株式会社CF3プロジェクト 代表取締役 大口竜二氏 | |
生年月日 | 1978年7月20日 |
プロフィール | 東京都豊島区巣鴨生まれ。一時期、埼玉県川口市で育つが小学校3年以降は巣鴨。高校生のころからサーフィンに取りつかれ、大学卒業後、サーフィンの聖地、千葉県茂原市に居を移し、プロのサーファーを目指す。当地で偶然の出会いから個性溢れるラーメン店「三軒屋」を開業。 |
主な業態 | 「らぁ麺三軒屋」「中華そば ほおじろ」「中華そば 鷸」他 |
企業HP | https://www.ra-mensangenya.com/ |
「プロのサーファーになりたかったんです。25歳までにプロのサーファーになることが夢でした」。そう語るのは、三軒のラーメン店と二軒のイタリアン・レストランを経営するCFプロジェクトを率いる大口氏。
東京都豊島区巣鴨で生まれた大口氏が千葉県茂原市に住むようになったきっかけは、「サーフィン」。記憶にある方もいらっしゃると思うが、千葉県茂原市は、2020年東京オリンピックのサーフィン会場になったほど、言わずと知れたサーファーにとっては聖地だ。大口氏は、高校生の頃からサーフィンに適した外房の海でプロのサーファーになることを目標に、修業の日を送っていたという。
今回は、そのプロ・サーファー志望のひとりの青年が、26歳でラーメン店を経営することになるまでの歩み、経緯をお話しいただいた。
「生まれは、東京都豊島区の巣鴨です。そう、“おばあちゃんの原宿”として知られている巣鴨です」。
「生後、小学校2年生までは埼玉県川口市に住んでいましたが、両親が離婚した関係で3年生から巣鴨に移り住みました。巣鴨に移ったのは、父親の叔父・叔母が巣鴨に住んでいた関係だったと思います」。
小学校2年生、満8歳のとき両親が離婚し、生まれた街・巣鴨に戻った。両親の離婚について大口氏は多くを語ろうとはしない。ご両親の離婚は、少年だった大口氏にとっては、喉に突き刺さった、無意識ながら現在も残っている小さな「棘」だったのではないだろうか。
その顛末は、第三者が訊くことではない。
「二歳上の兄と二人兄弟ですが、二人とも父親が引き取りました。男手一人で仕事と子育てを両立していた父は、現代風にいうならシングル・ファザーです」。
―お父さんは仕事をしながら子育てをなさったのですか?―
「ええ、中距離トラックの運転手をしていました。長距離ですと家を空けることが多くなるので子育てが難しくなることを考慮したのかもしれませんね」。
「門限など、厳しく育てられました」と大口氏。
―お父さんとの思い出って、ありますか?―
「門限など厳しかったですね。「片親」だからこそ、厳しく育てなければ、という意識やプライドがあったのかもしれませんね。ただ、勉強しろとはあまりいわれませんでした。そぅ、思い出と言えば、お弁当です」。
―お弁当?―
「いわゆる茶色弁当でしたが、男手の無骨なりに一生懸命、作って持たせてくれました。ただ、残念なのは仕事の関係もあったので、授業参観日には来られませんでした」
中学校から、大東文化大学附属高校へ、そして大学へ進学。
「父からは公立に進むようにと言われていましたが、チャレンジ制度というのがあって、その制度に合格、大東大付属高校へ進学しました。大学へはエスカレーター式で進みました」。
「進学から卒業までの費用は、途中から奨学金で賄いました。奨学金ですか?すでに全額返済しましたよ」。
―奨学金はどのようにして返済?―
「ラーメン屋、とんかつ屋などの飲食店や深夜のガソリンスタンド店員など、アルバイトで、月収は平均的に約8万円くらい得ていました。返済に充てました」。が、それだけでは足りなかったようだ。
「風俗系だとか、ホスト〜これは一回で辞めましたけど〜やキャッチセールスなど、ともかく働きましたね。その甲斐あってか、奨学金は全額、返済することができました」。
アルバイトに明け暮れた(?)学生時代だったが、気持ちのどこかにラーメン屋経営の「萌芽」が潜んでいたのかもしれない。ただ、本人は気付かなかっただけかも……。
こうした日々、4年間を経て卒業。同時に、本格的なサーファー修業のため、茂原市に引っ越した。
ラーメン屋を経営する大口氏。
「将来、ラーメン屋さんにはなりたくないって思っていました。なぜかって?高校時代に自宅近くの“巣鴨ラーメン”でアルバイトをしたんですが、夜遅くまで立ち仕事で大変だったし……。そんな理由で、ラーメン屋を営むなど想像もしませんでした」。
