2009年、31歳で独立。同学年だが、榊原氏をリスペクトし、今も背中を追いかけている。2023年現在、タイ料理と肉料理の店、モツとジンギスカンを融合させた「モツギスカン」をリリースしている。 |
主な業態 | 「BAKASOUL Asia」「モツギスカン」 |
企業HP | https://ac5gccvkb.jbplt.jp/ |
食事の時は脇をしめる。背筋はまっすぐと。定規で角度を正された。今回、ご登場いただいた株式会社BAKA SOULの代表取締役、山田 能正氏が小さい頃の、山田家の食事風景である。
「父親は教育委員会に勤める厳格な性格で、就寝時間は9時頃、朝は6時頃には起床と決まっていました」。
「何かにつけ、自由が少なかった」と笑う。高学年になると、自由に溢れた外の世界に興味を持つようになる。
「とにかく、学校が終わっても家には帰らず外で過ごしていました」。
何をされていたんですか?
「外でドッジボールばかりです(笑)」。
親戚が買ってくれるまでゲーム機もなかったし、ギターなど楽器もダメ。外で友達とボールを投げ合うしかなかった。ただし、練習にはなっていたかも知れない。
「たしかに、そうですね。中学に進んでハンドボールを始めるんですが、1年生から試合に出してもらいました。ただ正義感が強く、曲がったことが府に落とせない性格でした。この部活も、活動スタイルが変わり、実は2年生の時に辞めていました」。
それでも、当時ハンドボールが強かった横浜商科大学高等学校にスポーツ推薦で入学している。本人曰く「親と担任との間で勝手に決まっていた」とのこと。冒頭の食事の話と異なるが根っこは同じ。こうあるべきだという敷かれたレールの上を歩き生きてきた。
一つの反発なのだろうか。ハンドボールのスポーツ推薦入学をした山田氏は、軽音部に入部する。
「ただ、入学から2ヵ月くらい経った頃に顧問に呼び出されて、渋々、練習に参加します。最初は掛け持ちだったんですが、最終的には軽音部を辞め、ハンドボール1本に絞ります」。
中学時代のポジションはゴールキーパー。
「ボールが当たると無茶苦茶痛いんです。だから、やりたくない(笑)」。
それで2ヵ月、顔を出さなかったわけですね?
「そうなんです。でも、顧問に呼び出されて。推薦で進学しているわけですし。仕方なく部活に行くと、テストと称したPK試合を申し込んでくるんですね」。
PK試合?
「私がゴールキーパーです。相手は当時の2年生のエース」。
3年も含め、みんなが見ている中での勝負だったそう。
結果は?
「素直に負けときゃよかったんです。でも、試合だと思ったら、燃えちゃって勝っちゃったんです」。
ブランク明けのキーパーが、エースに勝つ。
「その結果、軽音部との二足の草鞋が許されるんですが、やっぱりハンドボールが好きなんでしょうね。やり始めると軸足がすっかりハンドボールに傾いて、軽音部を辞めます。顧問の先生が理解のある方だったので、キーパーじゃないポジションで使ってくれたこともあって(笑)」。
3年生ではエースのポジションに抜擢される。スポーツ推薦なら内部進学だけではなく有名な大学への道もあったかもしれないが、がさっさと就職に駒を進めた。
「中学のことがあったんで、親がでてくる前に決めちゃおうと(笑)。とにかく、自立したい、そればかりでした。就職すれば経済的にも自立できますから」。
担任と相談し、進んだのは横浜の「住友電工」。いうまでもなくトップクラスの企業である。
「住友電工にいたのは1年くらい。住友電工を辞めて整備士として『ヤナセ』に転職します。杉並区の営業所に配属されて。実はこちらも1年ほどです。そこからCAD設計や佐川急便やリサイクル事業など、個人事業主を含め合計7社くらい転々とします。長いところでは3年、1年ちょっとのところが大半ですね(笑)」。
辞めるという話を聞くと、次々と次の話が舞い込んだ。「じゃあ、次はウチでどうだ?」と。
ただ、誘われるままに転々としていたわけでもない。
「20代半ばの頃ですね。転々としてきたし、性格的に就職より独立がいいんじゃないかなと思いはじめて。それからですね。独立を目指して佐川急便とか、営業とか、そういう給料がいい仕事をはじめ、貯金を開始しました」。
飲食で独立と思ったのは?
「変な性格ですが、社交性はあったんですね。お酒も大好きだったし。今うちの会社には、出資者の一人でもある榊原さんっていう『ローカルダイニング』の社長さんが役員で入ってくださっているんですが、彼が当時、私が住んでいた溝の口で『えんがわ』っていう店をオープンするんです。お店で頑張っている榊原さんを見ていると応援したかったし、同い年ってことも知って。『えんがわ』の常連になり、飲食にもより惹かれていったんだと思います」。
修業はゼロ。経験してきたのは、畑違いの仕事ばかり。
「2009年に武蔵新城で焼き鳥をはじめます。榊原さんからはまだ早いってアドバイスされたんですが。始めちゃいました(笑)。小さな頃から鍵っ子だったこともあって、自分で何もかもしていたんです。お料理では冷蔵庫から食材を引っ張り出して。幼少期からそういう体験をしていますから、なんでもできるって。正直、自信しかなかったですね」。
家賃10万円。24席。順調に滑りだす。
「初月は130万円、それがだんだんとアップし、200万円くらいまでいきました。7社も転々としていますが、そのたびに知人が増えていたんですね。知り合った彼、彼女らも来てくれて。ラッキーですよね。17時〜24時まで。F/Lコストも何にも知らない若造が、そう儲かったわけではありませんが、なんとか食べていくことができました」。
ただ、飲食の世界は、そう簡単な世界ではない。
「榊原さんとは交友が続いていたんですが、相談するようになったのは2016年からでしょうか。当時、2店鋪を運営していました。色々と相談させていただいて榊原さんに資本を入れてもらいます」。
2017年には、ローカルダイニングが渋谷に出店した店舗のオペレーションを委託されている。もっとも、最初からわかっていたことらしいが、結果が出せなかったという。
うまくいったり、いかなかったり。
現在は、何店舗ですか?
「タイ料理と、焼肉店と、モツギスカンです。モツギスカンはモツ×ジンギスカンの新スタイルのブランドです」。
社員は現在5人。コロナが明けた今、社員の育成にも本格的に取り組んでいきたいという。
「榊原さんには感謝しかないですし、尊敬しています。私を広い世界に連れて行ってくれたのは、間違いなく榊原さんですからね」。
同学年。プライベートではタメ口だが、仕事になると言葉が改まる。
「アドバイス一つ、スマートなんですね。色々な選択肢や情報を広げてくれます。常に尊敬する存在ですね」。
常に自身の道を模索し続け、ベターを更新しようとする。進もうとする。
「まだ、この道のずっと先に世の中の強き飲食人、榊原さん達はいます。その背中を追いかけながら、私自身、周りにいる友達や社員のお手本になっていきたいですね」。
友達は少なくない。時にそれが負担になったこともあるが、誰も山田氏を放っておかない。榊原氏もその一人。ハンドボールの時もそうだったが、山田氏のプレーはその生き様を含め、今も人を惹きつける。
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