1969年静岡県生まれ。静岡の割烹旅館を経て、京都の「つたや」、徳島の「青柳」で修行。「青柳」においては調理場の他、S0GO内の店舗を任され支配人、料理長の経験も持つ。1998年、29歳の時に独立。地元静岡に日本料理店「春夏秋冬花見小路」を構え、2003年に念願の銀座8丁目に「小十」をオープンした。
 

良質の素材が持つエネルギーを生かす料理を信念としている店主。生まれ故郷の静岡、そして修行先であった徳島などから毎朝新鮮な海の幸を取り寄せる。趣味でもあるというワインはソムリエの資格も持ち併せるほど。日本酒はもちろんのこと、豊富なワインのセレクションも「小十」の魅力となっている。「小十」という屋号は、店主と親交の深かった唐津焼の陶芸家、故・西岡小十氏の名からいただいたもの。オープンにあたっては西岡氏本人が器を焼き提供してくれたという。

東京都中央区銀座8-5-25
第2三有ビル1階

 
 
 

  高級な時計や服や車は自分が持っているだけで満足するものでしょう? けれど料理は違います。人は美味しいものを食べた時、その幸せな気分を愛情や友情を抱く人と共有したいと思うものです。「美味しかった」と次に大切なお連れ様と共に来てくださるお客様が目の前にいて、自分が作った料理を食べてくださる。しかもまた、足を運んでくださる。料理は人間の本能に働きかける魔法のようなもの。料理人って本当に素晴らしい仕事だと思うんですよ。
  僕が料理に目覚めたのは高校時代。実は小学校の先生になるのが夢だったのですが、高校1年の夏あたりから勉強がまったくダメになって(笑)。友人に教えてもらっているうちに「ヤバイ、このままだといずれこいつに使われる立場になってしまう!」と思うようになりました。
  そんな時、お小遣い欲しさではじめたのが居酒屋さんでのバイト。魚をおろしたり、キャベツの千切りをいとも簡単にやってのける板前さんが妙にカッコよく見えました。聞くと中学卒業後この道に入ったなど、学歴とは全然別の世界で生きている人たちなんですよね。「そうか技術職とはそういうものなのか」。お店を一つ持てば社長になるわけだし、料理は男として人と対等に闘うための武器になるな、と思ったわけです。学歴も家柄も体格も関係無しに闘える。そのことを身をもって証明したくて、和食の道に進むことに決めました。
  公務員の父は驚いていましたが、どうせ修行するなら世の中で認められているお店、厳しい環境で勉強したいとバイト先の親方に頼んで紹介していただいたのが、地元静岡の割烹旅館「きくや」でした。

  料理人を目指したものの、僕は物凄く不器用なんです。もうこれ以上傷つける場所がないほど包丁で指を切る。でも絶対にここでは落ちこぼれたくなかったから、不器用というコンプレックスとの闘いです。けれど不器用だからこそ、何かできるようになると人の3倍嬉しいんですね。「茶わん蒸しが作れるようになったよ」。一つできるようになる度に、母親に電話するほどでした。
  また、想像に反して「きくや」の親方は優しい人で、洗い場、盛り付け、焼き場、刺身、煮方を1年単位で任せてくれ、5年で一通りの基礎を学ばせてくれました。視野も広がり、世の中には評価の高い様々なお店があることも知りました。「25歳で店を出そう」と決めたのは、焼き場を任されている3年目、20歳の時です。技術職は年功序列ではありません。30歳でできないことが40歳でできるようになるとは限らない。ダラダラやっていてはダメだと思ったんです。僕は100回やってできるようになるなら早くやり切りってしまおうとするタイプ。店を出す決意をしてからは、そのためにやるべきことを書き出し、目標に向かってまっしぐらに進み始めました。
  まず親方に相談し、鮎料理で有名な京都の「つたや」に移らせていただいたのが一歩。ただし京料理と出会ったことで、自分がやりたいことがはっきりしてきたんです。やはり僕は新鮮な魚に囲まれた静岡の人間なんですね。休憩時間によく通っていた本屋で「味の風(著:青柳店主・小山裕久氏)」という本に出会い、「京料理ではない、これこそが自分がやりたい料理だ」と目の前の道が開けてきました。そうなるともう、いてもたってもいられない。徳島の「青柳」に電話や手紙でアプローチです。断られ続けましたが、3カ月半後に運良く店主の小山さんが電話口に出られ「そんなに言うならいいよ。でも運転手と下足番だよ」という条件でお世話になることになりました。

  50名のお客様の靴をお預かりし、顔を覚え役職なども配慮しながらタイミング良く、時にはきれいに磨き上げてお出しする。「青柳」で下足番からスタートしたのは、もしかすると親方の配慮だったのかもしれません。「料理の極意は気遣いにある」ということを学んだからです。そんな経験を経たためでしょうか、SOGO店の支配人を任された時には、売上げを倍に伸ばしていました。料理人からは離れた仕事でしたが、とにかく一生懸命でしたので、親方もそれを見ていてくれたようでした。「最後の3カ月は料理をみっちり勉強していけ」と、前任の料理長をつけてまで料理に専念させてくれました。
  29歳で静岡に帰り出店。地のものをお出しする店は地元の方々に愛され、繁盛しました。しかし時はバブル崩壊。もっと良い食材、もっとよい器…。ここでより上を目指すには様々なハードルがありました。一生懸命やるエネルギーは一緒なのだから、金額ははっても最高の料理をお出しする店をやりたい。次の目標を実現する場が、2003年にオープンした小十です。
  銀座の中の銀座、繁盛する店が集中する立地。自分に言い訳できない環境にあえて身を置き、全力投球する。料理という生き物を確実にコントロールし、最高のものを提供していく。客席はカウンター6席とお座敷1室。目の前のお客様と接しながら最高の時間を過ごしていただく店をと、このスタイルに行き着きました。
  僕は今、とても幸せだと感じています。それは朝起きた時にやりたいと思える仕事に就いているからです。さらに好きな仕事でまずは自分が食べていける、さらに家族を養っていける。これだけで大成功だと思っているんですよ。もしお金のためだけに仕事をするのだとしたら、他にもっとラクな仕事に就けばいい。でも死んだらお金は持っていけないですよね。好きな仕事で食べられる。これほどの成功、そして幸せはないと思っています。
  いい料理人になるのは、いいスポーツ選手になるのと似ていると思います。早い球を投げるために、高く飛ぶために、まず走って下半身のバネを鍛えます。料理人のバネは、人としての土台を作ること、そして料理という科学、技術の基礎を身につけることです。それがあるからこそ大きく羽ばたけるのです。目標を見据えたら、苦しくても手を抜いてはいけない。パリの3つ星に負けてどうする! 僕自身、いつもいつも前を見て走り続けています。