


| 株式会社ネオ・エモーション 兼 株式会社三崎恵水産 代表取締役 石橋匡光氏 | |
| 生年月日 | 1978年7月24日 |
| プロフィール | 1978年神奈川県三浦市生まれ。青山学院大学卒業後、米国留学を経て広告代理店に入社。3年半の勤務後、外食企業での修業を経て家業である三崎恵水産に入社。水産事業、海外輸出事業に従事し、同社のグローバル化を推進。2021年、株式会社ネオ・エモーション代表取締役社長に就任。「まぐろ問屋」などの回転寿司事業を展開し、職人の育成と業界初のミシュラン獲得を目指す。 |
| 主な業態 | 「まぐろ問屋 三浦三崎港」「まぐろ問屋 三浦三崎港 恵み」「まぐろ問屋 めぐみ水産」「まぐろ問屋 やざえもん」他 |
| 企業HP | https://neo-emotion.jp/ |
「三浦半島の先っちょに、城ヶ島という小さな島がある。戦国時代に、ある武将が城を築いたことからこの地名になったらしい。黒潮の影響で冬でも温暖。ただし、いったん天候が荒れだすと、人を寄せ付けないほど厳しい表情をみせる」。
こちらは、今回ご登場いただいた石橋さんのお父様であり、先代でもある石橋会長にご登場いただいたとき、冒頭に記した一文である。
石橋さんも、三浦市三崎城ヶ島生まれ。
「三崎は、日本有数のマグロ漁港です。昭和初期から遠洋漁業の拠点で、現在も日本有数のマグロ水揚げ量を誇っています」と、石橋さん。
「マグロの町」としても有名。
そのマグロの町で生まれた石橋さんは、小・中・高と野球部で白球を追いかける。学業も優秀で、高校は「小泉純一郎元首相の母校」だという。「ほかにも、オリンピックの柔道の猪熊功さん、ノーベル物理学賞受賞者の小柴昌俊の出身校です」と石橋さん。
同窓会のHPによるとノーベル賞受賞者、オリンピック金メダリスト、総理大臣を卒業生に持つ全国唯一の公立高校とのことだ。
石橋さんがまだ小さかった頃の、話もうかがった。
「小学校が3クラス、中学校が4クラス。生徒の大半の保護者がマグロに関係する仕事をされていました。1本のマグロでたくさんの人が食べられていた時代です。うちもその一つで、三崎恵水産が創業したのは私が生まれる前でしたので記憶はありませんが、まだまだ小さくて従業員さんも3〜4人だったそうです」。
小さな頃の記憶で鮮明なのは、魚臭い人といっしょに食べた昼飯。「とにかく、マグロ臭いんです」と石橋さんは、声をだして笑った。
才能の限界を知ることで覚醒が始まる。
「大学は青山学院に進みます。通っていた高校のレベルからすると上位校ではないですが、私自身、高校ではトップクラスではなかったので」と苦笑する。
一般の我々からすると、青山学院は憧れの大学の一つだが、さすがノーベル賞や総理大臣の出身校となれば話はかわってくるようだ。
実際、東大へ進む生徒も多かった。
「高校は横須賀にある公立高校です。中学生のときまでは、勉強もスポーツでも目立っていました」。中学の野球部ではキャプテン。キャッチャーでクリーンナップだった。勉強もスポーツでも目立っていたが、「猛勉強も、猛特訓もしたことがなかった」と笑う。
「トップ高にも何をすることもなく合格できましたし、高校に進学するまでは、万能な人間だと思っていたんです」。
だから、高校でもトップを走るはずだった。
「でも、進学校では珍しいことではないんでしょうが、私より勉強ができて、スポーツもできる生徒がたくさんいて。野球部でもレギュラーじゃなかったです」。
野球は3年夏までつづけたが、「途中で気持ちが切れてしまった」という。
挫折を感じた?というと、首をふる。
「忘れるのが、得意」とこちらを笑わせる。
「挫折というマイナスなイメージはもたないようにしています。逆にハードルを上げて努力するプラスのイメージをもつようにしています」。
じつは、このときの教訓が今に生きているそうだ。
「会社運営も、そうですが、とにかくハードルを上げて、立ち向かうようにしています。そうしないと適当なところで満足してしまうでしょ」。
これが、高校時代の教訓。何もせずなんでもできたことで、「視座が低い人間になっていた」そうだ。
「それに気づけてよかった」と、いう。だから、今も、意図を明確にしたうえで、自分にハッパをかけつづけている。
さて、大学生活をはじめた石橋さん。
青山学院というと渋谷のキャンパスをイメージするが、石橋さんが進んだ理系は厚木と世田谷にキャンパスがあった。石橋さんは町田でひとり暮らしをスタートする。
どんな学生生活だったんだろう。
「大学生になって、ウィンドサーフィンをはじめました。これにハマってしまって、1週間のうち3〜4日は鎌倉の海にでかけていました」。
風がマストを押し、ボードが波を切る。
スポーツは極めて万能だ。
「じつは、高校生のときから体重がかわっていない」と石橋さん。
今も、フルマラソンを走ったりと、体調維持に勤めているそう。体重維持も、食を生業にしている人間にすると、かなり高いハードルだ。しかし、石橋さんは、『食を仕事にしているからこそ、プロとして太れない』と自らを律する。こちらも、石橋さんのいうハードルの一つ。
大学に入り、ウインドサーフィンに没頭するようになった石橋さん。3・4年生になると、就活が始まる。
就活の話を聞こうとすると、「大学卒業後、アメリカに留学するんです」という意外な答えが返ってきた。
そして、「よく海外留学を人生のターニングポイントという人がいるじゃないですか。私の場合は逆で、帰国したことがターニングポイントだったんです」。
どういうこと?
