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第1122回 THANK合同会社 代表 田邉雄二氏

update 25/10/21
THANK合同会社
田邉雄二氏
THANK合同会社 代表 田邉雄二氏
生年月日 1980年9月18日
プロフィール 高校を卒業し、ニューヨークへ短期留学。帰国後、日本で英語を学び、ふたたびアメリカへ。コミュニティカレッジで2年学んだあと、大学に編入。ニューヨークで食べた1杯のラーメンに心をふるわされ、日本の食文化の代表である「ラーメン」の道に進むことと決意する。
主な業態 「鶏ポタラーメン THANK」
企業HP https://thanktank.jp/

さらば、日本。アメリカへ、

今回、ご登場いただいたのは「鶏ポタラーメン」で有名、食べログ「ベストラーメン」をはじめ、数々の賞を受賞している「THANK合同会社」の代表、田邉雄二さん。
田邉さんは1980年、東京都の昭島に生まれている。兄、妹と、ご両親の5人家族。お父様は千葉大学出身のエリートで、今も大学でキャリアコンサルタントを務められている。
「小学校は3クラス、中学校は5クラスだったかな」と田邉さん。
「大社長になる」と、小さいながら大きな目標を掲げつつ、サッカーにも打ち込み、ピッチを駆け回った。小学生では市の選抜にも選ばれ、中学生では東京都大会で準優勝を果たしている。
サッカーでは評価されたが、それ以外は。
「それ以外は、問題児で。じつは、高校に進学してからはサッカーまで辞めて、ともだちとつるんでばかりいました」と田邉さんは笑う。
なんでも、ご両親にも迷惑をかけたそうだ。
「母は私を車に乗せて、学校に連行するんです。こっちは、だりぃなぁって思っているのに『卒業しなきゃ』って(笑)」。
今、改めて、田邉さんをみると、やんちゃだった少年の頃の面影はない。むしろ、秀才といったイメージだ。そう思いながら、話のつづきを聞いた。
「高校になってなにかに打ち込むことがなくなります。そんななかで、突然、英語を勉強しようと思い立ったんです」。
<英語?>というと、「ええ」と田邉さん。
「母に『留学したい』と言ったら、反対されるどころか『行っておいで』って」。
さらば日本、話は昭島からニューヨークにとぶ。

ニューヨークの片田舎。

<海外は初めて?>
「初めての海外です。選んだのは、アメリカ、ニューヨーク。語学留学で3ヵ月」と田邉さん。帰国後、1年間、日本で英語を学び、ふたたびニューヨークへ。
「今度は、2年間、ハーキマー・カウンティ・コミュニティカレッジという州立のコミュニティカレッジに入学し、インターナショナルビジネスを専攻して、そのあと、ニューヨーク州立の大学、オールバニ校に編入します」。
これだけ聞くと、国際的なビジネスマンへの道を進んでいるようにみえる。気になるのは、ラーメンとの出会い。
<ところで、どういう縁で、ラーメンの道に?>
「高校1年生のとき、初めて豚骨ラーメンを食べて、大ファンになるんです。もちろん、食べるほう専門で、ラーメンを仕事にするなんて思ってもなかったです」。
「ただ」と田邉さん。
「留学時に、ルームシェアをしていて料理担当だったんです。そのとき、料理にめざめたかもしれません」。
エクアドル人が2人、日本人が3人。ちなみに、このとき出会った日本人の女性が今の奥様である。
「コミュニティカレッジの2年間、ともにルームシェアで過ごして。彼女は、そのあとマンハッタンのファッション系の大学に進みます。私はさきほどいったようにオールバニ校に編入します。オールバニ校もそうですが、ハーキマーも、どちらもマンハッタンから4〜5時間はかかる田舎でした」。
ニューヨークの片田舎だそう。「北海道の酪農地帯のようなイメージ」と田邉さん。
その大学を「やりたいことが決まった」と中退。突然、なにかに突き動かされたように、新たな物語が始まる。

彼女の予言。

「アメリカで出会った彼女は、ファッションというやりたいことが決まっていました。それに刺激されたのかもしれません」と田邉さんは、当時を思い浮かべるように目を閉じる。
「私が暮らしていたニューヨークの片田舎は、マンハッタンなどの国際都市とはちがって、アメリカの文化を色濃く残しています。その、アメリカの文化にふれていると、逆に日本の文化を、アメリカ人に教えたくなったんです」。
「日本の文化をアメリカへ」
<その文化が、ラーメンだった?>
「そうなんです。ラーメン=ジャパニーズ・カルチャー、その図式は、もう少しあとで決まるんですが、彼女、つまり、今の奥さんは、私が何をするか決めていない頃から、『雄二はラーメン店をすると思うよ』って言ったらしいんです」。
奥様の予言はよく当たる。
奥様は「いつか2人は結婚する」とも思っていたそうだ。
大学を中退した田邉さんは奥様が住むマンハッタンに移り住み、日本人がオーナーシェフだったレストランで勤務する。
「飲食の経験を積むことはもちろん、アメリカでの永住権を取得するためだった」そう。しかし、9.11が影を落とす。
「9.11は私が学生だった頃のことなんですが、それ以来、永住権取得のハードルが格段に上がりました。3年勤めましたが取得できず、先に帰国していた彼女を追いかけるように帰国します」。
舞台は、ふたたび日本に戻る。