人の将来は、分からない。大学時代もラーメン屋でアルバイトしたこともあるが、ラーメン屋は将来の職業選択の候補に入ってはいなかったようだ。なにせ夢はプロ・サーファーになることなのだから……。
その大口氏が、ラーメン屋になるきっかけが出会いだった。
「夢の実現だけを考えて外房のレストランなどで働きながら生計を立てていたのですが、そこで“志奈そば 田なか”の田中さんと知り合いになったんです」。
この出会いだけではない。思わぬ再会があった。
「先ほど言いましたが、高校生の頃に“巣鴨ラーメン”でアルバイトをしていたのですが、その当時の常連さんに再会したんです」。
―世間は広いようで狭い。偶然にしても、奇跡的な再会ですね―
「その方から、外房でラーメン屋をやってみないか?と勧められ、背中を押されたのがきっかけですね」。
―心が動いた?―
「もう25歳でしたし、いくらプロのサーファーをめざしていると言っても、いつまでもフリーターという訳にもいかないし……。また当時、茂原にはラーメン屋がなかったことも要因ですね」。
ラーメン屋はアルバイトで経験したとはいえ、職業にするのは圧倒的な経験不足。
「25歳で若かったこともありますね。怖いもの知らずではないんだけれど、ダメならダメでと割り切ることができました。
「いささかラーメン屋経験があったといっても、飽くまでもアルバイト。飲食業は甘くはないんですよ。自分の店を持ち経営、しかも末永く続けるには自分ならではの“技”“ラーメン”が不可欠と考え、修業しました」。
一年間、東京でラーメン屋修業を経て、2006年、サーフィン仲間の田中さんといすみ市に16席の小さなラーメン屋「らぁ麺 三軒屋岬本店」を開業。
「三軒屋というのは、この土地の旧名で、地方の方に愛されるラーメン屋を目指して命名しました」。
以後、2008年には茂原市東部台に二号店の「とんこつ三軒屋」を開店、併せて念願だった自家製麺を始める。2年後の2010年には長生郡長生村に三号店を出店。また同年には茂原市のご当地ラーメン「もばラーメン」を発案し、地方貢献にも一役かっている。
2015年には長生店を「中華そば頬白(ほおじろ)」にリニューアル、2016年には「中華そば鷸(しぎ)」を茂原市で開業するなど、その歩みは着実だ。
併せて、同じ千葉県船橋市に兄弟店の「亀戸らぁ麺 零屋」船橋店を。関連会社みんなのカンパニーが大衆イタリアン食堂「大福」長沼店を千葉県千葉市と、茂原店を茂原市で展開している。
三軒屋のラーメンの品書きは、共通するラーメンもあるが、店舗毎に特色のあるラーメンを提供しているのが大きな特徴だ。
たとえば、「頬白」では“飛魚出汁中華そば”“鰹中華そば”“極煮干し白湯そば”など。「鷸」では“牡蠣らーめん”“もばらーめん”“鶏豚出汁らーめん”や“鴨と蛤出汁のつけそば”など、屋号が同じ「三軒屋」でも他店では味わえない個性的なラーメンが食べられる。
大口氏はその理由を「お客さまにいろんな種類のラーメンを食べて楽しんでいただきたいというのが大きな理由ですね」と語る。
この思想、コンセプトは全店に行きわたり、具材の仕込みから、太さや形状、小麦や加水率を変えながらスープにあった麺を開発、使用している。ラーメンって、大衆食でありながらその奥は深い。
すでに述べたように現在は、ラーメン店を三店舗、イタリアンを二店舗経営しているが、ひたすら拡大するは考えていないようだ。
―デリバリーやテイクアウトなどで販売を拡大することはいかがですか?―
「考えなくもないですが、地域的に市場も限られるので拡大が見込めないんですね。ですから取り組む予定は、今のところないですね」。
―今後の展開というか……。お考えは?―
「三店舗が限界かなぁと思いますし、飽くまでも考えですがイタリアンは手放そうかとも思っています。今後は三軒屋の運営を継続することはもちろん、ラーメン店のプロデュースに関心があります。また土地を持っている関係で不動産での商いを考えています」。
―大口氏にとってラーメンって?―
「ラーメンって自由なんです。たかがラーメン、されどラーメンというか、不思議な食べ物だと思いますね。食材を作る人、生産者の方の思い、その思いを代弁するラーメン職人、五感を総動員して食べる人、みんなが作りあげる食べ物なんじゃないでしょうか」。
プロのサーファーを目指していた大口氏。今や「こだわり満載」のラーメン店を経営する大口氏に、またサーフィンを思い起こさせるような「ラーメンのBig Wave」が訪れるかもしれない。
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