「UCSD(カリフォルニア大学サンディエゴ校)っていうんですが、大学と大学院のちょうど間っていうイメージの学校に留学します。1年半ちょっといて、OPTという1年間の労働許可を取得できたんです」。
1年間の労働許可は、更新が可能なんだそう。
「OPTを取れば、つぎに、とにかく1年働いて更新する。それを繰り返してグリーンカードを取得するのが一般的だったんです」。
じつは、「絶好の働き口もみつかった」と、石橋さん。ウインドサーフィンの会社だった。
「ウインドサーフィントリップにでかけたとき、現地に着くと、『日本人が来るから通訳をしてくれ』って言われたんです。その日本人っていうのが、日本で有名なウインドサーフィンのプロだったので、イエスと返答しました」。
「その縁で、その会社から『働かないか?』と誘っていただいたんです。またとないオファーだったんですが、待てよ、これを受けてしまうと、もう、アメリカから離れられないぞって。今度は、そういう思いがつよくなって、逆に不安になって」。
「帰国」の二文字が頭に浮かんだそうだ。
自由の国で人生を謳歌するつもりで、OPTを取得して、一歩を踏み出した。それにもかかわらず、「帰国」を選択する。
帰国がターニングポイントという一言の意味が理解できるエピソードだった。
帰国後、石橋さんは、大手広告会社に就職する。
「3年半」と石橋さん。
たのしかった?と聞くと、大きく頷く。
「あるカーディーラーのプロモーションで神奈川県限定の『人生ゲーム』をつくったんです」。
神奈川、三浦市で育ってきた石橋さんには、うってつけのプロモーションだった。マスを進むごとに神奈川県で暮らす未来が映し出される。
「濃密な経験を積み重ねて、3年半。いちばんたのしいときに会社を離れます」。
もともと実家に戻るつもりはなかったが、時代は動く。
「ネオ・エモーションで外食事業をスタートするころです」と石橋さん。
水産の加工会社である「三崎恵水産」を母体に、外食に事業を広げる。創業者であるお父様の決断である。
「父はどちらかというと、トップダウンで会社を動かすタイプです。だから、やると言えば、止められません。ただ、外食の経験はありません。だから、それをカバーできればと、息子の私も、人生のコマを一つ動かしたんです」。
石橋さんは、ある外食大手に転職する。
「上場して2年後くらいの時期です。飲食事業を勉強するために入社したんですが、新たにスタートしたコンビニエンス事業に配属され、コンビニの店長になってしまいました」。
それもまた、人生。
進んだはずのコマは、でるサイコロの数で、進んではまた戻る。
「それで、これは長くいても勉強にならないと思って、退職します。でも、多少ネットワークは広がりましたし、当時、いっしょにやっていた仲間が数名、今、うちの会社で働いてくれています」。
ゲームで言えば、石橋さんは、「仲間を得た」となる。
家業に入った石橋さんは、外食ではなく水産事業をメインに仕事をする。
「朝5時から水産の仕事をスタートして、仕入れなどを勉強します」。
活況ある漁港を体験する。小さなころのマグロの匂いが、石橋さんのからだにも染み込んだ。
「5年くらいですね。朝から市場で仕事をして、夕方5時くらいから10時くらいまで、飲食店のほうで働いてドリンクをつくっていました」。
広告代理店の仕事とは対極にあるような、現場の仕事を黙々とこなした。
「大きな転機は、海外に目を向けたことでしょうか。父の目がとどかないマグロの輸出を開始したんです」。
アメリカ留学の経験もある。英語も堪能ではないが、ある程度の会話なら支障がない。
「ここでアメリカに留学したことが、活きてきました」。
海外に出向き、販路の拡大に取り組む。
この事業は現在、10億円の規模になっている。
「中東、東南アジア、アメリカ。このあと、海外で、ある商社といっしょに飲食店をオープンします。シンガポールには今も3店舗あり、先日、マニラでもオープンしました」。
水産業をバックボーンに飲食事業が広がる。
ネオ・エモーションは、その外食を担っている会社である。