鶏ポタラーメン。

帰国した田邉さんは、有名なラーメン店で勤務を開始する。そのラーメン店がニューヨークに進出することを雑誌をみて知っていたからだ。
「合計3年半、アメリカでも、日本でも仕事をさせていただきました。じつは、今の『鶏ポタラーメン』も、当時のラーメンにインスパイアされています」。
創業は2012年。田邉さん32歳のこと。
「創業店は、大門にオープンします。大門といったら、サラリーマンやOLさんの街です。『鶏パイタン』でいくつもりが、はたらく人をみていると、おせっかいな話、野菜も食べて欲しくなって」。
「からだが喜ぶ」
これがテーマだった。
「それで、無化調はもちろんのことですが、野菜もふんだんに取り入れた、からだが喜ぶ『鶏パイタン×野菜ポタージュ』が生まれたんです」。
「鶏ポタラーメン」は、冒頭の通り、食べログ「ベストラーメン」をはじめ、数々の賞を受賞する。
答えは想像できたが、念のため、原価についてもうかがった。
「ふつうの鶏ガラと比較すると雲泥の差」と笑う。
鶏と10種類の野菜をじっくり煮込んだスープは、化学調味料不使用。
1杯に120gの野菜が溶け込んでいるという。
この贅沢なラーメンが、オープン当初は680円でいただけたというから驚き。2025年6月現在でも、900円と1000円を切っている。ちなみに、〆を楽しむならライスの注文がおすすめ。残ったスープにパルミジャーノチーズがたっぷりのった「チーズライス」を、投入すれば、たちまちチーズリゾットに。1杯で、2度おいしい。
もう少し、オープン時の様子を書く。
まず、大門をチョイスした理由だ。これについて、田邉さんは、単純明快に回答する。「大門は、オフィス街でしょ。オフィス街なら、飲食でも土日が休めるじゃないですか」。
13坪で17席。改修も含め、初期投資700万円、家賃20万円。損益分岐は、200万円弱。
オープンすると、損益分岐点を軽々とオーバーする。
「鶏ポタラーメン」。ネーミングがふるっている。鶏パイタン×野菜ポタージュ、斬新な響きに魅了されるように、メディアがこぞって取材に押し寄せた。「TVだけで20件、雑誌にも多数取り上げられた」と、田邉さん。
「とくに『王様のブランチ』で放映されたときは、大行列ができた」と笑う。
3年目に2号店をお茶の水に、蒲田にも出店し、好きな鎌倉にもオープンした。2025年6月現在、大門店、お茶の水店、蒲田店、そして、鎌倉小町店の4店舗。
「10坪程度ですが、その小さな店に私の思いが、そして今は私だけじゃなく、スタッフみんなの思いが詰まっています」。
コロナ禍の下、時短営業のときには、アルバイトではなく、自身の就業時間を削った。
「コロナがあって、ラーメン1本足打法だけでいいのか、という思いもあって、様々な交流会にも参加するようになり、刺激を受けています」。
スタッフにはベトナム人もいるそう。
「だから、いずれベトナムに彼らといっしょに」と、新たに「世界へ」という文字が頭のなかに浮かんでいるようだ。

心を救うラーメンと世界平和と。

最後に、もう一度、なぜ、ラーメンをという質問を重ねてみた。
「ラーメンで世界を救うことはできません。そうですよね。でもね。1杯のラーメンに心が救われることってあるんです」。
田邉さんはゆっくりと言葉をつむぐ。
アメリカで1人、はたらいているときに観た映像の話だった。
「衝撃的でした」。バグダッドから流れてきた映像。「その衝撃的な映像を観て、1ヵ月、なにもしたくなくなりました」。
平和を信じていた田邉さんは、その映像をみて、「信じているものがガラガラと崩れていった」という。
「心が傷んで、暴走しそうで。彼女が訪ねてきてくれたのに、扉を開けることができませんでした」。
扉を叩く音が、響く。
「食欲ももちろんない。ラーメンくらいしか食べられなかったんじゃないかな。ただ、ラーメンを食べた時、ふっと心が軽くなったんです」。
「あったかい風が流れだした」と、田邉さんは表現する。
「最初は、『え?』って。それから、すするたびに心がいやされていくんです」。
「その時、思うんです」と田邉さん。
「『受け入れよう』って。『人間ってそんなもんだ』って。『戦争も終わらない、それでいい。世界は平和にはならない。それでいい』って。でも、『めざす気持ちだけは忘れず取っておこう』って」。
たかがラーメン。世界平和を語ることは、できない。戦争を終わらせることもちろんできない。
「だけど、」と田邉さんはつづける。
「1杯のラーメンが、人を笑顔にすることはできる。だから、私はそれを使命として、ラーメン屋をやろう、と思ったんです」。
創業して13年、何千、何万もの人を笑顔にしてきたラーメン店の店主が、そこにいた。むろん、まだ始まりの、始まり。
いつか、「鶏ポタラーメン」は、その響きとともに、世界へ。世界中に笑顔が広がることを、願って。

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