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第96回 株式会社ジェイ・ダヴリュウ・エー 代表取締役社長 平野準氏
update 10/01/19
株式会社ジェイ・ダヴリュウ・エー
平野準氏
株式会社ジェイ・ダヴリュウ・エー 代表取締役社長 平野準氏
生年月日 1961年、神奈川県横浜市出身。
プロフィール 3人兄弟の末っ子。小学校時代は野球一筋。高校では珠算部に入部。高校卒業後、三越に入社。お得意先を広げ、27歳で退職。巨人軍監督、原辰徳氏オーナーの(株)エイトコーポレーションの立ち上げに参加。2年後の1990年(有)ヒロ・インターナショナルを仲間と共に立ち上げ、1993年、飲食店1号店を出店する。
主な業態 「わびさび」「おば九」など
「独立するときに背負ったリスク。それがいまでも頭の中にある。だから、社員たちにはできるだけリスクのない独立をさせようと思っている」今後の展開を尋ねたときに返ってきた(株)ジェイ・ダヴリュウ・エー代表取締役社長の平野準(ひとし)の言葉だ。現在、同社の店舗は新橋を中心に29店舗。いずれ、それらの店を社員たちに、直接、もしくはホールディングスのような形式を採り入れつつ、譲っていこうとしている。「屋号も、内装も同じ、店長が、ある時を境に店主になっている、そんな感じになればいい。すでに古参の社員とは具体的な話まで進めています」。平野は1961年生まれ。もう少しで50歳になる。その時までには、この路線でもメドを立てたいと思っているそうだ。「繁盛店を惜しげもなく、渡す」。離職率が低く、長年、いっしょに汗をかいてきた社員が多いとはいえ、なかなかできることではない。今回は、そんな心意気溢れる平野という男を生い立ちから迫ってみよう。

野球一筋の少年。大学には進学せず「三越」に入社。

1961年、神奈川県横浜市に生まれる。3人兄弟の末っ子。母方の祖父は、大きな米屋を営んでおり、中学1年から高校3年まで、その店でアルバイトをさせてもらっていた。スポーツでいえば、当時、誰もがそうだったように野球が大好き。後に、巨人軍監督の原辰徳氏をはじめ、岡崎氏らと交際を持つことになるのだが、この当時は、平野自身も野球選手を目標にしていたことだろう。だが、高校に入ると、担任の影響もあり、珠算部に入部。運動部のように朝練、夜連とソロバン三昧だったそうだ。2年には部の予算獲得のために、生徒会に送り込まれ、その後、副会長、翌年、会長も務めている。卒業後は、大学には進学せず、大手百貨店「三越」に入社。社会人、平野の人生が始まっていく。

「三越」で貴重な経験を積む。一人で年間4億円以上を販売する。

「さっぱりわからなかった」と平野。それもそうだろう。配属部署は呉服部。三越のなかで、もっとも厳しい部門の一つだ。「反物を巻くのって難しいんですよ。先輩たちはシュルシュルと音を立て簡単に巻くんですが、ぼくにはまったくできない。控え室で1日中、練習をしたこともあるんです。繰越いくら、丈が何寸、そういう専門用語も覚え、初めて接客にでることもできるんです」。三越は百貨店の老舗。しかも、平野の配属は日本橋本店。格式の高さでは群を抜いていた。1年後、平野はインテリア部に異動した。
ところで、百貨店には外商の仕事もある。お客様宅を訪問し、ご用を伺う仕事のことだ。売上比率も、意外に高い。特に平野は、この外販比率が高かった。だからインテリア部なのに、食料品から別荘まで販売したことがあるそうだ。結局、三越は27歳で退職することになるのだが、全販売員のなかで売上2位。4億数千万円を1年で売り切ったこともあるという。

巨人軍監督原辰徳氏と共に会社を立ち上げるが、2年で退職。

平野が三越を退職するきっかけの一つが原辰徳氏である。もともと平野は、三越の仕事で原氏の奥様の父上に、かわいがってもらっていたそうだ。その縁もあって、原氏がオーナーとなる(株)エイトコーポレーションの設立に参加するのである。「もともとは複合的な構想があったんですが、バブルが弾け、その構想が頓挫したこともあって辞めさせていただきました」。この間、2年。岡崎氏をはじめ、さまざまな巨人軍の選手や、岡崎氏の紹介で、芸能人にもネットワークが広がっていく。ちなみに岡崎氏とはいまも家族ぐるみの付き合いをしているそうだ。格式の高い名門「三越」で富裕層と接し、球界や芸能界の人たちにも広がったネットワークは、その後の平野の人生で大きな財産になったことだろう。

1993年、1号店ついにオープン。飲食業に力強く第一歩を記す。

原氏と別れた平野は友人と共に、「ヒロ・ヤマガタ」の絵画を扱うヒロ・インターナショナルを立ち上げた。1枚、1000万円を超える絵が簡単に売れた。金銭感覚が麻痺するほど儲かった。しかし、ある巨額の取引で、一つの事件が起こり、数億円の儲け話が一瞬のうちに泡と消えた。「もし、あのまま数億円が入っていたら、絶対にダメ人間になっていたでしょうね。少なくともいまのように体をはるような仕事はしていなかったはずです」、と平野は当時のことを振り返る。このことがきっかけで、平野はより地道な方向に舵を切る。飲食店の経営だ。「そのまえに、和考社という三越の関連会社で内装工事の勉強もしました。飲食店をやるための勉強の一つです」。1993年11月。ついに1号店がオープンする。実は、このお店はオープンしたものの売上が立たず悩んでいたオーナーから3分割で買い取った居抜き物件である。とはいえ家賃だけで月125万円(24坪)、損益分岐店は高い。この分岐点をクリアーするためのヒット商品となったのが、竹筒で飲む冷酒である。一気にブレイクし、雑誌「月間食堂」にも繁盛店と取り上げられたという。2号店もすかさず出店した。

成功から一転、苦境に。しかし、まっすぐに進み、その苦境を跳ね返す。

好事魔多し、である。「有頂天」になりすぎていた。客をこちらのルールに縛りすぎた。「時間制で、時間が終わるとさっさと返らせてしまう。まだ料理が残っていても、です。そりゃ、お客様も入らなくなりますよね」。タイミングも悪く、近くにあった大手電機メーカーのオフィスも移転し、次々、なくなっていった。出店より4〜5年目、平野がもっとも苦しかったと話す時期だ。そこで、リピーターになっていただくにはどうすればいいか、を考えるようになる。もともと三越で顧客と接してきた平野である。おもてなしの方法は誰よりもよく知っている。いったん、苦しみの時を経たことで、その後、さらに強い会社として成長できたのも、この基礎があったからだ。社員に対しても、心構えが変化する。職人気質の料理人はいらない。ホールと厨房の垣根もとっぱらった。5つのやる気も考える。ざっと並べると「土日祝」「インセンティブを給料に反映」「福利厚生の充実」「人間関係のフラット化」そして冒頭に書いた「独立」だ。いまも平野は、スタッフ同様、現場の仕事に忙しい。いまでも週の半分は、朝4時から漁港を回り、鮮魚を仕入れてくる。「ぼくは、高卒。だから頭を使って人を動かすなんて偉い人の真似はできない。だから、からだを使って、みんなを動かすんだ」と平野はいうが、それだけだろうか。社員や仲間を動かしているのは、平野の心意気をおいてほかにない。そんな気がしてならないのだ。

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