この2社をエンジンにして、古い体質の水産業界に新たなエモーションを起こす。海外進出、外食への領域拡大は、その舞台の一つ。
原動力は、いうまでもなく、石橋さんが信じる多くのスタッフたちだ。
石橋さんと、創業者である石橋会長は経営スタイルが大きく異なる。ボトムアップとトップダウン。
石橋さんに、方針をうかがうと、現場に口をださない。私の仕事はスタッフの給料をあげることだと、いう。
「父は、メニューにも口出ししていましたが、私はすべて職人にまかせています」。石橋さんが職人というのは、ネオ・エモーションが展開する廻転寿司ではたらく織人たちのことだ。
(※ちなみに、ネオ・エモーションでは、日本の食文化を継承し世界へ文化を織りなす人を「織人(ショクニン)」と表現している。)
創業者と二代目という立ち位置のちがいかもしれない。
二代目の石橋さんは、ともかく現場から離れて大局的な指示をだす。
「90日で寿司を握るプログラム」もその一つ。2020年からスタートし、毎年、スタッフの手によりブラッシュアップされていく。
このプログラムがスタートした背景には、石橋さんの「売上ではなく、どれだけ寿司職人を育てられるかが企業価値だと思っている」という一言がある。
これをうけスタッフたちが考え、スタートしたプログラムである。それ以外にも「スキルチェック」というしくみも生まれ、こちらは職人のクオリティアップに役立っている。
「美しく素早く丁寧に」という寿司のスキルをチェックする。今まで、修業の年数などで測られ、ブラックボックス化していた職人の技量を見える化した。
「チェックすると、入社して2年半の女の子がいちばんだったこともある」と石橋さん。このスキルチェックは、寿司職人という世界に風穴をあけた。
水産事業では、海外営業もある。こちらは、石橋さんの得意分野だが、これも今はスタッフに任せている。
「やりたいことも今は封印して、みんなに任す。責任はもちろん、私が取る」。
指示されるのではなく、「任される」から自ら考え、動くようになる。トライアンドエラーという発想も根付き始めている。
失敗を恐れず、各自が高いハードルを掲げ、それに向け努力する。いい循環が生まれている。
「好循環ですね」というと、「まだまだなんです」との返答。
「というのも、昨日の自分を超えていくのが、うちで働くみんなのモチベーションなんです。だから、会社も、今までを超えていかなくてはならない。その一つの目標が、回転寿司で初のミシュランの獲得なんです。ビブグルマンでもいい。これだけ回転寿司のお店があるのに、まだ1店もないでしょ。それを、うちの織人たち、みんなに託しているんです」。
たしかに、回転寿司は日本の文化の一つ。世界的にも認められたその文化で、世界のミシュランを獲る。
ちなみに2025年、ネオ・エモーションは、ジャパン・フード・セレクショングランプリ「スペシャリテ部門」でグランプリを受賞している。
「まぐろ問屋」の織人が織りなす「まぐろの恵」という口福なメニューが評価された結果である。
石橋さんがお父様にかわって、社長に就任したのはコロナ禍の2021年。当時、9店舗(MAX19店舗)だった店舗数は、今、12店舗となっている。
「ネオ・エモーションと三崎恵水産の関係でいうと、ネオ・エモーションは、三崎恵水産のいちばんのお得意さんなんです。なので、ネオ・エモーションの業績アップは、三崎恵水産の売上アップに直結します。ネオ・エモーションがエンジンとなって、三崎恵水産の売上を今の60億から100億まであげるというのが、今のもう一つの目標なんです」とのこと。
こちらも、ハードルが高い。
だが、それがいかに高くても、まぐろ問屋の「マグロのにぎり」、そして、そこで働く織人たちは、ミシュランも、このもう一つのハードルも乗り越えるにちがいない。
石橋さんはもう、そのつぎのハードルまで考え始めているかもしれない。

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