1958年石川県生まれ。東京銀座のフランス料理店「クレールド赤坂(当時)」に2年間勤務後、大阪辻調理師専門学校に入学。フレンチの専攻科を経て、1983年「シェ松尾」に入店。現在、松濤レストランの料理長であると同時に、株式会社シェ松尾の執行役員を勤める。
 

閑静な高級住宅街・渋谷区松濤に1980年にオープンしたフレンチレストラン。大正時代に建てられた二階建ての邸宅を改装したレストランで、東京初の一軒家レストランとしても知られている。友人宅を訪れたような邸宅ならではの入口、手入れし過ぎない“手作りの中庭”が暖かく印象的。山口県萩市の見島牛、石川県の加賀野菜、各地の漁港から届く魚などこだわりの素材が、技術と経験に裏打ちされたシェフの感性によって料理されていく。クラシカルなフレンチを源としながら常に進化する逸品。そんな「シェ松尾」ならではのフランス料理と出会える。

東京都渋谷区松濤1-23-15

 

二階 特別個室 インペリアルルーム
 

ブルターニュ産オマール海老のジュレ、
ハーヴの花の香り 
ホワイトアスパラガスと
アルガンオイルのエマルジョンソース
 

  一流の料理人を目指してこの世界に入ったものの、日々の仕事の忙しさに追われ自分を見失ってしまう…。そんな人が多いのもこの仕事の特徴だと思います。「こういう料理を作りたい」「○○さんのような料理人になりたい」。なんでもいいと思います。常に将来のビジョンや夢を忘れないでいること。それが唯一、自分自身の道を切り開いていく方法だと思っています。
  金沢で生まれた私は、幼い頃から絵を描くのが大好きでした。父親の影響です。金沢の美大を出て商業デザインを仕事としていた父は、自宅で油絵教室を開き子供達に教えていました。もちろん私も生徒のひとり。幼稚園の頃から絵を描くことが日常生活に溶け込んでいましたので、物心ついてからも「将来は美大に進み絵描きになる」としか考えていませんでしたし、それが自分の進む道だと思っていました。
  一時期金沢を離れ祖母と東京で二人暮しをしていた際も油絵は続けており、仲良しの同級生がしょっちゅう家に来ては二人で絵を描いていました。しかしその友人が物凄く上手い(笑)。「自分がいちばんだ」と思い続けていた私は、ちょっとした衝撃を受けると同時に、絵の世界で生きていくことに疑問を持つようになったんですね。
  そんな時期です。祖母と二人暮らしなものでいろんな友人が家に入り浸るようになって、私が自己流で作ってあげる料理が「美味しい!」と妙に誉められ、「料理というのも面白いな」と思うようになりました。ちょうどテレビの料理番組にフランス料理が取り入れられはじめた頃で、そのアート性は絵画と共通する部分がありました。「まるで一枚の絵のような美しい料理」に引き込まれていきました。絵を描く姿ではなく、フランス料理を作る自分の姿。高校卒業を間近に控え、現実的にイメージできるようになっていました。

  料理の世界を選んだ私が最初に出会ったのは、銀座にあった「クレールド赤坂」です。そこは元総理大臣の吉田茂氏のお抱え料理人だった志度さんが料理顧問を勤める店で、いわゆる100年前の伝統的なフランス料理をお出しするレストランでした。もちろん料理だけでなく内装や雰囲気、サービスのすべてが最高級レベルのフレンチレストラン。スタート段階からグランドメゾンで働けたことは、料理人を目指す者として非常に幸運だったと思います。
  実は偶然にも弟の友人のお父様がその志度さんの弟子で、私は一般的な就職活動をすることなく、紹介によって入店することができました。今と違ってフレンチレストランがそうたくさんある時代ではありませんでしたので、とても恵まれていたのかもしれませんね。
  しかし私は、「クレールド赤坂」を2年で辞め大阪の辻調理師専門学校に入学します。目指すのはフレンチの料理人なのですが「若い今の時期に他の分野の料理についても勉強しておきたい」と思うようになっていたからです。また、2年目にはフランス校へ留学し、本場の料理に間近で触れてみたいという野心もありました。
  さて、実際にグランメゾンを去り専門学校に入学した私が最も驚き衝撃を受けたことは、学ぶスタイルの違いでした。もちろん仕事現場は働いて給料をいただく場であり学校とは違います。しかし若手にとっては、修業と称して様々な勉強をする場でもあります。私が経験してきた現場はいわゆる職人の集まりで、「先輩の仕事を見て学べ」「先輩の背中を見て学べ」という環境でした。その点スペシャリストを育成することを理念としている辻調理師専門学校では、料理のすべてを論理的に教えてくれます。フランス料理が辿ってきた歴史、料理のセオリー、そして料理が科学であること…。つまり、働きながらだと理解するのに何年もかかってしまうことが、半年、1年で確実に自分の知識となって習得できるのです。
  特に私は現場経験者でしたから、料理の原点から論理だてて学べる学校教育で腑に落ちることが多かった。「なるほど、あの素材はこういう理由でこう下処理されこう味付けされていたのか」。授業を通してやっと現場での仕事に合点がいった、そんなこともとても多く、この経験が料理人としての確かな基礎を作るよい機会となったと感じています。

