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第1127回 株式会社AZism 代表取締役社長 手塚章文氏

update 25/11/25
株式会社AZism
手塚章文氏
株式会社AZism 代表取締役社長 手塚章文氏
生年月日 1986年7月20日
プロフィール 栃木県の山間の町に生まれる。帝京大学出身。ゲーム好きという理由で、学生時代、通い慣れたゲームショップに就職する。ゲームショップの売上拡大に貢献し、当時、赤字つづきだった「漫画喫茶」を立て直すために、異動。その「漫画喫茶」で名物店長となり、その名は海を渡ることになる。
主な業態 「横浜家系ラーメン大和家」「ラーメン田田」「PAO」「カーブス」他
企業HP https://www.az-zone.com/gaiyou/

高校は、ふたつの山の向こうにあった。

今回、ご登場いただいた株式会社AZismの手塚社長の話を聞いて、興味が出て調べてみた。栃木県塩谷郡塩谷町船生。
高校に通うには、山をふたつ越える。村の人口は、そこそこあったがクラス30人のうち斎藤が12人、手塚が6人と、名字ではなく、昔から今風に下の名で呼び合い、識別していたそうだ。
「小学校だって、校区がめちゃめちゃ広いんです。幸いうちはたまたま学校から近かったから何キロも離れてはいなかったんですが」。
近いと言ってもキロ単位。何しろ隣家との距離が400メートルあった。「回覧板一つもっていくのがたいへんだった」と手塚さんは笑う。
回覧板には「熊がでたので注意」と書かれることもあったそうだ。「熊の被害は聞いたことがないですが、熊も、鹿も普通にいました」。
「もともと船生っていうのは日光東照宮に参拝する際の最後の宿場町だったんです。うちも昔は『万年屋』という屋号の旅籠だったそうです。ただ、徒歩が車になると宿場町は閑散とし、今はみる影もありません。そうそう、先日、行ってみると、中学校はあとかたもなくなっていました」。
山間、中学生になる頃までコンビニ一つなかったが、自然はある。自然を駆け回る少年をイメージして話を聞いていたが、若干、ちがった。
「園児のときに、跳び箱10段を跳んでいました。そんな私をみて、将来オリンピック選手になると、大人たちがさわいでいたのを記憶しています。ただ、小学校にあがってからアトピーに苦労します」。
「爪がのびない」と手塚さんは手をみせる。アトピーで掻きむしったからだ。
「ただ、小学3年生のときですね。漢方薬で、突然アトピーが治ったんです」。
アトピーになり、内向的になっていた手塚さんが変わりはじめたのは、この頃から。ただし、中学に上がり将来なりたいことを聞かれて「仙人」と回答している。
今も世界を旅し、当時から活発で学校のなかで人気者だったお姉様と比較すると、内向的で大人しい。
「姉は、運動神経も抜群だったので、私が中学にあがると手塚の弟が入学してきたと言って、野球部からすぐに声がかかりました」。
山ふたつ越えた高校は、栃木でも有名な進学校。毎年、東大生も数名でている。「宇都宮にでるのが、一般的だったんですが、私は塾の先生に言われるまま宇都宮とは反対の県立大田原高校に進みます。宇都宮だったらまだちかかったんですが、大田原高校には自宅から駅まで車で30分、電車で30分、自転車で30分の行程でした」。
それでも、ちゃんと皆勤賞を取っている。毎年、5月に行われる85km競歩にもかかさず出場している。
「私は飽き性です。中学の野球部も3年になって辞めているし、高校のクラブもそう。勉強も、塾の先生にお尻を叩かれやっていましたが、高校には塾のこわい先生がいないこともあって、ぜんぜんしなくなってしまいました」。
ちなみに、大田原高校の生徒全員が24時間、歩き続けるらしい。なにしろ85キロである。あの、年に1回あるTV番組の目玉企画のマラソンと、そうかわらない。
「でるのは楽しみでした。ただ、3年のとき、この行事の最中に父と母が交通事故に遭ったことを知らされるんです。母は回復しましたが、父は、この事故の4年後になくなります」。
農協に勤めるやさしい父だった。毎日、駅まで車で送ってくれたのも父だった。
手塚さんは淡々と話を続ける。
「私は、帝京大学に進みますが、奨学金(交通遺児育英会)を受けて進学できました。月5万円。ありがたかったです。今では全額完済して寄付する側に回っています」。
これが手塚さんが大学生になるまでの話。

