株式会社龍ノ巣ホールディングス 代表取締役 畑 博貴氏 | |
生年月日 | 1971年9月26日 |
プロフィール | 専門学校卒。大手国産カーディーラーに整備士として就職する。椎間板ヘルニアを患い退職。23歳で初めて飲食の仕事を体験し、魅了される。様々な業態を経験し、27歳で独立。一杯のうどんとの出会いで、飲食の道が広がる。自叙伝「かすうどん男」も上梓している。 |
主な業態 | 「焼肉ホルモン 龍の巣」 |
企業HP | https://www.ryu-h.jp/ |
骨折回数47回。
「何か特別なちからがはたらいているんですよね。怪我をするたびに人生が軌道修正されるんです」。
アメリカに渡ろうとした時もそうだった。
「アルバイトでお金を貯めて、いざ、行くぞって時にモトクロスで事故を起こしてしまいます。大きな事故で貯めていたお金が入院代でなくなります。でも、そのおかげで飲食の道が開けます」。
愉快で、楽しい話ばかりではなかったにも関わらず、話はマイナス方向に進まない。ちなみに、モトクロスの話の続きではないが、中学時代から車に乗っている。
「でもね、ヤンキーとかそういうんじゃなくてね。純粋に車が好きだったんです」。
今回、ご登場いただいた龍ノ巣ホールディングス、代表取締役、畑氏は1971年生まれ。父親は大阪の鶴見区で祖父から受け継いだ工場を経営していた。
「照明器具をつくっていました。私も小さい頃から姉といっしょに手伝いをしていました」。
シャンデリアの筒にコードを通すような仕事。
「父はギャンブルが好きな人でしたが、仕事は真面目で、そこは尊敬していました」。
ものをつくる父親の背中は、畑氏に何を語っていたのだろう。
「父もそうですが、やはり母の言葉が今の私をつくっているような気がします」。
ギャンブル好きな父親が、仏壇に宝くじを供えたことがある。
「母は常々、『人の役に立つ仕事をしなさい』と言っていました。『お給料は役に立ったかどうかのバロメーターなんだ』とも。この時も、そういう話をして『宝くじが当たってお金持ちになっても、ろくなことにはならない』と、そう言いながらビリビリにしていくんです」。
母の覚悟は、子どもに届く。
「厳格な一面がある一方で、母はバイクに乗ること、ジーパンを履くこと、ビートルズを聴くことという3ヵ条を私に言い渡します」。
そして、畑少年は母親が思い描く青年になっていく。
「背泳ぎの選手でした。子どもの頃から続け、中学時代には全国で4位になっています。高校でも1年からインターハイに出場していました。オリンピックにも手が届く位置にいましたが、体育祭で怪我をしてしまいます。リハビリを重ね、その後も大会に出場しましたが、思ったようなタイムがでませんでした」。
柔道も、剣道も習ったが、続けたのは水泳のみ。
「オリンピックは当然諦めないといけません。高校を出て1年間は建築関係の日雇いのアルバイトに明け暮れます。好きだった車に関わる仕事をしようとアルバイトでお金を貯め、2年制の整備士専門学校に進みました」。
国産カーディーラーに就職する。
「国家資格もなかなかいい成績で取得できましたし、薄給でしたが仕事も順調で、この頃は人生を謳歌していました。ただ、今度は椎間板ヘルニアで仕事を続けられなくなります。就職して2年後のことです」。
何をやればいいかわからなくなった畑氏はアメリカ行きを決断する。バイクでアメリカ横断することが畑氏の思い描いた絵だったが、「今思えば、現実逃避です」と、この時の心境を自叙伝『かすうどん男』で語っている。
ただ、冒頭で書いた通り、事故で行けなくなる。
「今回も、怪我で急ブレーキがかかったわけです」。
飲食との出会いも『かすうどん男』で詳細に描かれている。友達に頼まれ、深く考えることなく飲食の仕事を引き受けることになる。「焼きそばを焼いていればいい」という話だったが、初めてのオーダーはとんぺい焼き。むろん、経験ゼロ。足がガタガタ音を立てていたそうだ。
「自信が全然なかったので、アカンかったら、練習したお好み焼きだして勘弁してもらうつもりだったんですが」。
2人組の客は、鉄板の向こうで「旨い」と唸ったらしい。
「たぶんお世辞。それでも、嬉しかったですね」。
安堵しただけではない。「旨かったな」という2人をみて、心臓が鼓動し、自然と頭が下がる。
「ありがとうございます…!」
畑氏の声が響く。
