フランスの三つ星レストラン、パリの「ルキャ・キャルトン」「アンフィクレス」「パティスリークレマン」、サンテ・チエンヌの「ピエール・ガニエール」ピアリッツの「カフェ・ド・パリ」で修行経験を5年間積んだ後、帰国。テリーヌとジピエ料理は大得意。しっかりとした味を表現できる料理人。2007年4月にオープンしたレストラン「レザンファン ギャテ」で原口シェフの味を堪能できる。現在、クラブニュクスグループ4レストランのオーナーシェフ。
 

昨年春、代官山にオープン。
オーナーシェフ原口 広が得意とする本格テリーヌは季節感とフランス料理のエスプリがぎっしり詰まっており、シャンパンやワインとの相性抜群の一品。
落ち着いた23席のテーブル席でゆったりとコース料理を堪能できる。バーも併設しているので、幅広い用途で利用可。

東京都渋谷区猿楽町2-3

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  私が料理人になろうと決意したのは18歳の時。夢が叶うように「24歳で海外に渡り、30歳でシェフになる」と紙に書いて、部屋に貼っていました。
  実家が飲食店だったこともあり、料理人になる夢は自然と芽生えました。中でも、重厚感があって何となく厳かな感じのするフランス料理にひかれていました。テレビの料理番組などを見ていると「フランス料理は格好いいなぁ」と感じることが多かったのです。
  高校を卒業するとすぐに上京しました。そしてレストランの格付け本を開き、その中の三ツ星レストランに片っ端から電話をして就職先を探したのです。
しかしそれしか方法がなかったからしょうがない。もちろん相手にしてくれる店はほとんどなかったけれど、最終的には何とか雇ってくれるレストランを探しました。すぐに“ぼろアパート”を借りて下積み生活がスタートしました。
  しかし約1年間辛抱したある日、自分の中で何かが弾けて、店を辞めてしまいました。その後は失意のまま、悪友とともに2ヶ月間、東京で遊びほうけました(笑)。年齢的には遊びたい盛りなのに、毎日、始発から終電まで働きつめ、店では殴られるか怒鳴られるかの連続。きっとその反動が一気に押し寄せたのでしょうね。みなさんもそういう経験はありませんか?若い時はとかくしなやかさに欠けるものです。
  不思議なことにいくら遊にほだされても、空虚な自分が残されました。満たされることのない自分が果てしなく続くような気がしました。それで気がついたんです。「結局、料理の世界で完全燃焼する道しかない。自分はそういう人間なのだ」と。そこで改めて知り合いに店を紹介してもらい、葉山の「ラマーレ」で働くことになりました。ちょうど熊谷喜八さんと入れ代わりで店に入りました。
  そうしているうちに目標の“海外へ行く24歳”に近づいてきました。ちょうど料理人としても葛藤を抱えていた時期で、時差のない料理、つまり、世界に通用する料理を表現したいと思うようになっていました。そこで予定通り24歳で、フランス行きチケットを購入し、親に100万円を借金しました。フランス語も分からぬまま包丁ひとつでフランスの地に降り立ちました。
  しかし空港に着いたら一言も理解できなかった。というより、空港のシステムすらよく分かっていなかった。なにしろ海外に行くのはそれが初めてでしたからね(笑)。「やべぇ」と短くつぶやいたけれど、表情は変えずにとりあえず「地球の歩き方」を見て、安そうなホテルを探しました。そして翌日さっそく「ロブション」に出かけました。

  ランチが終わる頃に、「働きたい」と大きくフランス語で書いた紙を両手で胸のあたりにかざして立ちました。そう、ヒッチハイクか何かで見かける、あの姿を実践したのです。フランス語を話せなくとも、「働きたい」というフランス語は何とか調べることができたので。しばらくするとフランス人が迷惑そうにやってきて短く何かを言って去っていきました。彼の表情からすると「無理、無理」と私を追い払ったのでしょう。
  フランス語は壊滅的でしたが、それでも料理の腕には自信がありました。だから次の店でも同じようにやりました。それしか方法がなかったからしょうがない(笑)。たまに店から出てきたお客さんにまで「働きたい」の紙を見られてしまい、怪訝な表情で帰られる方もいらっしゃいました。きっと「何?この人」と驚かれたのでしょうね(笑)。
  苦肉の策は無駄ではありませんでした。ある日、店から日本人が出てくると、私の滞在しているホテルを聞いてきました。そして彼は「もっと安いホテルがある」と教えてくれたのです。それは月極の貧素なアパートでしたが、日本人の料理人たちが部屋と夢をシェアして住んでいたのです。さっそくそこに引越し、彼らにいろんな店の求人情報を教えてもらいながら、何とか働けるようになりました。
  初めは星なしの店でしたが、次第にフランス語も話せるようになり、「ルキャ キャルトン」、「アンフィクレス」、「パティスリークレマン」、「ピエール ガニエール」などの有名店でも修行ができるようになりました。結局、フランスには5年間いました。
  中でも一番影響を受けたのは「カフェ・ド・パリ」というピアリッツにある店。3駅先はスペインという場所に位置するだけあり、それまで見たこともない食材とたくさん出会いました。例えば自家製のハムやベーコンはとても独創的でした。料理は、おしゃべりな装飾風料理というより、朴訥だけれど嘘のない素材型料理、という感じでした。作り手の偽りのない人柄が表れた料理でした。この頃から私は素材を重視した料理に目覚めていきました。
  「カフェ・ド・パリ」では、まなかい料理をいただく時間に店の真価が見えたような気もしました。この店ではスタッフが顔を合わせながらまかないを食べ、「あのお客様が最近は来てないね~。どうしたのだろう」と本気で心配し合うのです。そういう人とのつながりやふれあいが、レストランには一番重要なのだと気づくことができました。逆に言えば、料理の技術なんて時間を経れば自然に身につくと言っても過言ではない。だけどこういった精神の部分は長く働いても気づけないことも多い。
  最近、料理人はアーティストと称されることも多いですが、私はむしろ「アルチザン」になりたいと日頃から考えています。アルチザンとはフランス語で“腕のよい職人”の意味。単なるアーティスト(芸術家)ではなく、“職人的芸術家”なのです。
  今後はデコラティブなものが淘汰される時代だと私は思っています。前衛的な料理は一過性のもので、ますます評価されにくくなってくるでしょう。つまり、伝統なくして前衛はありえないという時代になる。だから伝統的な技と実力を蓄えた「アルチザン」を目指して完全燃焼いるところです。そう今思えるのも、フランスでの経験があったからだと思います。