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第982回 株式会社ハイデイ日高 代表取締役会長(執行役員会長) 神田 正氏
update 24/03/19
株式会社ハイデイ日高
神田 正氏
株式会社ハイデイ日高 代表取締役会長(執行役員会長) 神田 正氏
生年月日 1941年2月20日
プロフィール 中学卒業後、職を転々として、20歳の時にラーメン店ではたらき始める。1973年、中華料理「来々軒」をさいたま市大宮区宮町に創業。「ちょい飲み」需要を取り込むなど、駅前のロケーションを活かした独自戦略でブランドを確立。1999年に株式を公開。2023年までは東京・埼玉・神奈川・千葉の駅前を中心に展開していたが、2024年以降は群馬・栃木・茨城などのロードサイドへの出店も増やしていくという。首都圏以外でも、日高屋ブランドを楽しめる日が、ちかづいてくる。
主な業態 「日高屋」「焼鳥日高」「来来軒」他
企業HP https://hidakaya.hiday.co.jp/

高萩村いちばんの、

1941年2月20日生まれ。今年(2024年)83歳になる。
「村いちばんの貧乏で、住む家もなくってさ。親戚の家を転々としていたから、じつは出身地も正確にわからない」という。
ただ、会長が村というのは高萩村で間違いなさそう。ウイキペディアで調べると「高萩村(たかはぎむら)は、かつて埼玉県入間郡に存在した村」とある。日高市の東部と言えば、およそ位置が想像できる人もいるだろう。
会長は4人兄弟の長男。「兄弟全員、中卒」と、苦笑する。戦争で負傷したお父様に代わって、お母様がゴルフのキャディをして兄弟四人を育てられている。
母を真似て、長男の会長もキャディのバイトをした。
キャディをしたおかげで、人間をみる目ができたらしい。
「だって、朝初めて会った人と4時間もいっしょにいて、その人たちの様子を観て、どうしたらいいかを判断するんだよ。チップをくれるかどうかも、大事だからね」と笑う。
人生初のコーラは、アメリカ人のお客さんからいただいた気の利いたチップだったらしい。
1941年生まれだから、中学生になっても戦争の跡は残っている。戦闘機の格納庫だったところで勉強したこともあるそうだ。そういう話を聞くと、思い浮かんでいた映像が、とたんにモノクロになった。

職を転々と。

「とにかく、お金がないから、早くはたらかないといけない。だから、中学を卒業して、就職します」。県をまたぎ、板橋区にあった小さな工場に向かった。面接に行くにも、電車はつかわない。お父様と、自転車を漕いで向かったそう。
「3時間はかかったんじゃないかな」と笑う。
お父様にも苦労をかけて就職したが、1ヵ月後、会長は実家にいた。
「住み込みだったんだけどさ。実は、逃げだしてしまったんです」。今や大会社の会長といっても、当時は、まだまだ少年だ。
「つぎに就職したのは、ベアリングの工場です。時給15円」。こちらは、1年でリタイア。大手のメーカーに勤めて、バイクをつくったのは、そのあと。
「夜勤のアルバイトだったんですが、工場長から『正社員の試験を受けてみなさい』って勧めていただいて、学歴がないから受からないと思っていたら合格しちゃって。でも、どこか冷めていて、やっぱり飽きちゃうんです」。
仕事は転々としたが、だからと言って下を向いたことはない。
「転職は悪くない。だって、1度きりの人生でしょ。我慢して一つの仕事をつづけても、つまらないだけ。私は、色々な職を経験して正解だったと思っている」。
会長はニヤリと笑う。