「こちらは、アメリカに行くまでの臨時店員の時の話。短い時間でしたが、お客様とのふれあいも含め、飲食に惹かれます。結局、オートバイの事故でアメリカ横断は断念しますが、これも『飲食に進め』というお告げだと。そう思うと、断念することの辛さより、わくわく感が大きくなるから人間って不思議ですね」。
「かすうどん男」では、この時の心境を「病院のベットで料理本を読み漁っていた」とうまく表現している。
「飲食に進むと決意してからは、和・洋・中、いろんなところで修業をさせていただきます。あるラーメン店では『人を動かすこと』を知ります。その時読んだカーネギーの『人を動かす』や『道は開ける』は今でも私のバイブルです。また、エンターテイメント性のある居酒屋では、接客と経営を勉強させてもらいました。今、私たちが実践している接客の基礎となっています」。
畑氏が独立するのは1998年だから、27歳のこと。
「カーディラーを辞めたことも、アメリカ行きを断念したことも、どちらも構想外ですが、それがあったおかげで人生の深みを知ることができたように思います」。
さて、27歳。畑氏は「串かつ店」をオープンする。
ブレイクするきっかけとなった「かすうどん」の店は、2001年にオープンしている。
「かすうどん」とは、油かすをトッピングしたうどんの名称。「かすうどん男」で、かすうどんを初めて食べた時のことを「なんやこれ……!めちゃくちゃうまい……!」と雷に打たれたようだったと語っている。
かすうどんは、大阪名物の一つ。油かすは牛の腸をカリカリに炒め、食用の油を抽出した、文字通り残り油の「かす」であるが、これが旨い。コラーゲンも含まれているから実は女性にも大人気。
予想もしていなかった一杯のうどんとの出会いで、人生が変わる。
この「かすうどん」の店は、いい業者との出会いにも繋がった。その業者が鮮度のいいホルモンを卸してくれることになり、いよいよ「焼肉ホルモン龍ノ巣」がオープンすることになる。これが、2005年のことである。
「焼肉ホルモン龍ノ巣」は、たどりつくべき一つのゴールだったのかもしれない。『かすうどん男』では「正体不明の何かによって、かすうどんを広め、おいしいホルモン焼きのお店を出す道に誘導されてきた気がします」と表現している。
すべてを肯定する。人間的な奥行きが、今の畑氏をつくっている。スタッフがついて行こうと思う理由かもしれない。現在、龍ノ巣ホールディングスは、大阪・福岡・東京に10店舗出店。コロナ禍も明け、業績は好調だ。
もちろん、失敗談もある。人生初の赤字店となったカフェの話もその一つ。『かすうどん男』には、それ以外にもいくつものエピソードが掲載されている。
その一つ一つをご紹介したいが、続きは『かすうどん男』に委ねるとしよう。
ところで、カーネギーは「非難は愚者でもできる、理解は賢者しかできない」と言っている。出会った人やモノやコトを、非難・排除するのではなく、咀嚼・理解してきた、それが畑氏の人生ではなかったか。
それが正しければ、畑氏は、間違いなく賢者である。
最後に目標をお伺いすると、目標を決めると、それに縛られるから敢えて経営計画はつくっていないという。ただし、どうありたいかは明確だった。
「街を照らすことが、龍ノ巣の仕事です。アマテラスにちなみ、街を照らす『マチテラス』でありたいですね」。
「マチテラス」、いい響きだ。
「もうすぐ、徳之島でフェスをするんです。実は数年前、知り合いに声をかけられ、島に行ったのが始まり。やはり、過疎化が進んでいて。知り合いも牛舎をやっているんですが、家族3人で60頭を飼育しています。人手がないからだそうです。若者は島を出ようとしますが出るすべもない。この子らをなんとかしてやることができたらと。その一つが今回のフェスです」。
単なる思いつきではない。島には、月イチのペースで通っている。
「島中から店も集めて、もちろん私たちも出店して、エキサイティングな仕事を島の若者に見せてやろうと張り切っています。そして、仕事って『こんなにおもろいねんで』っていうことを伝えたいですね」。
こちらは、マチテラスではなく、シマテラスか。
島の音楽好きの若者が集まって、熱気のあるイベントになればいい。
これも、賢者ならではの仕事かもしれない。ちなみに、お母様がおっしゃっていた、人の役に立った度合いを図る「バロメーター」は、今、どれくらいMAXに向け振れているんだろうか。お金ではなく、ハッピーを貰ういう意味で。
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