ゲーム好きな青年が味わった、趣味とプロのちがい。

「私が大学を卒業するのは2008年。リーマン・ショック直前ですが、2008年の春ですから、経済は活況で売り手マーケットでした。私も4社受け、4社から内定をいただきました」。
話は手塚さんの就活に進む。
「内定はもらったんですが、今一つ乗り気になれないというか、邪魔くさくって内定者懇親会にも出席しなかったんです。結果、内定辞退となって夏過ぎになっても就職先は決まっていませんでした」。
もともと不精な性格。拘束されるのが苦手なタイプ。
「自分で撒いた種なんですが、夏がすぎるとさすがに焦りだした」と手塚さん。
「社会にでてはたらくことがイメージできなかったような気もします。社会だけでなく、内定をいただいた会社についても、じつは何をするかよくわかってなかった。そんなとき、学生時代に通い続けていたゲームショップの求人と出会ったんです」。
じつは手塚さん、子ども時代からゲームが大好きだった。学生になってもゲームショップに通い続けた。愛着もある。
「そのショップが、AZismが経営する「PAO」だったんです」。
手塚さんは、アルバイトからスタートして、翌年、新卒第一期生として正式に入社する。
「私は新卒募集と勘違いして面接に臨みます。じつは中途入社の募集だったんです。だから、卒業までアルバイトという約束で内定をいただきます。『新卒第一期生』私1人です」。
当時、AZismはゲームショップやカーブスなどを運営していた。AZismについては、現会長、当時、社長の和田さんにご登場いただいた記事<第1070回 株式会社AZism 代表取締役会長 和田敏典氏>をご覧いただくとよく分かる。
さて、新卒第一期生である。「大卒」「新卒」という響きに、会社の期待が高まり、どこかで「嫉妬」もうずまく。
「たしかに、期待は多少あったと思いますが、『仕事できないヤツ』だったから、すぐに期待はしぼみ、嫉妬されるまでもありませんでした」。
大学時代もゲーム三昧。ゲームには詳しかったのでは?と伺うと、「まるで違う世界」とのこと。
「ユーザーと店員は全く違います。ユーザーは好きなゲームに打ち込むでしょ。それだけでいいんです。でも、ショップのスタッフとなると好きなゲームだけとはいきません。ゲームは毎週のように新作がリリースされるんです。これは?と質問され、知らないとはいえません。これが、趣味と仕事のちがいです」。

