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第951回 オタギラカンパニー株式会社 代表取締役 沼田慎一郎氏
update 23/09/12
オタギラカンパニー株式会社
沼田慎一郎氏
オタギラカンパニー株式会社 代表取締役 沼田慎一郎氏
生年月日 1970年5月5日
プロフィール 高等専門学校卒。大手ゼネコンに就職。27歳の時、父が脱サラで始めた喫茶店の業績を回復させるため入店。赤字続きのショップをどう黒字化するか、模索がスタートする。現在も師と仰ぐ、日本再生酒場などを経営する「い志井」グループの石井宏治会長との出会いで、視界が広がる。2023年現在、もつ煮込み専門店をはじめ 8ブランドを展開している。
主な業態 「珈琲新鮮館」「もつ煮込み専門店沼田」「ANCHOR GROUND」他
企業HP https://coffee-shinsenkan.com/

夜の世界に憧れた高校生。

沼田氏は1970年5月5日、横浜鶴見に生まれている。父親は旭硝子の研究員、母親は専業主婦、2つ下に弟が1名。弟は、現在、大手金融会社で役員を務められているそうだ。
大手企業の宿命だろうか。父親は転勤族で、沼田兄弟も小学校で3校、中学校で2校。中学では横浜から遠く離れた兵庫県の高砂市に異動。沼田氏も、そのまま神戸高専に進学し、同校を卒業している。
小さな頃は体が大きかったという沼田氏。小学校でサッカーをはじめ、中学でもつづけるつもりだったが、中1の3学期、高砂市に引っ越すとサッカー部がなかった。
第二次ベビーブームの世代ではないが、横浜の中学で13クラス、高砂でも6クラスあったそうだから、生徒数は今と比較すれば格段に多い。
「高専に進んだのは、大学受験もないし、楽しそうだと思って。私服だったのも進学理由の一つなんですが、毎日、何を着ていくかを迷ってたいへんでした笑」。
高専に進み、半年間はサッカー部にいたが、黄色い声援がないとわかり退部する。
「あの頃はなんででしょう。夜の世界に憧れていました。バイトも色々、経験します。高校2年から飲食でバイトをはじめ、3年でバーなど、夜のバイトを始めます」。
バイト代はディスコ代に消えたと、笑う。
「転機の一つは、あるバーでバイトをしている時にオーナーから声をかけてもらって、バーを一軒任されたことですね。私が19歳の時です」。
面白かったに決まっている。
「アメリカンなバーボンハウスです。最高に面白かったですね。その反動で、学校には1年間行ってなかったです笑」。
バブルの時代とはいえ、19歳でバーのマスター。
「一度、業績を落としちゃった時があって。なんでだろうって冷静にみると、私のともだち専用になっていたんですね。19歳なんてお金も使わないでしょ。すぐさま、ともだちの出入りを禁じて笑。業績は、すぐに回復します。笑い話になるような小さなことですが、私にとっては今も大事にしている教訓だし、飲食ではたらく本当の楽しみを体験できた気がするんですね」。
時代はバブル真っ盛り。夜が昼より明るかった時代である。

倒れかけている喫茶店にあった未来の種。

「高専に1年長くいて、21歳で卒業。ゼネコンに就職します。当時は、22歳の、キャリア1年目の若造の年収が600万円です。張り切って、車を2台持ちです笑。代わりに休みはありません。全員がサラリーマン戦士だった時代ですね。土曜は仕事でしたし、日曜は接待ゴルフ笑」。
深夜まで上司に付き合い、翌朝は8時出社。若くなければ、きつい。
「その頃ですね。父親が脱サラして相模原で喫茶店を始めます。小さな喫茶店です。私が27歳の時、両親から連絡があって、『このままで、店も、家もたちいかなくなる』って。その当時、結婚したばかりでしたし、私は兵庫だったので、ふつうに考えたらどうしようもできないんですが、バーでの経験もあったので、オレならなんとかできると思ってしまうんですね」。
安請け合いだったと沼田氏は笑う。
「うまくいくわけがない笑。ふつうの喫茶店です。ただ、一つだけ、ほかと違う未来の種があったんです」。
それがコーヒー豆ですか?
「そうなんです。父は、研究員だったからでしょうね。父がつくる、こだわりの豆は群を抜いておいしかったんです」。
沼田氏は、タウンページに載っている店を片っ端から訪問する。営業は数だという信念があったそう。
それが、逆転劇の始まりですか?
「いえ、それ以上に、この時、豆のおかげで、い志井グループの石井宏治会長にお会いできたことですね。実は、石井会長相手にプレゼンして、うちの豆を採用していただいたんです」。
お父さんのおかげでもありますね?
「そうですね。ただ、職人気質ですからね。ある時、ある喫茶店からいつもと味がちがうってクレームが入ったんです。その電話を親父がとっちゃって。案の定『そんなはずはない。頼んで取ってもらっているわけじゃない』って笑」。
この一言は、もと研究職だからの一言だったに違いない。「オレのレシピがブレるわけがない」という。