オープンしたラーメン店は、1年でクローズする。

「ともだちが暇なんだったらラーメン店で仕事をしてみないかと誘ってくれたのが20歳の時。だから、20歳の時に初めてラーメン店で仕事をします」。
「それまでは?」とうかがうと、会長はつぎのようにいう。
「キャバレーのボーイってわかるかな? バーでもはたらいた。当時は、『水商売』って言ってね。イメージはよくなかったね」。
まだまだ青二才。仕事もそうつづかない。だが、今度は少し様子が異なった。
「ラーメンもそうだし、チャーハンもそう。みんなこちらで教えてもらいました。でも、それだけじゃなくって、ツケを、初めて知るんです」。
「ツケのからくりを知って、その頃から、キャッシュフローに目をつけていた」と会長はいう。現金ビジネスのストロングポイントを若いなりに見抜いたっていうことだろうか。
スーパーの警備員から声をかけられたのは、このラーメン店で働いいていた時。
「ラーメン店をやるから手伝ってくれないか」。
「向こうさんがお金をだして、店は私がきりもりします。ただ、ロケーションが悪くて、申し訳ないことに1年でクローズしちゃいました」。
会長の前に、大家さんがひょっこり現れたのは、その頃のこと。

キミが店をやらないか、天からの声。

「私らにしたら、大家さんなんて金持ちでしょ。だから、好きでもなかったんだ。挨拶だってろくにしない。だけど、どこかで、向こうは私の仕事をみてくれていたんだろうね。『店をやらないか』って誘ってくださったんです」。
青天の霹靂。
「そう、思ってもいなかったからね。ただ、いい話だけどさ。そもそもお金がない(笑)」。
「でね。正直に『お金がありません』って言ったら、大家さんがなんと保証人になって銀行からお金を借りてくださったんです。私が27歳で、大家さんが50歳くらいの時かな。でもさ、おんなじラーメンなんだから、私がオーナーになったって、急に流行るわけがない(笑)」。
リニューアルオープンしたものの、やはりうまくいかない。
「待っているだけじゃダメだ。デリバリーだね。それをやろうと思って。1人じゃ無理だから」。弟さんをスカウトされたそうだ。
「弟が、市役所に御用聞に行ってくれたりしてね」。
市役所からの注文は、日によってかわったが、「タンメン1杯」「チャーハン1つ」だったそう。売上は、タンメン1杯分、チャーハン1つ分だけ、改善した。
<弟さんと二人三脚ですね?>
「そうだよね。私ら兄弟はみんなそうだけど、さつまいもだけで、育ったからね。逆境にもつよいんだ。さつまいも1つあれば、食いつないでいける(笑)」。
その後、会長は深夜営業に活路をみいだし、売上は上昇。ただ、勧められるまま、始めたスナックが大失敗。「妹まで呼んだのに失敗したって噂が広がって。恥ずかしくなって。ラーメンもいっしょ辞めちゃいました」。

「来々軒」創業。

もちろん、これで幕が閉じるわけはない。第二ラウンドの幕があがる。いや、むしろこれが第一章の始まり。
<つぎにオープンしたのが、創業の「来々軒」ですね?>
「5坪の小さい店だったけど、大宮のちかくだから、ちかくに風俗店もあってね。デリバリーの注文もいただいて。でも、1人じゃできないでしょ。だから、さ」。
ふたたび、弟さんが、仕事を始める。
「今度はさ。お袋が弟に『やめておけ』って言っていたらしいです(笑)」。
<でも、来てくださったんですよね?>
「そう、兄弟のきずなですね。そこに、もう1人、ラーメンの修業をしたいという人がはいって、3人になる。そうなると、さすがにキツキツになって。で、来々軒2号店をオープンします」。
ちなみに、ラーメンの修業にきた高橋という青年が、のちに会長とともに社長を務めている。
「弟もいたんだけど、資金繰りからスタッフの募集まで、ぜんぶ私1人でやっていました。今でいう店舗開発も、仕事の一つです。ある日、初めて蕨駅に降りた時かな。貸店舗って貼り紙があって。最初はラーメンはだめだって言われたんだけど、ピンと来たから交渉してさ」。
「その店は今でも、やっている」と会長は笑う。
ところで、会長曰く、「当時は、ラーメン店が株式を公開するなんて、だれも思っちゃいなかった」そう。「だから、みんな独立するんだな。弟も、独立するって言ってたからね。でも、私は3人でやれば、絶対、大丈夫だって。絶対、時代はかわるからって」。
「『騙そうとしている』っていうからさ。大宮駅まで連れて行って。駅からでてくるサラリーマンを観察させます。どうだって。だれもが手ぶらだろって。昔は10人降りてきたら、3人は弁当をもっていたんです」。
<もってないとしたら? どこかで食べますよね?>
「そう、そういうこと。もうさ、時代は動いてたんだよ」。