社長の教えと、バイオハザードと。

「当時の私は最低な社員だった」と手塚さんは苦笑する。趣味とプロのちがいに戸惑いつづけた。
「どうでしょう。2年くらいは、ただショップに立って、接客を繰り返すだけのスタッフでした。正直、転職するのが面倒だったし、当時、ゲームショップの売上は良くはなかったのですが、危機感もありませんでした」。
ただ、あとで知ることになるのだが、じつは当時、会社は火の車だった。
「私が入社する3年くらい前に加盟したカーブスが大苦戦していたそうです。ゲームショップの利益でカバーしていたといいますが、億単位の赤字で、社長の和田も毎週、銀行に呼ばれていたそうです」。
社員総会で、和田さんが、「うちは赤字企業」といって、はじめて苦境を知ったが、ゲームショップのイチ店員にできることは何も無かった。
「もちろん、コントロールできる範囲では、私なりに頑張りました。ゲームは新作と中古で利益がまるでちがうんです。中古のほうが断然、高い。だから、会社の号令もあって中古のセールスにちからを入れました」。
それでも、期待の新卒はいち販売員に過ぎなかった。入社時の期待の星が、会社の業績に大きく関わりはじめたのはいつ頃からだろう?
「当時は、会社も小さかったので、年に1度、社長の和田と、マンツーマンの酒席が設けられていたんです。ある日の酒席で、社長の話に感銘を受け、それを実践したことをお話すると気に入ってくれたのか、そのあとしょっちゅう私だけ飲みに連れて行ってくれたんです」。
期待されると、そのぶん頑張るタイプ。「当時の部長が怖くて怒られたくなかったってこともあるんですが」。このあたりは、中学時代、塾の先生がこわくて勉強した頃と変わらない。
ちなみにどんな話だったんですか?と話をふると、「和田の原体験で、和田流の商売の原点です。和田が電気屋さんで仕事をしていた頃の話。アイロンの話です。聞かれませんでしたか?」
和田さんとのインタビューを思い出し「説明書の話ですね」というと、「そうです。そうです」と言って話をつづけてくれた。
「最初は安いアイロンばかりを勧めていたんですが、ぜんぜん売れない。それで説明書を読みまくって、性能の高いものには高いだけの価値があることに気づいて、そちらを勧めると、高価なそのアイロンがつぎつぎ売れていったって話です」。
その話を聞いた手塚さんは「すぐに実践した」という。「仙人」になろうとしていた頃とはまるでちがう行動力だ。物を売るのではなく、価値を売る。ゲームの価値なら、だれより知っていた。
「バイオハザードってゲームがあるんですが。当時、うちのショップには980円と3980円のふたつがあって、当然、980円のほうが安いんですが、ゲームをする立場からすると、3980円には価格以上の価値があったんです。私自身ゲームが大好きなんで、その価値がわかる。だから、『じゃぁ、社長流で、こっちを勧めてみよう』と。すると和田が言う通り、そちらばかりがバカ売れするんです」。
ショップの売上は面白いように伸びた。当然、社長の和田さんの目にも、面白い存在と映る。
ただ、それを知ってすべてが開花したわけではない。じつは、このつぎ。「漫画喫茶」に異動して、「そこで、人生が変わった」と言っている。
最後にその話を少し。

3万枚のチラシと、ダーツの矢。

「当時、赤字つづきの漫画喫茶が1店舗あって、ゲームショップの売上を伸ばした実績が買われ、立て直しに異動することになりました。期待されていくわけですが、それまでの経験則がまったく通用しませんでした」。
「漫画喫茶」には、物販、飲食、時間販売、アミューズも、パソコンゲームもある。エンターテインメントのいわば幕の内弁当だ。客を魅了するキラーコンテンツがわからない。
しかも、当時、「漫画喫茶」は斜陽産業になりつつあった。
ジリ貧の漫画喫茶に火を灯すことはできるのか。
ここに手塚流の商売の原点がある。
「まずチラシを3万枚撒きます」。
3万枚?と驚くと、「10時間仕事をして2時間休憩して、チラシを抱えて街に出ます」。チラシを撒くのに要した時間は10時間。
都会育ちの人間なら、途方もない作業だろう。しかし、船生で少年期を過ごした手塚さんにとっては、できないことではなかった。
「単純な話、ほかに思いつかなかったです。だいたい2週間もやれば、3万枚を撒くことができました」。
「すると露骨に売上が伸びた」と手塚さん。
「その一方で、ダーツのプロになります。最初は遊びではじめたんですが、プロになるとオススメ力が、断然ちがってきました」。
ただの愛好者とプロの一言はぜんぜん違った。「いっしょにやりましょう」というお客様が鈴なりになった。名物店長となり、ダーツの売上で、東京はもちろん関東でも1位になり、その名は、台湾までとどろいた。
当然、赤字から脱却。閑古鳥が鳴きかけていた「漫画喫茶」は、別世界になった。
和田流の価値を売ることと、愚直な努力、そしてマーケットのなかに入り込む手塚さん独自の手法を生み出した。そして、この原体験が、素直で可愛いだけの、ゲームショップの店員を社長候補にまで押し上げていくことになる。
商売の面白さを知った手塚さんは止まらない。
「漫画喫茶」で手にした手法を横展開することで、経営していたラーメンと居酒屋の飲食事業部の利益を1年で2倍にしている。
手塚さんのすごいところは、すべてを自分ごとに置き換えることだ。
さて、社長となった今、手塚さんはどんな世界をみているのだろう。
「和田の『100年企業』と言う言葉に共感しています。私は飽き性だから一つのことに執着せず、いろんなことをしていくと思います」。
エンターテインメント事業、飲食事業、フィットネス事業。その根底にある「楽しい」を、追いかける。それが、たぶん100年企業の根幹となっていくんだろう。

思い出のアルバム

 

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