もつ煮込み専門店沼田。

「石井会長のちかくで仕事をさせていただくようになって。会長がしておられた日本再生酒場に惹かれていくんです。それである時、思い切って会長に、『私もやってみたい』と申し上げるんですね」。
大歓迎だったでしょうね?
「いえ、それがちがうんです。やり方を教えてやるから、自分の名前でやれっておっしゃって。今思えば、いかにも会長らしい、ありがたい一言ですね」。
それが『もつ煮込み専門店沼田』の始まり?
「そうです。コーヒー屋が始めた居酒屋です」。
「もつ煮込み専門店沼田」をググってみた。
グルメサイトで高得点がついている。<超人気で、予約をしないと入れない>との口コミがあった。外見は、いかにも昭和な感じ。手書き風のメニューもいい。名前入りの小鉢に入ったもつ煮込みの旨そうなこと。
「こちらの1号店は、新宿三丁目です。私たちのホームグランドは神奈川ですが、やはり新宿で名が知れないと、TVや雑誌にも取り上げてもらえないから」と沼田氏はいう。
相模原の小さなコーヒーショップが、新宿に進出。まるでカテゴリーが異なる「もつ煮込み専門店」をオープンし、客の心を鷲掴みにしていく。

2010年の大ピンチ。

沼田氏にいちばん苦労したのはいつですか?と聞いてみた。
「喫茶店の時ですね。1日15時間はたらいて、サラリーマンだった頃の給料とは比較するべくもない笑。どれだけ頑張ってもキャッシュフローがマイナスで、抜け出せない。黒字化するのに、3年かかりました。もう一つは、2010年かな。いろんな業態を5店鋪くらい出店していたんですが、4、5店鋪目がうまくいかなくて」。
「敗因の一つは商業施設に出店したこと。もう一つは赤坂なのに新宿のつもりでオープンしたことですね」。
商業施設では業態がマッチしなかったという。赤坂は、土日祝に人がいなくなることを想像していなかったということだ。
2010年といえば?
「私が40歳の時ですね。プライベートでも色々とあって。金銭的にも、精神的にも追い詰められていました」。
毎月、赤字。
「背水の陣っていう奴ですね。これで、負けたら終わりという」。
勝算があったわけではなかった。ただ、退けないなら打ってでるしかない。

倒れて気づいた真実。

「毎月150万円の赤字だった商業施設にオープンした『焼売店』を、『肉丼』に業態変更します」。
それが功を奏して、360万円だった月商が800万円に浮上する。
「一方、赤坂の店では水漏れがあって、金銭的な負担がなく撤退することができました。水漏れの時の保証金も出て、実は、借入も合わせて、創業のコーヒーショップを、1キロ離れたところで郊外型カフェとしてリニューアルオープンしたんです」。
その結果、100万円の月商が500万円になったという。
「倒れたのは、その時」と、沼田氏。
「灯りがみえて。安堵したんでしょうね。急にちからが抜けて」。
沼田氏の奮闘を知っているスタッフたちが駆けつける。
「あの時、はっきりと間違いに気づきました。私は、何もかも1人で背負って、1人で奮闘してきたつもりだったんです。でも、彼、彼女らの顔をみて、気づきます。ぜんぶ間違っていたんだと。私の周りには、こんなにも仲間がいたんだと」。
現在、沼田氏は様々な業態を展開している。コロナ禍の下でもスパイスカレーショップを四谷にオープンしている。スリランカ人のスタッフ作。すでにフランチャイズ含め3店舗がオープンしている。
沼田氏は、人件費という言葉がキライだという。いかにも、沼田氏らしい一言だ。
「人は費用じゃないですからね」。
その言葉も印象的。現在、正社員30名アルバイトスタッフ100名。全員が戦友。
中でも副社長と奥様は、背水の陣の時に、先頭を駆けてくれた、大事な戦友だ。

思い出のアルバム
 

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