  辻調理師専門学校でフランス料理の専攻科をとった私は、入学半年後からフランス語・フランス語によるレシピで学ぶようになりました。そして2年目にはいよいよフランス校への留学と考えていましたが、ある日、主任教授から自宅に電話があり「シェ松尾」で働いてみないか? と声をかけていただいたのです。
  実は主任教授と「シェ松尾」のオーナーシェフ・松尾幸造は、フランスの「ラセール」で働いていた同期。松濤の一軒家レストランが3年目に入り若手料理人が必要になっていた松尾が、主任教授に求人の依頼をしていたというわけでした。私は周りの生徒よりも年上で、すり減った包丁を使っている少し目立つ存在でしたし、職員室にもよく質問に行っていました。主任教授にとって気になる存在だったのでしょうね。お薦めいただいたのも何かの縁と考えるようになり、「シェ松尾」で働くことに決めました。
  再び私が要望していたグランドメゾンでの仕事が始まりました。しかし「シェ松尾」は、私にとってまったく新しいタイプのレストランでした。
  それはクラシカルなフランス料理をベースにしながらも、常にクリエイティブで革新的な料理に挑戦していたからです。松尾が料理の変革期をフランスで過ごしたという経緯も大きいのですが、味と色彩というアート性、おしゃれに非常に敏感なシェフで、日本人ならではの感性も大切にしていたんですね。“絶対はないんだ”と、昨日の反省材料を今日は変えてみる、そんなチャレンジを繰り返しているレストランだったんです。また、若手料理人に仕事を任せ「このアイデアいいね」という部分はすぐにメニューに取り入れてくれるような柔軟性もありました。
  フランスに渡ったり、あるいは複数のレストランで経験を積む料理人が多い中で、私はもう20年以上も「シェ松尾」で仕事をしています。オーナーの料理に対する考え方、料理を楽しむための空間作り(例えば庭の手入れや絵画のラインナップなどなど)へのこだわりなど、多分共感できることが多いのだと思います。そして経営のことよりもよい料理を作ることに集中させてくれ自由に料理長としての仕事をさせてくれる環境。いつの間にか私にとって「シェ松尾」は、無二の店となっていました。

  すべての料理は、その原点があり長い時間をかけて洗練され現在の姿になっています。フランス料理を仕事とするなら、例えばエスパニョール、デミソース、フォンドボーなど、古典とそれが変化してきた歴史をきちんと学んでいなければいけないと思います。そこを無視して革新だけを追い求めると、ただ突飛なだけのわけの分からない料理に過ぎなくなってしまう。そして技術を磨くことと経験を重ねること。結局この仕事を突き詰めていくと、基本の上に積み重ねていく日々の地道な努力が大切なんだと思います。
  その一方、様々な文化に目を向けることも大切だと思います。私は絵を描く事も好きですが、ジャズを聞いたり映画を見たり美術館巡りも好き。友人には写真家など分野の違う仕事をしている人も多い。異文化の触れあいから得るのは美的感覚や感動です。そうした出来事が、一皿の料理に変化をもたらしてくれることが少なくありません。
  私は料理をお皿に置く位置、ソースの線の細さや長さにミリ単位でこだわる人間です。見本を見せて「こんなふうにやってごらん」と若手料理人たちに訓練させます。それは最終型を想像して料理をしているからで、その正確な再現なしに料理は成立しないと考えているからなんです。12名の調理場は、それぞれがバラバラの工程を担当するわけですが、いざ一皿に盛り付けするときは“完全な一枚の絵”になっていなければなりません。オーケストラを率いるマエストロ。クオリティを保持するための私の大切な役割だと感じています。
  さてこの仕事は、お客様に最高のタイミングでお料理をお出しする時間との戦いが続きます。ついついこなすだけになり、自分の夢や理想を忘れてしまう若手も少なくありません。どうか自分の時間を大切にしていただきたいと思います。バレエを見る、フラメンコを見る、よい音楽の中でお酒を飲む…。少しだけ文化的な休日を過ごすことで、料理という仕事に必ずプラスになる部分が生まれてくるものなのです。