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第98回 株式会社大真 代表取締役 眞鍋大作氏
update 10/01/26
株式会社大真
眞鍋大作氏
株式会社大真 代表取締役 眞鍋大作氏
生年月日 1975年9月11日、愛媛県四国中央市生まれ。
プロフィール 両親は「酒屋」「うどん屋」を営む。4人兄弟の末っ子。明治大学卒業後、兄弟で有限会社「一滴八銭屋」を設立。3年後、友人と株式会社「マザーズアイ」を起業するが、失敗。いったん愛媛に戻り、家業を継ぐ。骨付鳥専門店「釜焼鳥」は、家業を引き継ぎながら、再起を試みる強い思いが育てた逸品である。
主な業態 「釜焼鳥本舗」「ぶ吉」「大真うどん」
企業HP http://www.e-daisin.com/

子どもの頃に食べた焼き鳥から生まれた「釜焼鳥」は焼鳥の進化系だ。

西新宿で骨付鳥専門店「釜焼鳥本舗」を展開しているのが、有限会社大真である。同店、自慢の「釜焼鳥」は、名前通り、釜で焼く焼鳥。「釜のなかの高い温度で焼き上げるためジューシーで、香ばしくパリッ仕上がる」のだという。この独自の製法に加え、研究を重ね開発した10種類のブレンドスパイスと秘伝のタレが旨さの秘密。「胡椒一つとっても国産メーカーのものを4種類ブレンドしている」というこだわりが旨さを際立たせる。一口食べれば、「焼鳥」というカテゴリーには収まりきれない「味の進化」が口のなかに広がる。さて、今回、ご登場いただくのは、この(有)大真の代表取締役、眞鍋大作である。
眞鍋が、この「焼鳥」を最初に思いついたのは、1998年に開業した本格讃岐うどん店「一滴八銭屋」のサイドメニューとしてであった。当時、「うどん文化」のない関東エリアに、愛媛育ちの兄弟が殴り込みをかけたのだが、その際、うどんに合う定番の「サイドメニュー」として考案したのが、この「焼鳥」だったのである。
子どもの頃に良く食べた香川県中賛地方の焼鳥を原点に工夫を凝らして、眞鍋の「釜焼鳥」が誕生する。だが、この時から「釜焼鳥本舗」が開業するまでには、いくつかの紆余曲折があった。今回は、真鍋の生い立ちから遡り、「釜焼鳥」、また「焼豚足 ぶ吉」で再度、鮮烈なデビューを果たすまでの軌跡を追いかけてみよう。

1975年、愛媛県四国中央市、香川に隣接するこの街で四人兄弟の末っ子として生まれた。

祖父の代から酒屋を営んでいた眞鍋家は、父の代になり、「うどん屋」、後には「バッティングセンター」まで手広く手がけることになる。末っ子として生まれた眞鍋は兄、姉と年齢が離れていたこともあり、一人遊びが多い少年だったそうだ。小学校の卒業文集には、「将来はうどん屋を全国チェーンにする」と書いている。小・中学生では野球にのめり込み、キャプテンも務めた。スポーツが得意でカラダも丈夫な眞鍋だったが、高校時代には、内臓を患い入院。2ヵ月間、点滴だけの生活を送った。「この時に、食べることのたいせつさを痛感した」と眞鍋。「毎日、料理本を見ては、空腹を癒していた」ともいう。ただ、高校時代になると、小学生の頃の夢は頭の隅に追いやられ、家業よりも、「カッコがいい」という理由で商社マンをめざすようになっていた。

初めての手料理。彼女や友人たちの歓声が、真鍋の人生を変える。

商社マンをめざした眞鍋は、明治大学商学部に入学。この頃、すでに長男は東京でサラリーマン生活を送っていた。「弟が学生の時に何度か会って一緒に起業しようと話をしたことがある」と長男の由一郎氏は振り返る。だが、眞鍋の目標は商社マン。就職活動では、すぐに内定をもらい、いったんは目標通り商社マンの道を進み始めるかに思えた。「実は、就職も決まった、学生時代、最後のクリスマス。彼女のために、初めて手料理を作ったんです。この時作ったシチューが、彼女だけじゃなく、友人たちからも、『おいしい』とほめられ、なんともいえない衝撃を受けたんです。正直にいうと、この時の衝撃が飲食業界で起業しようと思うきっかけになったんです」。

