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第95回 有限会社一滴八銭屋 代表取締役 大薮由一郎氏
update 10/01/19
有限会社一滴八銭屋
大薮由一郎氏
有限会社一滴八銭屋 代表取締役 大薮由一郎氏
生年月日 1968年、愛媛県四国中央市生まれ。
プロフィール 四人兄弟の長男。実家は祖父の時代から酒屋を営み、父が「うどん屋」を始め、後にはバッティングセンターまで手広く経営することになる。高校卒業後、早稲田大学に進学。大学在学中にアメリカからヨーロッパ、アジアを巡る一人旅を決行。その後、建築関係の会社に入社。1998年、30歳の時、兄弟と共に会社を設立。翌1999年1月、『一滴八銭屋』新宿本店、オープン。
主な業態 「一滴八銭屋」「滴屋」「段々屋」
企業HP http://www.itteki.com/
関西人が関東に行くと、食文化の違いに驚くことがある。「蕎麦」と「うどん」の違いもその一つだ。関東では「うどん」は脇役。関西人は、これに違和感を感じてしまう。関西人で、そうなのだから、「うどんのメッカ」四国の出身者となれば、なおさらだろう。
今回、登場いただく有限会社一滴八銭屋、代表取締役大薮 由一郎は、そんな関東の「うどん文化」に一石を投じた一人である。「一滴八銭屋」の「うどん」を食べて、はじめて「うどん」がメイン料理になると思い知った関東人も多いのではないか。めざすのは、湯気の向こうに幸福が満ちること。「粋」が「蕎麦」を象徴する言葉なら、「活力」が「うどん」を象徴する言葉であってもいい。

目の前に瀬戸内海が広がる小さな町で、海と山に囲まれ育つ。

大薮は1968年、愛媛県四国中央市に生まれる。玄関を出ると前は海で、毎朝、船が通る音で目覚めたという。振り返ると山があった。この自然に囲まれた町が、生まれ故郷だ。兄弟は4人。大薮を筆頭に女、女、男と続いた。父はNTTからの脱サラ組み。妻の実家の家業を手伝いながら、その後、うどん屋やバッティングセンターの経営を手広く行った。「父はベンチャー精神が旺盛な人だった」と大薮。忙しい両親に代わって、同居する祖父母が子ども達を育ててくれたという。
「引っ込み思案で、大人しいタイプ」と、大薮は子どもの頃を振り返る。妹の面倒も良くみたほうだ。寡黙な少年に転機が訪れたのは、小学2年生のとき。担任の先生が無理やり、学級委員長に指名してしまったのである。はじめて人前でしゃべる機会を与えられ、人の目に対するアレルギーが徐々になくなっていく。中学で生徒会長をやったのも、このときがあったから。

男なら弱音を吐くな、と父から諭された少年は、やがて大都会「東京」に憧れる。

中・高時代。当時、父から言われたことを覚えている。部活に疲れて返ってきたときだ。「弱音を吐いていたんでしょうね」。父は、「男なのだから、痛いとか、しんどいとかいうな!」と。「ほかに父から言われたことは、記憶としてあんまり残っていないんですが、この言葉だけは強烈に心に残っています。でも、日頃から将来、男は独立するべきだと吹聴されていたのかもしれませんね」。
高校卒業と同時に、東京に出る。「田舎者でしたから大都会の東京が憧れだったんです。大学に合格し、東京で暮らしはじめた頃は、いつも街をブラついていました。車窓から東京を見て、うれし泣きをしたこともあるんです。それぐらい東京に憧れていました」。この大学生活で、大薮は再度、転機を迎える。
大薮は、入学早々、「世界旅行研究会」というサークルに入った。飲んで語るだけのサークルだったが、ここで初めて議論すること、理論的に物事を組み立てることを覚えていく。だが、転機はそのことではない。実は、このサークルで出会った先輩に刺激され、大薮は世界を巡る旅に出ることを思い立つ。アルバイトで必死になって貯めたお金と、片道チケットだけを持ってサンフランシスコに旅立った。

世界一周の、貧乏旅行。心の豊かさの差に、打ちのめされる。

最初から貧乏旅行がテーマである。バックパッカーがもてはやされた時代。沢木耕太郎氏の「深夜特急」が若者たちのバイブルにもなった頃だ。大薮は観光ではなく、「旅」にこだわった。サンフランシスコからメキシコに入る。言葉がまったく通じず、セントルイスへ。市民たちが乗るバスで移動する。ニューヨークからジャマイカ共和国へ。その後、イギリスから東欧、南に下り、イランへ。そこから方向を東にとり、「深夜特急」とは逆の道を辿って、日本に帰国する。
この旅で大薮が手にしたことは少なくない。一人旅ゆえの不安を抱えつつ、危険と隣り合わせになりながらも、その危険を察知し、潜り抜ける勘と交渉能力を養った。世界をぐるりと一周したことで、達成感と同時に自信も修得したはずだ。
一方、人間の深みも増したのではないか。「アジアでは、たぶん自分よりも貧しい人が、お金がないというぼくを泊めてくれ、貴重な食べ物を食べさせてくれたんです」。人の温かさを感じながら、それを甘受してしまう自分という人間に、大薮は、苦悶する。人種や貧富の差ではなく、人としての「心の豊かさの違い」「生き方の違い」を感じたからではないだろうか。

弟の一言に、奮い立ち、30歳で独立。「うどん専門店」は、ネットで評判になる。

1年の海外放浪の後、帰国した大薮は、内装の大手企業に入社する。建築設計に興味を持っていたからだ。いずれ「独立」と考えていた。だが、仕事がたのしくなり「独立」そのものが遠ざかりかけていた。大薮、30歳。年の離れた弟が、大学を卒業した年だ。いったん就職を決めた弟だったが、兄である大薮に向かい、「兄貴、俺は就職を蹴る。一緒にやろうぜ」と迫った。弟が大学で東京に出てきてから何度となく、一緒に独立しようと語っていたからだ。これが、大薮の決意を促す。妹と結婚した義理の弟である油野氏(現、専務取締役)を交え、3人の共同出資で、飲食業を立ち上げる。立ち上げたのは、父同様、「うどん屋」だった。
新宿に一号店を立ち上げたのは1999年。立ち上げ後、借りた店舗が競売に掛けられていたことが判明するなど苦労をしつつ、徐々に売上を伸ばす。叩かれても、めげない。コシの強さが、大薮の武器だ。「オープン当初は、『うどん専門店』と書いているのに、まだ蕎麦はないか、と尋ねられた」。それがネット上で評判になる。「東京に本格的な讃岐うどん店が出来た」と。「いままで東京に讃岐うどん店は、ほとんどなかったし、これだけコシが強いうどんもなかった」と、ネットに書きこんでくれた人がいて、火が着いた。

「UDON」ブームがやってきた。そのときにはもう、次のことを考えている。

やがて讃岐うどんのブームが訪れ、2006年には映画「UDON」が公開された。月商は拡大し、現在の、創作うどん居酒屋「一滴八銭屋」新宿本店に加え、「一滴八銭屋」恵比寿店、おまかせ料理「滴屋」(田町)、串天ぷら「段々屋」、4店舗を経営するに至る。誰もやらないことをやる。それが大薮の一つの羅針盤。関東に、「うどん文化」を根付かせたいま、次は何に取り組むのか。20年前、海外で見た風景と、多くの人たちとの出会いが、まだない何かを見つけるきっかけになるかもしれない。

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