先生は、赤提灯。

今さら日高屋についてお話することはないだろう。とくに東京ではたらく人にとっては、どの駅前にもある、もう一つ食卓だ。
さくっと飲んで帰る。ちょい飲みの始まりは、実は、日高屋から。
この戦略はどこから生まれたんだろう?
「すかいらーくさんとか、デニーズさんとか。そういうチェーンをみて、勉強はさせてもらいましたが、だれかに何かを教わったことは一度もないです」。
<独自路線ってわけですね?>
「そうです。一つ言えば、日高屋の戦略は、赤提灯です」。
<赤提灯?>
「今の若い人には、なかなか想像できないでしょうが、暗くなって提灯が赤々浮かぶようになったら、駅前に屋台が現れるんです。おんでと、お酒。あれが、私の先生です。でも、淘汰されるのが時間の問題だっていうのはわかっていました。だって、路上でしょ。水道だってない。衛生的にもいいとは言えないからね」。
いつか、なくなる。
「時代の動きは止まらない。私は、それをみのがさなかった。屋台がなくなったからといって、お客さんのニーズまではなくならない。だから、うちは赤提灯に代わって、そういうお客さまを取り込むことを戦略にしたんです。ラーメン以外にも、メニューを色々、つくってね。いうなら、現代風の赤提灯です」。
ふつうのラーメン店は、アルコールの売上に占める比率が5%だが、日高屋は15%ちかくにもなる。
「毎日、日高屋っていうんじゃなくてもいいんです。今日はハンバーガー、明日はカレー。で、『今日は、日高屋で』ってそれでいい」。
お客さまにとって、ふらりと立ち寄ることができる店がいい。今も昔もかわらない。

日本でいちばんの幸せ者。

大宮で第二ラウンドの幕が上がってから、約半世紀。今やスタッフは1万名にもなるそうだ。そのスタッフ1人1人に声をかける。
黙って、やめていかれるのが残念だと、10年前からパートさんも集め、年に複数回「感謝の集い」を開催している。テーブルには、つぎつぎと料理がならぶ。うちは、人がすべてという会長の感謝の思いが込められている。
福利厚生にもちからを入れ、週休2日制もいち早く導入している。
ラーメン店。今、日高屋をそう位置づける人は、少ないんじゃないだろうか。
日高屋は、日高屋。それ、以下でも、それ以上でもない。独自路線をひた走りつづけてきた、その結果、独自の進化を果たしている。
「つぎの戦略としては、ロードサイドです。この数年でロードサイドでも日高屋というブランドが高くご評価いただけることがわかったので、今まで出店していなかった群馬、茨城、栃木にも出店攻勢をかけていきます」。
まだまだつよきで、攻めていく。ただし、利益のため、ではない。
「ご近所の人が、日高屋ができたって喜んでくださるんですね。それが、いちばんです」。
今でも、店舗へ行くのは電車で。東京のラッシュにも、怯まない。
「ある時、ある店に行って、キッチンをのぞいてみようと、ふらりと入ったらパートさんに怒られちゃったんです。『調理場には入らないでください』って(笑)」。
どうやら会長のことを知らないパート歴の浅い人だったようだ。しかし、会長は、ていねいに頭を下げ、謝られたそうだ。
「『会長だからいいだろう』なんていえないでしょ。彼女も、周りのみんなも頑張ってくれているんだから」。
そんな会長だからこそ、店に現れると、パートさんまで笑顔になる。会長の周りには、笑顔があふれている。
多くのスタッフに囲まれて、村でいちばん貧乏だったという少年は今、日本でいちばんの幸せ者になっている。

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