兄弟3人で起業に向け奔走。だが、3年後には、会社を去り、新会社を起業する。

就職を蹴り、由一郎氏に、今度は逆に眞鍋から起業を持ちかける。卒業後は、起業に向け、由一郎氏と義兄、そして眞鍋を加えた兄弟3人の忙しい毎日が始まった。関東エリアに「うどんブーム」の火をつけた「一滴八銭屋」が、この後、誕生する。最初は、なかなか受け入れられなかった「うどん」だが、徐々に認知され、業績も上向く。眞鍋も、取締役として役割に見合った収入を得ることになる。だが、真鍋は3年後、会社を辞し、大学時代の友人と共に、株式会社「マザーズアイ」を立ち上げ、「屋台のジュースバー」の運営を開始した。
「サラリーマンの偏った食生活をみて、健康を意識する層にカラダによいフレッシュなジュースを提供することを思いついたんです」。アイデアは良かった。実際、衛生許可が下りるまでは苦労するが、営業を開始したとたんマスコミでも話題になり、人気スポットとなるほど、ヒットした。だが、問題は、このときマスコミが作り上げたブームが、すぐに去ってしまったことだ。一気に持ち上げられ、鮮烈に社会にデビューした眞鍋だったが、ふるい落とされるのも一瞬だった。会社は休眠。蓄えた金は底を付く。まさにどん底を味わったのはこの時である。

どん底からの復活。一品で勝負できるメニューの開発に注力する一方、終身雇用を打ち出す。

結局、店をたたみ、眞鍋はいったん出発の場所、愛媛県に戻る。末っ子である眞鍋が、家業を継ぐことになったのは、そういう経緯から。うどん屋を引き継いだ眞鍋は、2003年、店の一角にあった駐車場に、物置を改造した店をつくり、すでに述べた持ち帰り専門の骨付鳥専門店「釜焼鳥本舗」を開業する。これが、再デビューの始まり。2007年には、西新宿に出店。子どもの頃に憧れた東京で再び、勝負を開始する。
出店と同時に、マスコミが再び取り上げてくれた。今度は、その追い風に慎重に乗った。またたくまに「釜焼鳥」は人気になる。それでも眞鍋は、「これで直営店は終わり」だという。「今後はFC展開が主になる」とのことだ。「釜焼鳥本舗おやひなや」が、それにあたる。その一方で「焼豚足 ぶ吉」をアピール。「ぼくらは食品メーカー。料理という一つの作品をつくり世に問いかけていくのだ」と眞鍋。この「焼豚足」は、小売も意識し開発したものだ。
売上にこだわる経営者が多いなかで、眞鍋は、少し違う考えを持っているように思えてならない。売上よりもむしろ、自分たちの価値をいかにして世に問うか、を優先している気がするからだ。
社員との関係も、興味深い。「独立支援」を掲げる会社が多いなかで、真鍋は「終身雇用」を打ち出した。「独立は、決して楽にできるものではない。ぼくらも失敗を通して、どん底を味わった。幸い、いまうちの会社はうまくいっているのだから、独立ではなく、会社を利用して手応えある仕事をすればいい、と思ったのです。実際、現場には、大幅な権限を委譲していますから、店主のようなヤリガイを感じられるはずです」。
社訓は「楽しめ」である。メニュー開発、業態開発も、すべてのスタッフにチャンスがある。目標は、3年で10店舗、10業態。そこからどんなメニューが生まれるか。一品、勝負の作品を期待せずにはいられない。

思い出のアルバム
思い出のアルバム1 思い出のアルバム2
ハリウッドユースホテルにて 一滴八銭屋オープン時
思い出のアルバム3 思い出のアルバム4
現専務の久松と結成した野球サークル 商社マンを目指していたゼミ
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